가오고략(嘉梧藁略)

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[연구사업]한국학 기초자료사업
규장각 도서자료 연구사업(2단계)
서지사항
분야문학
유형문헌
시대조선
문서종류문집 해설

본문


1871. 鄭元容이 쓴 서문이다.

1871. 尹定鉉이 쓴 서문이다.
自引
李裕元 자신이 직접 쓴 서문이다.
册一
樂府
山居樂四章, 飮一章, 大射一章, 南畝之什二章, 山有鳥矣三章, 摩之山三章, 穴居二章, 古樂府三十一篇, 上雲樂, 妾薄命, 東飛伯勞西飛燕歌, 艶曲二首, 將進酒長曲, 五色羅, 成都鞋, 春意, 白紵詞, 烏夜啼, 鷓鴣二首, 採蓮曲, 長城行二首, 折楊柳歌二首, 踏浪詞, 子夜四時歌四首, 從軍五更轉五首, 長相思, 長干行, 大堤曲, 久別離, 猛虎行, 塞下曲, 靑樓曲, 少年行, 楚宮詞三首, 閨怨, 明妃怨三首, 俠客行二首, 漢宮詞十首, 吳宮詞三首, 海東樂府百首, 箕子樂, 靑邱風雅, 三韓樂, 高句麗, 百濟樂, 渤海樂, 新羅樂, 萬波息笛, 東京曲, 會蘇曲, 兜率歌, 憂息樂, 碓樂, 鵄述嶺曲, 恒忉歌, 陽山歌, 處容歌舞, 黃昌郞舞, 宮庭柏, 繁花曲, 利見臺歌, 木州歌, 半登山曲, 鄕樂, 高麗樂, 敎坊女弟子, 絃坊, 壽星明, 萬年懽, 月華淸, 動動, 無碍, 五冠山, 楊州曲, 月精花, 伐谷鳥, 金剛城, 叢石亭歌, 居士戀, 沙裏花, 長巖歌, 濟危寶, 安東紫靑, 松山歌, 禮成江, 冬柏木, 寒松亭, 鄭瓜亭, 風入松, 夜深詞, 翰林別曲, 紫霞曲, 窮獸奔, 西湖曲, 延陽歌, 迎仙樂, 太平簫, 雅樂署, 唐鄕樂, 昭代樂, 鼓吹樂, 唐部, 鄕部, 唐呈才, 鄕呈才, 勝國樂, 養老宴, 親耕樂, 親蠶樂, 大射禮, 俗部, 雅樂, 進豐呈, 進宴樂, 獻仙桃, 壽延長, 五羊仙, 抛毬樂, 蓮花臺, 夢金尺, 受寶籙, 覲天庭, 受明命, 荷皇恩, 賀聖明, 澤聖, 六花隊, 曲破, 保太平, 定大業, 鳳來儀, 牙拍, 響鈸, 舞鼓, 鶴舞, 敎坊歌謠, 文德曲, 朝廷樂, 三調, 眞勺, 補製散樂十六首, 新羅八關會, 玉笛, 高麗八關會, 老人星, 昭代散樂, 除夕儺, 黃菊詞, 觀音讚, 陶山九曲歌, 石潭九曲歌, 關西別曲, 關東別曲, 思美人曲, 將進酒, 鐵嶺歌, 山有花, 訓民正音五首, 俗樂十六歌詞, 楚漢歌, 舂杵歌, 漁父詞, 將進酒, 處士歌, 彈琴詞, 春眠曲, 關東別曲, 梅花詞, 白鷗詞, 黃鷄詞, 道鼓樂, 名山詞, 相思別曲, 勸酒歌, 十二月歌, 觀劇八令, 廣寒春第一令, 燕子匏第二令, 艾如帳第三令, 中山君第四令, 三絶一第五令, 阿英娘第六令, 花中兒第七令, 長亭堠第八令, 靈山先聲五章, 小樂府四十五首, 楊柳枝, 荷葉杯, 更漏子, 蝶戀花, 竹枝, 天仙子, 夢江南, 八拍蠻, 歸國遙, 中興樂, 滿庭芳, 生査子, 憶少年, 酒泉子, 朝中措, 西江月, 武陵春, 問靑山, 漁家傲, 憶王孫, 驀山溪, 探春令, 好事近, 春光好, 尋芳洲, 滴滴金, 一剪梅, 誤佳期, 醜奴兒, 浪陶沙, 浣溪紗, 一葉索, 憶秦娥, 山中曆, 訴衷情, 鷓鴣天, 無價寶, 笑白髮, 分憂樂, 小重山, 醉落魄, 風流子, 鳳凰臺, 沅郞歸, 南山壽, 四時詞十三首, 正月, 二月, 三月, 四月, 五月, 六月, 七月, 八月, 九月, 十月, 十一月, 十二月, 閏月, 詩餘二十六調五十四闋, 御街行雙中調歌行題, 長相思雙小令三首, 調笑小令單調令字題, 如夢令, 相思兒小令雙調, 木蘭花, 聲聲慢雙長調慢字題, 紅林檎近雙中調, 花犯雙長調犯字題, 甘州遍雙中調遍字題, 胡蝶兒雙調小令兒字題, 搗練子單調小令子字題, 杏花天雙調小令天字題, 浣溪沙二體並調地理題, 第二體, 洛陽春雙調時令題, 臨江仙雙調人物題, 醉太平雙調小令人事題, 鳳凰閣雙中調宮室題, 荷葉杯單調器用題, 風中柳雙中調花草題, 一籮金雙中調珍寶題, 杏園芳雙調聲色題, 十二時三疊長調數目題, 摘得新單調通用題, 漁父單調二字題, 感恩多一體雙調三字題, 異域竹枝詞三十首, 琉球國, 安南國, 暹羅國, 蘇祿國, 南掌國, 緬甸國, 大西洋, 合勒未祭亞省, 翁加里亞國, 波羅泥亞國, 洋黑鬼奴, 洋僧尼, 小西洋國, 英吉利國, 法蘭西國, █(口+瑞)國, 日本國, 馬辰國, 汶菜國, 柔佛國, 荷蘭國, 俄羅斯國, 宋腒朥國, 東埔寨國, 呂宋國, 咖喇吧國, 嘛六甲國, 蘇喇國, 亞利晩國, 西藏諸番, 附金石索五十九首, 闕里銅器十事, 鍾鼎之屬, 戈戵之屬, 量度之屬, 雜器之屬, 泉刀之屬, 璽印之屬, 鏡鑑之屬, 碑碣之屬, 瓦甎之屬
册二

孝顯王妃輓章, 綏陵遷奉輓章, 憲宗大王輓章, 哲宗大王輓章, 哲仁大妃輓章, 延祥, 春帖四首, 臘月春帖, 端午帖, 酒聯句榻前製進, 聽蟬賡進, 春和賡進, 小酉齋揭板賡進, 華城幸行時承史閣臣七言絶句製進未老閑亭揭板, 社稷祈穀大祭賡進, 奉謨堂賡進, 大報壇賡進, 華城巡城時賡進, 華城行宮賡進, 辛未仲秋上歷臨政院內閣玉堂有御製三絶句命侍臣賡進臣以試事入侍景武臺以曾經三處長官使之一體賡進, 政院, 內閣, 玉堂, 壬申移摹太祖大王元宗大王御眞權奉泰元殿以親行端午祭詩命諸臣賡進, 春宮奏請册禮辭陛日御製賡韻二首, 楊山百老會圖, 雨中遣懷呈養硯山房, 紫霞老人賞牡丹拈詩, 聞舅氏致仕有作, 降仙樓, 滌暑樓, 海村, 秋五詠呈養硯山房, 梧桐, 落葉, 秋草, 敗荷, 芭蕉, 春日七詠, 杜鵑, 楊柳, 梨花, 杏花, 辛夷, 丁香, 芳草, 有一老人抱古今遺墨殆數百卷示余請尾題但道芝山而去, 題武宗南巡圖, 紫霞老人得余菊盆有作見寄, 月夕, 擇蠶, 慵粧, 題盜詩圖, 別趙侍御鳳夏赴燕, 過長林渡浿江, 渡江都甲串津有感, 鼎足山城, 春, 李禮叟儒膺大人邵齡躋八識喜拈年字, 三十六洞, 闕里古檜圖, 題嗅梅道人指畫, 壽鄭茂朱始容春堂回巹之禮, 送客還京, 次經山相公就養韻寄成都倅鄭周溪基世, 次經山相公韻贈嘉山妓蓮紅, 露宿, 車中, 遼野途中, 塔上望嗚呼島, 姜女廟, 澄海樓玩月, 燕昭王廟, 精忠祠, 歷代帝王廟, 虎圈, 金臺, 蘆溝橋, 文丞相祠, 玉泉寺, 薊門烟樹, 別王梅初彦渠, 別李雨帆伯衡, 別馮魯川志沂, 別王艧軒楚材, 聘丈內外回甲屆於連年以一絶賀之, 家大人以年貢正使來臨灣府小子境上榮覲翌年有賦識喜, 湖南畢讀鄒經封章乞還, 賀金尙書學性春堂七旬, 別申直學錫禧觀察海西, 壽藏, 自題小像, 癸丑續蘭亭會圖次王玄之韻, 秋潭趙尙書徽林熱河使歌, 上經山相公回榜, 柳判尹和源輓, 七月初一日上乞休疏有感作, 憶芙蓉堂用宵字三疊, 東井聖水歌, 山仰亭次梧川先生韻, 戊辰力辭相職還鄕到退朝院有作, 次鍾山侍郞韻, 追賦鍾山回甲韻, 追賦錦舲回甲韻, 追賦秋潭回甲韻, 追賦蕉坡回甲韻, 上乞骸章有感, 追賀莘憩李公敦榮致政, 憲宗誕辰有感, 自東陵還鄕路遇鄕奴負梅花以去, 聞周溪諸公賞楓水落道峯有贈, 慶會樓宴群臣隨諸大夫後參班退出不勝慶忭之忱, 蓬萊歸路題五百間亭, 贈趙內翰定熙赴燕, 壽石居六十一歲, 申摠使命淳輓, 次心庵相公政府板上韻, 次畿伯朴錦舲宣飯韻, 賀趙星山然昌回甲, 李大司馬景夏回甲, 紅葉亭, 贈石儂回甲, 春盡聽鶯, 方通津禹敍輓, 聞穎樵迎婦有作, 壬申春親行釋奠祭召諸生講道又下御製命賡進臣在鄕廬敬次原韻, 賀經山相公九十歲, 朴西溪春帖詩云靑山不改色流水不改聲惟願主人翁不改幽棲情余慕其志依其韻書揭門楣, 詠十三經, 周易, 尙書, 毛詩, 周禮, 儀禮, 禮記, 論語, 孝經, 左氏傳, 公羊傳, 穀梁傳, 孟子, 爾雅, 景召大祥日作, 林下廬淘暑鎭日所聞只蟬聲, 祈堂嘲余無事生病戲吟三絶, 贈老妓, 次韻李上舍啓沼述懷詩, 愼言, 次歸去來辭韻, 范蠡五湖圖次益齋韻, 讀易次鄭圃隱韻, 詠古人次徐四佳韻, 頭疼詩次盧蘇齋韻, 慶會樓進豐呈詩次金佔畢齋韻, 池魚歎次金河西韻, 三老詩次蘇陽谷韻, 老將, 老儒, 老奴, 竹西樓詩次申企齋韻, 詠退川次李退溪韻, 觀海詩次李栗谷韻, 自省詩次鄭寒崗韻, 詩酒歌次權石洲韻, 問雲次柳西厓韻, 聽澗次尹梧陰韻, 梳罷詩次成牛溪韻, 四時詞次李漢陰韻, 豚兒晝寢戲書次李芝峯韻, 四愁吟次李月沙韻, 山中相次申象村韻, 藍輿次崔簡易韻, 鑷白鬚次李東岳韻, 皓首吟次張旅軒韻, 行路難次鄭東溟韻, 放雀詩次崔遲川韻, 志悔次李澤堂韻, 癕瘇木次趙龍洲韻, 一字至十字詩次張谿谷韻, 谿谷倣楚臣賦大言小言晉人有危語了語唐僧皎然與顔魯公共作饞醉滑暗等語廣而作二十四章略次其韻, 大言, 小言, 危語, 安語, 了語, 饞語, 醉語, 滑語, 暗語, 見子婦次李白江韻, 詠塵次金淸陰韻, 形影問答次李西河韻, 左太冲招隱詩次兪市南韻, 白鷺洲次宋尤菴韻, 自訟詩次尹明齋韻, 山日牖次許眉叟韻, 人問居答次朴西溪韻, 修眞圖次南藥泉韻, 收蕎麥次金文谷韻, 謝人送酒次閔老峯韻, 薊州歎息詩次徐晩靜韻, 聞家園諸花盡開次金息菴進退韻, 少睡詩次金瑞石韻二首, 觀稻莖含穗次李靜觀齋韻, 嘲醫詩次金三淵韻, 是非歎次朴久堂韻, 古五雜組次崔昆侖韻, 兩頭纖纖詩又次, 梅花詩次李參奉韻, 勸農次趙后溪韻,
册三

檀君祠, 箕子祠, 東明王祠, 屬南社諸公八首, 屬周溪, 屬秋潭, 屬霞山, 屬錦舲, 屬鍾山, 屬石居, 屬蕉坡, 自屬, 荷珠, 四時香館雜詠三十首, 續題田園雜詠十首, 眞殿茶禮退後作, 追賦海左名勝五十三首, 龍門山, 金水亭, 禾積淵, 三釜淵, 道峯, 南漢西臺, 懸燈寺, 靑龍寺, 杭眉亭, 朴淵, 逝斯亭, 丈人臺, 湧金樓, 拱北樓, 白馬江, 俗離山, 玉笋峯, 舍人巖, 邊山, 松廣寺, 金山寺, 凝香閣, 廣寒樓, 七山, 達城, 太白山, 嶺南樓, 鳩峴, 結浦, 首陽山, 玉溪亭, 月波樓, 石洞, 練光亭, 乙密臺, 淸流壁, 聚勝亭, 樂民樓, 馳馬臺, 龜景臺, 石門, 長安寺, 摩訶淵, 歇惺樓, 表訓寺, 須彌塔, 楡店寺, 九龍淵, 三日浦, 叢石亭, 鏡浦臺, 雪嶽, 廣石洞, 紫藤十五韻排律, 南華經, 論史次洪祁堂韻, 吟病, 史贊十五首, 秦, 漢, 東漢, 蜀漢, 魏, 吳, 晉, 六朝, 北魏, 隋, 唐, 五季, 宋, 元, 明, 史詠四十二首, 管仲, 魯仲連, 趙盾, 蘧伯玉, 屈原, 商鞅, 季札, 伍子胥, 范蠡, 樂毅, 荊軻, 范增, 田橫, 張良, 韓信, 四皓, 賈誼, 李廣, 董仲舒, 東方朔, 蘇武, 疏廣, 楊雄, 嚴光, 郭泰, 諸葛亮, 杜預, 陶淵明, 陶弘景, 崔浩, 魏徵, 顔眞卿, 張巡, 李泌, 司空圖, 趙普, 錢若水, 呂夷簡, 王安石, 蘇軾, 岳飛, 文天祥, 皇明史咏四十五首, 徐達, 劉基, 常遇春, 李文忠, 湯和, 沐英, 李善長, 花雲, 兪通海, 胡大海, 廖永安, 宋濂, 方孝儒, 鐵鉉, 黃子澄, 景淸, 耿炳文, 姚廣孝, 楊士奇, 夏原吉, 李東陽, 李夢陽, 薛瑄, 陳獻章, 王守仁, 茅坤, 葉向高, 顧憲成, 左光斗, 楊漣, 文徵明, 戚繼光, 孫承宗, 楊鎬, 李如松, 麻貴, 徐光啓, 袁崇煥, 李攀龍, 王世貞, 董其昌, 陳繼儒, 楊一淸, 瞿式耜, 史可法, 太湖石歌, 退士潭十韻排律, 夏夜長三首, 先王考自銘成小子敬書也有議於養硯老人今三十五年閱老人藁見紀實詩愴感次原韻, 次韻三詩合軸, 次坦齋表叔韻, 次經山相國韻, 次紫霞老人韻, 嶠南一老人扶杖來見贈余一紅葫蘆曰去仙不遠故遺之戲謝一詩, 朴錦舲輓, 紅蓼, 太倉廩粟有白色作米飮最佳, 眼昏耳聾歎, 述懷二十五首, 秋夕, 龍津二首, 楊根途中, 砥平途中, 嶺上, 洪川衙軒次鄭經山相國板上韻, 村女織二首, 問路, 麟蹄店, 店中所見, 渡彴, 入峽, 合江亭, 阻雨愁, 峽夫, 峽婦, 峽童, 蝨, 蜂, 尋路, 寒溪瀑三百六十七言, 雙瀑, 水簾洞, 五歲庵, 大藏經, 萬景臺次洪冠巖韻, 神興寺次經山相公飯僧韻, 義湘臺觀日出, 次趙東海日出韻, 觀音窟, 祥雲驛, 鹽盆, 浪花, 臨瀛竹枝詞十首, 淸澗亭, 永郞湖, 鏡浦臺, 江陵曉發, 竹西樓, 大關嶺, 五臺山, 月精寺, 金剛淵, 見秋潭題名作, 中臺, 朿雲早發, 山中, 出山, 摩橋逢平陵丞舊日錄事也戲吟一律, 獵夫二首, 門峴, 途中遙望, 橫城邑, 宿原州境, 憩黃郊店, 場市, 過楊根酒店, 店室黑, 月溪, 泛波亭, 綿花, 秋懷詩八十二首
册四

聞社中諸公作南漢賞楓之行以詩寄之, 李台卿輓, 儒佛歎, 德寺, 萬丈峯歌, 黃楓歌, 秋日撰鄭錦南碑見鄭東溟詠張玉城詩語多慷慨令人淚落三公皆白沙先生門人也依韻遂成一詩以寓感懷, 又次原韻, 懷古人辭, 觀穫三首, 野色, 懷長老倣古人體十九首, 南金陵公轍, 沈斗室象奎, 李桐漁相璜, 朴荳溪宗薰, 趙雲石寅永, 權彝齋敦仁, 金游觀興根, 朴梧墅永元, 趙心菴斗淳, 徐楓石有榘, 洪海居顯周, 李荷居若愚, 李古東翊會, 申紫霞緯, 趙東海宗鎭, 金秋史正喜, 尹褧堂正鎭, 趙晴沼容和, 金毅齋啓泳, 贈趙菊人耆永重九生日, 石居以黃楓歌韻詠余遊山詩甚鉅觀更以原韻和之, 陳箚乞解兼務到退溪院承批投宿佛巖寺, 紹川叔丈回甲祀子行茶禮聞而有作以志追感, 山飯, 次蹇道人韻, 自笑, 林下廬草成筆記聞扈衛大將之命推硯有吟, 景昌子輔榮登第石坡公以詩賀之余依韻屬之, 屬輔榮, 山居, 效張平子四愁詩體二首, 怪禽言, 枯樹行, 山齋貯單葉紅梅乃月沙先生廟前遺種也喜吟一詩, 悲春梅, 江中石, 外孫趙重甲五歲生日畢讀千字文喜而有作, 行年歎, 樞府扈廳無公事晩登雙檜亭, 覓花, 肅謝領樞啣復登雙檜亭, 癸酉春花發不幾日多風雨雨收花猶未衰感伯臣言有賦, 寄上行人李判樞根弼, 春菜歌呈梣溪老人, 還鄕寄伯臣, 踏落花, 李惠吉尙迪鴝鵒硯歌, 喜還鄕, 送春曲, 花神怨, 答花神怨, 寄松厓山人, 詠歸亭觀桃花十首, 金晩齋度支世均舊日蘭臺右僚也其甲日滯鄕廬未得往參壽席以詩記之, 寄任尙書百秀致政, 奉先寺遇雨, 紫岑綠蓴歌, 舊篋得一紙乃勅使瑞常贈余詩也音韻淸新追步書懷, 余曾守灣州時中州人贈一古軸題云靑草坡前百萬兵紅紗帳內一書生而今始信文章貴夜聽元戎報五更款識曰崇禎十二年雁門孫傳庭書詩與筆雄健可敬, 古槐濃曲, 贈筇晩齋, 葛島石刻歌, 何不飮歎, 咏櫻桃次白少傳十四韻排律, 石蓴, 夜雨, 景陵忌辰二首, 詠六畜, 馬, 牛, 羊, 犬, 豕, 鷄, 縛鷄詩, 月夜見渭師寄詩, 木屐歌, 獵鹿, 南瓜行, 竹露茶, 雨中撥憫二十五首, 怪聵聾曲, 聞鏡浦臺重修有作, 養硯老人墨竹歌, 褚本聖敎序歌, 次祁堂韻三首, 寄尹直學士滋悳, 蛛網, 舞鶴, 庖丁解牛, 復次經臺韻, 贈別松禾倅朴用簡, 買瓜十韻排律, 次韻韓魏公喜雨詩, 山中吟, 秋興八首,
册五

中嶽泰室石闕帖, 岣嶁碑歌, 四月初一日聽鶯, 林下廬牡丹盛開, 玉獅子, 又憶芙蓉詞, 咏花史, 漸漸詩戲題壁上, 山中, 朴瓛齋政府致奠日作, 效放翁體, 鄕園, 偸閒次放翁韻, 平生, 種玉簪, 睡起, 自笑, 雨中酌未熟酒, 解官, 自訟, 聽雨, 暑, 待人, 夏日, 贈童, 齒疼, 偶成十五首, 子鹿歌, 放鹿歌, 續題放鹿招鹿詞七首, 贈友人, 酒史, 一之吏, 二之徒, 三之容, 四之宜, 五之遇, 六之候, 七之戰, 八之祭, 九之典刑, 十之掌故, 十一之刑書, 十二之品第, 十三之杯杓, 十四之飮儲, 十五之飮飾, 十六之歡具, 花史, 一花目, 二品第, 三器具, 四擇水, 五宜稱, 六屛俗, 七花祟, 八洗沐, 九使令, 十好事, 十一淸賞, 十二監戒, 歎老, 效濂洛體, 雨霽, 贈少年, 少年答, 老狂, 自道, 朝起, 朴瓛齋在浿城書詑簇洞鄕廬約以相尋丁丑瓛齋靈筵搬于此不禁舊日之懷齎一詩哭而還, 渡石林津, 贈灣府尹林吏部翰洙, 魚盆, 立秋, 除草壽藏, 抄秋, 嘉梧別業三十韻排律, 秋山, 謝南漢留守惠來禽, 吟病, 送妓, 古女樂詞, 擊壤圖, 午憩聽蟬, 碧城女, 余在鄕廬看花頗足因公入城少滯未還寂寞太甚偶得日本移來百日花檀特仙翠雀蝴蝶等種列於軒檻依然有山林之趣作詩謝之三首, 次游藏園九月八日回甲韻, 洪祁堂判樞訪余於鄕第半日陪話翌日以詩問還節, 玄君昔運昨年歸自江戶駄鳳尾草以遺瀟灑可賞, 修德山, 尋谷雲洞, 淸聖廟忠孝碑歌, 幽居, 華岳, 丁丑重九夢遂初志還鄕有吟翌朝明明可記, 九月少晦潁樵相公贈盆菊以一絶謝之, 潁樵惠菊未衰余還鄕作還菊詩請正, 倭使入京有日不得還鄕夜坐偶成, 送晩齋伯關北, 寄李君俊養回甲, 余少時見宋製鸚鵡硯於養硯山房是梣溪物也老霞作詩記之後四十年流落市肆仍感賦舊日之緣, 司馬鍾號繡谷善寫生名於道光年間余購一紙於燕市歸使改裝裝家火此紙幸得全喜題其尾, 退溪詩有打鐵成針欲作醫作醫那復問黃歧十分鍼法從康節刺得人心百疾夷有感隨筆書之, 次祁堂謝摠菜韻, 四月一日, 丁香樹下聽香憶名茶五首, 養硯山房屢易主感而有作, 冒雨宿知琴村, 室雲九曲歌次武夷韻, 傍花溪, 神女峽, 籠水亭, 飛雪潭, 白雲潭, 臥龍潭, 明月橋, 疊石臺, 隆義淵, 魚獵五首, 七星亭, 水丹花, 滯雨, 三絃, 客苦, 面臺村, 重遊白雲潭, 憶谷雲山水, 戲吟, 洛陽道九首, 四月霖, 中州人士贈古墨二笏卽表氏阮氏物也題其函頁, 自弇贈印章三方篆文可敬, 繼兵部鍾式硯, 藏園金橘咏, 吳彭年茶題, 虎惺上人薦藥見效詩以謝之, 初夏, 老, 睡罷, 次游天愚摩山四詠韻四首, 一品紅, 山響相國見余車具之弊惠一新絛立伻謝之, 還鄕, 寄吉林將軍銘鼎臣, 曉窓蟬聲, 留都所次石坡大老贈別詩韻, 還鄕又次早梅韻二首, 又次原韻, 春宮內講日書示諸公, 抄冬朝起, 冬夜, 次韻贈上勅繼述堂, 次上勅韻贈副勅恩仁峯, 致仕疏承批後還鄕, 東里丈人回榜詩韻, 嘉梧老人還鄕置水仙花一盆於車前命僕夫掛茶壺遇野店溪舍輒啜一盞水睨視盆景, 湖州羊鬚筆至寶也余近得一枝摩挲歎曰老無用也遂題閣頭, 正陽寺僧巨淵來訪, 早春, 早發, 啜茶吟三首, 淸明節點檢花盆三首, 晝眠三首, 震元赴覆試歸訪, 閒坐, 水仙經冬不花暮春始發其香尤奇, 欲少年行, 詠山本園茶種, 綾森, 鷹爪, 柳露, 梅露, 菊露, 初摘白, 明月, 淸風, 薄紅葉, 老樂, 友白髮, 南山壽, 淸明雨, 病起, 向退川憩廬, 書給兒子少草二字, 次伯臣雙檜亭韻, 山陵陪香, 留都翌日還鄕, 四月八日, 陳疏在鄕京洛無一字來問笑以拈韻, 立秋, 早秋, 憶北固樓, 答石居, 戲成, 睡起, 七夕, 咏紅蕉次漁洋山人韻, 試新茶, 贈人, 秋懷, 題畫效李義山體, 題道人山居圖, 無眠, 餞暑, 看近代筆記隨意成句, 秋風憶藏園主人, 書示鄭誾朝及第, 七月十八日將赴眞殿茶禮有感, 承批退川歸, 賀石坡公得丹桂黃橘兩樹, 賜惠橘茶, 呈乞退十七疏還鄕, 呈仁川不可開港疏到退川承批冒雨還鄕, 次石坡公雨中韻, 潁樵金公輓, 感秋, 壽榮特除同副承旨, 坐雪, 種樹, 聞姜奉賀休致作, 還鄕, 春雨, 惜春, 看春, 消遣, 買菜, 睡起, 四庚日偶作, 閒, 晩碧堂, 金薇西尙書嘗稱庭前白暎山約余同賞余久滯鄕山見花開斗憶薇西之約, 憫老, 喚童, 謝貞隱相公贈密陽黃茶二首, 贈修信使金承宣弘集, 窮語, 每端午油扇懸玉樞恩賜今年在鄕廬祗受, 山中, 還鄕之路觀濬川, 秋意, 林下孤吟, 和寄永平府, 乞退二十一疏準請書呈貞隱奉賀, 致仕日作, 受月致, 十一月二十六日, 壽石坡公回甲, 恩賜瓊玉膏, 夜寒, 退川次祁堂韻, 次石坡公玉沼韻, 竹圃蓉山聯訪依韻答之, 次竹圃午憩韻, 乞茶申判樞, 夏晝, 七月之望漁人送一尺鱸魚韻事也題碧蘆渠石柱, 申㰔疏有逼語, 矗石樓, 蒙赦日敬審先世遺碑感而有作, 忠烈祠, 過智異山, 鎭海別諸君, 星州遇除夕, 望岐城, 望伽倻山, 鳥嶺, 春宮冠禮後廟謁日作, 致範造送小麵機, 題耆社帖, ,夢中作, 岐城拾紙, 岐城錄, 靈壽杖, 辛巳往倭船路中次河東韻, 余謫居也游藏園披輿地圖作一絶近始流出不知游君今在何處甚恨, 附原韻(游智開), 石鼓歌, 鄭周溪自京來訪後數日李台源命又自德沼來訪用耆社韻成一詩分送兩處, 祁堂相公調病石泉亭余亦周年吟病適少可還鄕路歷敍阻懷說病相慰公誦近作一詩音韻淸亮非珍攝中所得也追步原韻以呈, 受耆社酪粥, 唐豆舍遇雪, 甲申歲首作, 聞祁堂久疾之餘出肅樞御書賀尾題, 見藥泉集公八月配巨濟賞柚實作二十首詩余亦八月到配得見此物三年後居人寄一箱來因次藥泉韻, 遣地方官存問, 亡室朞日贈五台, 立春, 曉起, 咏僮, 偶題, 自岐城恩宥正月十日還家遇伊日感舊有詩五首, 岐城竹枝詞, 鄭禹書尙書來訪鄕廬冒雪還到退川憩廬題詩而去甚合作, 春宮誕日有病不進, 李友石尙書望九之年卽其胤回甲而特躋正卿甚稀貴以一詩賀之, 金判書翊鎭輓, 病臥, 補題延壽方二首, 癸未入耆社, 成都事冕鎬冒雨來訪, 早起吟三首, 悼亡詩, 甲申臘月二十一日作, 乙酉二月初一日書示家人, 關北伯鄭栗山求樂民樓額字此政余曾遊處欣然應之尾題一絶, 聞經臺致仕歎余之積苦, 聞石榮榜聲入城, 暮投水原北門外, 次趙玉垂詠水仙梅花韻, 雪中作, 淡巴菰行, 石榮初入堂後, 挹淸樓, 答玉垂, 回巹日尋夫人墓
册六
檢閱援例疏 (1)
妻三寸인 우의정 鄭元容(1783∼1873)이 春秋館 監事를 겸하고 있기 때문에 避嫌에 의해 자신의 춘추관 檢閱 임명을 취소해 줄 것을 청한 상소문이다.
辭奎章閣待敎疏 (2)
자신의 능력에 비해 과분한 직임이라며 奎章閣 待敎의 사직을 청한 상소문이다.
別兼春秋檢下疏 (4)
겸대하고 있는 春秋館 檢閱의 사직을 청한 상소문이다.
以執義聲討陳箚諸臺疏 (5)
사헌부 執義로서 藥院의 신하들이 問候하는 과정에서 저지른 실수를 지적한 상소문이다.
冬雷後應旨疏 (6)
겨울에 우레가 친 것을 계기로 임금의 求言에 응해 올린 상소문이다.
罪人酌處後覆難疏 (8)
罪人을 拿鞫하기를 청한 상소문이다.
辭吏曹參議疏 (9)
吏曹參議의 사직을 청한 상소문이다. 관직에 진출한 이후 계속해서 임금의 두터운 은혜를 받는 것에 비해 자신의 능력이 부족함을 강조했다.
辭全羅監司疏 (10)
전라도 관찰사의 사직을 청한 상소문이다. 막중한 임무를 수행하기에 연륜이 부족하고 재능이 부족함을 강조했다.
辭全羅監司陳情疏 (12)
전라도 관찰사의 직임이 모두 바라는 바이지만 자신에게는 과분한 직임이라며 사직을 청한 상소문이다.
辭嘉善疏 (14)
嘉善大夫(종2품) 품계를 하사받는 것에 대해 사양을 청한 상소문이다.
以都承旨陳苫餘情勢疏 (16)
도승지로 재직하며 신변의 상황에 대해 아뢴 상소문이다. 부친상을 당한 것과 老母의 나이가 칠순에 임박했다는 것, 임금으로부터 황공한 처우를 받고 있음 등에 대해 간략히 아뢰었다.
辭吏曹參判疏 (18)
吏曹參判의 사직을 청한 상소문이다.
辭吏曹參判再疏 (20)
吏曹參判의 사직을 청한 두 번째 상소문이다. 재능의 부족함과 질병으로 인해 힘써 노력하지 못한다는 자신의 상황을 강조했다.
辭奎章閣直提學疏 (22)
奎章閣의 直提學은 자신에게 과분한 직책임을 강조하며 사직을 청한 상소문이다.
副提學未徹疏 (24)
홍문관 副提學(정3품)의 사직을 청한 상소문이다. 자신의 재능에 비해 너무도 막중한 직책임을 강조했다.
辭資憲疏 (26)
資憲大夫(정2품)의 품계를 하사받은 것에 대해 사양을 청한 상소문이다.
辭藝文館提學疏 (28)
藝文館 提學(종2품)의 사직을 청한 상소문이다. 홍문관과 예문관의 제학은 모두 司命을 관장하고 考課를 주관하는 막중한 자리인데 자신은 그에 해당하는 능력이 없다고 사양했다.
別雲劍懸頉譴罷分揀後自劾疏 (30)
사고로 인해 別雲劍으로 참여하지 못한 이유에 대해 스스로 해명한 상소문이다. 모든 것이 자신의 잘못임을 강조했다.
黃海監司赴任後辭疏 (31)
黃海監司에 부임한 후 사직을 청한 상소문이다. 칠순이 넘은 노모에 대한 걱정과 자신의 질병으로 인해 사직을 청한다고 밝혔다.
辭黃海監司再疏 (33)
黃海監司의 사직을 청한 두 번째 상소문이다. 임금을 섬기는 것과 부모를 봉양하는 것이 다 같은 마음에서 나오는 것임을 강조하며 팔순을 바라보는 노모에 대한 봉양을 걱정했다.
移拜咸鏡監司後辭疏 (35)
咸鏡監司에 임명된 후 사직을 청한 상소문이다. 함경도가 조정의 근본이 되는 지역이라는 점을 강조하고, 老母의 봉양에 대한 걱정을 함께 언급하며 사직을 청했다.
辭崇政疏 (37)
崇政大夫(종1품)의 품계를 하사받은 것에 대해 사양을 청한 상소문이다.
辭咸鏡監司疏 (39)
칠순이 넘은 老母의 병환을 걱정하며 咸鏡監司의 사직을 청한 상소문이다.
辭咸鏡監司請省先院疏 (40)
咸鏡監司의 사직을 청하며 올린 상소문이다. 칠순이 넘은 노모의 병환이 무엇보다 걱정이고, 또한 아울러 8대조 白沙 李恒福이 北靑에 유배되었을 때 세운 老德書院에 찾아가 예를 취할 수 있도록 허락을 청했다.
辭左議政疏 (42)
左議政의 사직을 청한 상소문이다. 宰相이라는 자리가 군주의 다스림은 물론 세도 및 민생과 직접적인 연관이 되는 매우 중요한 자리임을 강조하며 동시에 자신의 능력은 그를 감당할 수 없다며 사직을 청했다.
再疏 (45)
左議政의 사직을 청한 두 번째 상소문이다.
三疏 (47)
左議政의 사직을 청한 세 번째 상소문이다. 자신은 先祖인 文忠公 李恒福의 德業과 名節에 오히려 흠절을 가하는 인물이라며 극력 사직을 청했다.
北道犯越事自列箚 (49)
北道의 국경을 넘었던 일에 대해 스스로 진달한 箚子다. 자신의 잘못임을 인정하고 법에 의해 엄중히 처단해 줄 것을 청했다.
冬雷後聯箚 (50)
겨울에 우레가 친 이후 聯名하여 올린 箚子다. 하늘의 譴責에 대해 聖學에 힘쓰고, 조정의 기강을 바로잡을 것을 강조했다.
請暇辭兼任箚 (53)
휴가를 청하며 동시에 겸대하고 있는 직책의 사직을 청한 箚子다. 楊州에 있는 先塋을 살펴보기 위해 휴가를 청하면서 아울러 겸대하고 있는 史局과 藥院의 직책이 잠시도 자리를 비울 수 없는 막중한 자리임을 강조하며 사직을 청했다.
論金李兩家事箚 (54)
前 牧使 金有喜의 家奴가 아뢴 일에 대해 논하며 올린 箚子다. 김유희의 둘째 아들 金商綺의 다섯째 딸이 李禹鉉의 아들인 李源百과 혼인을 한 후 여섯 달 만에 아이를 낳은 것을 두고 이씨 집안에서 이혼 소송을 낸 것에 대해 처분해 줄 것을 아뢰었다.
罪人覆逆聯箚 (55)
金龜柱의 罪名을 말소하고 관작을 회복시켜 주며 金始淵을 放逐鄕里하라는 명에 대해 처분을 취소해 줄 것을 청하는 淵名箚子다. 金龜柱의 전후의 罪狀은 나라 사람들이 다 같이 성토하는 것이므로 갑자기 죄를 벗겨주는 은전을 논하는 것은 잘못이라고 했다. 또한 金始淵은 나라의 은혜를 저버리고 가문의 명성까지 떨어뜨렸으니 아직까지 섬에서 살아 있게 한 것만도 이미 크게 형벌을 잘못 적용한 것이라고 관대한 처분에 극력 반대했다.
請退展謁聯箚 (56)
太廟에 展拜하고자 하는 명을 거두어 줄 것을 청한 聯名箚子다.
辭相職疏 (57)
政丞의 임명을 취소해 줄 것을 청한 상소문이다. 만인이 우러러 보는 자리임과 동시에 국정을 총괄하는 중요한 자리에 자신처럼 부족한 사람은 맞지 않음을 강조했다.
再疏 (59)
政丞의 임명을 취소해 줄 것을 청한 두 번째 상소문이다.
論華城各屯疏 (61)
水原府 留守에 임명된 후 華城의 屯田에 대해 논한 상소문이다. 정조가 심혈을 기울여 설치한 이후 70여 년의 세월이 흐른 뒤의 전후 상황과 폐단에 대해 논의했다.
乞解華城留守疏 (63)
水原府 留守의 사직을 청한 상소문이다.
請救護乞解諸司兼務疏 (64)
老母의 병환을 救護할 수 있도록 해 줄 것과 겸대하고 있는 여러 직임의 사직을 청한 상소문이다.
請急陳章乞解兼任箚 (65)
老母의 병환을 걱정하며 겸직의 사직을 청한 상소문이다.
設鞫未參引咎箚 (66)
浮脹을 앓고 있는 노모의 병환을 구호하기 위해 왕래하느라 鞠問에 참여하지 못한 것에 대해 사죄하는 箚子다.
辭復拜相職兼陳苫塊情事疏 (67)
거듭 재상에 임명된 것의 사직을 청하는 동시에 모친상을 당한 상황에 대해 아뢰는 상소문이다. 임금을 섬기는 것과 부모를 섬기는 것이 하나의 일이라고 하면서 너그러운 임금의 은혜에 깊은 감사를 표했다.
再辭兼陳應避仍請休致疏 (69)
거듭하여 사직을 청한 상소문이다. 사직을 청하는 것이 단지 나이가 많고 질병이 있어서가 아니라 작고한 부친의 유언이었으며 자신의 재능이 부족하기 때문이라고 강조했다.
三疏 (71)
宰相의 사직을 청한 세 번째 상소문이다. 형식적으로 사직을 청하는 것이 아니라 진심으로 사직을 청하는 것임을 거듭 강조했다.
乞解兼務箚 (73)
겸대하고 있는 여러 직책의 사직을 청한 箚子다.
乞解諸司提擧箚 (74)
겸대하고 있는 南別殿, 宗廟, 太常寺, 藥院의 提擧 직임의 사직을 청한 箚子다.
乞解諸司提擧箚 (75)
南別殿, 宗廟, 太常寺, 藥院 등 겸대하고 있는 7가지 提擧의 사직을 청한 箚子다.
請寢宗廟移安親行聯箚 (76)
宗廟 永寧殿에 신주를 봉안하는 일에 親行하는 것을 반대하는 聯名箚子다.
請暇乞解提擧箚 (77)
휴가를 청하며 맡고 있는 提擧의 사직을 청한 箚子다.
乞解藥院提擧箚 (78)
藥院 提擧의 사직을 청한 箚子다.
辭委官箚 (79)
죄인을 신문할 때 의정부의 대신 가운데서 임시로 뽑아 임명한 재판장인 委官의 사직을 청한 箚子다.
辭委官再箚 (80)
委官의 사직을 청한 두 번째 箚子다.
辭御營都提調箚 (81)
御營廳 都提調(정1품)의 사직을 청한 箚子다.
乞解諸司提擧箚 (82)
몸 안에 水濕 엉기어 있는 증상인 水飮이 오래되어 痰이 옆구리에 통증을 주는 痰癖의 고질병으로 인해 오래도록 겸대하고 있는 여러 종류의 제조직의 사직을 청한 箚子다.
辭諸司提擧職務相妨箚 (83)
겸직하고 있는 여러 제조의 직을 사직해 줄 것을 청한 箚子다.
辭藥院提擧箚 (84)
겸대하고 있는 내의원 제조의 사직을 청한 箚子다.
乞解七提擧箚 (85)
太常寺, 禁衛營 등 기존의 겸직은 물론 새로 임명된 軍器寺와 軍資監 제조직의 사직을 청한 箚子다.
七夕製讀券官變通箚 (86)
칠석날에 실시하는 과거인 七夕製 讀券官의 變通을 청한 箚子다. 갑자기 吐瀉癨亂으로 인한 寒熱의 身病으로 인해 부득이 하게 참여할 수 없게 되었다고 이유를 설명했다.
秋到記讀券官變通箚 (87)
성균관과 사학에서 공부하는 유생들이 출석 일수를 채운 뒤 가을에 보던 시험인 秋到記의 讀券官 사직을 청한 箚子다. 감작스런 신병으로 인해 어지러움이 심하여 참여할 수 없게 되었다고 불참의 사유를 밝혔다.
乞解兼帶提擧箚 (88)
겸대하고 있는 여러 提調의 사직을 청한 箚子다.
崔益鉉處分後陳和平箚 (89)
崔益鉉에 대한 처분을 단행한 후 화평함을 이룰 것을 청한 箚子다.
乞解十一提擧箚 (90)
겸대하고 있는 11가지 提調의 사직을 청한 箚子다.
再箚 (91)
겸대하고 있는 11가지 提調의 사직을 청한 두 번째 箚子다.
乞解藥院及諸司提擧箚 (92)
겸대하고 있는 內醫院 提調 등 여러 提調의 사직을 청한 箚子다.
册七
諸大臣逬出後自引疏 (1)
조정의 여러 대신들이 죄를 입고 물러난 상황에서 자신은 향저에 내려가 있었던 것에 대해 스스로 해명한 상소문이다.
辭領議政疏 (2)
領議政의 사직을 청한 상소문이다. 부모의 遺命이 고관을 삼가라는 것이었다며 사직을 청했다.
再辭仍請休致疏 (4)
나이가 많다는 이유로 영의정의 사직을 청하며 올린 두 번째 상소문이다.
三疏 (5)
영의정의 사직을 청한 세 번째 상소문이다. 재능은 부족하고, 身病은 깊어 직임을 수행할 수 없다고 했다.
四疏 (6)
영의정의 사직을 청한 네 번째 상소문이다.
領議政肅拜後疏 (7)
영의정에 임명되어 肅拜한 후 올린 상소문이다. 직책에 비해 부족한 자신의 능력을 걱정했다.
辭領議政疏 (8)
영의정의 사직을 청한 상소문이다. 가장 중요한 직책에 자신은 전혀 합당하지 않음을 강조했다.
再疏 (10)
영의정의 사직을 청한 두 번째 상소문이다.
辭産室廳賞典箚 (12)
純宗의 출산을 위한 産室廳에 참여했던 것으로 인해 賞典을 받은 것에 대해 사양한 箚子다.
元子宮水痘平復後辭錫馬箚 (13)
元子(순종)의 水痘가 회복된 것을 기념하여 임금으로부터 말을 하사받은 것에 대해 사양한 箚子다.
次對陳病箚 (14)
임금 앞에 나아가 정무를 보고하는 자리인 次對에서 身病을 아뢴 箚子다. 가래와 천식으로 호흡이 불편하다고 하면서 이것이 모두 자신의 잘못이라 자책했다.
乞解藥院提調箚 (15)
내의원 제조의 사직을 청한 箚子다.
冬雷引咎箚 (16)
겨울에 우레가 있던 일에 대해 스스로의 잘못을 들어 아뢴 차자다. 朱子가 황제에게 올렸던 글을 예로 들며 대신들이 솔선하여 모범을 보일 것을 강조했다.
孫永老疏後辭重拜疏 (18)
조상의 무덤을 꾸밀 때 조정의 비석을 사사로이 가져다 사용했다는 孫永老의 탄핵을 받은 후 사직을 청한 상소문이다. 임금 앞에서 하늘을 속이지 말아야 한다는 것을 스스로 맹서했는데, 자신에 대한 탄핵의 사실 유무를 떠나 이미 스스로가 임금을 기만한 죄인이 되었다며 더 이상 관직에 있을 수 없음을 강조했다.
再疏 (19)
前 掌令 孫永老의 탄핵을 받은 후 사직을 청한 두 번째 상소문이다.
肅拜後辭疏 (20)
肅拜한 후 사직을 청한 상소문이다. 자신으로 인해 조정이 혼란스러워지는 것을 원치 않는다고 사직의 이유를 밝혔다.
再疏 (22)
肅拜한 후 사직을 청한 두 번째 상소문이다. 갑자기 사직을 청하는 것이 아니라 이전부터 물러날 뜻을 가지고 있었음을 강조했다.
因鄭勉洙疏後自引疏 (24)
鄭勉洙의 상소 이후 스스로의 허물을 논한 상소문이다. 前 正言 정면수가 상소하여 자신이 사사로이 수원의 비석을 캐다가 조성의 무덤을 꾸미는데 사용했다는 것은 터무니없는 거짓이라고 해명했다.
附奏後辭免疏 (26)
奏文을 덧붙이며 사직을 청한 상소문이다. 손영로와 정면수의 탄핵 상소에 대한 해명과 함께 자신의 불찰에 대해 깊이 통감한다며 사직을 청했다.
李承澤疏後自引疏 (27)
副護軍 李承澤이 손영로와 정면수의 뒤를 이어 탄핵했는데, 그 후 스스로의 허물을 논한 상소문이다.
再疏 (28)
부호군 이승택의 탄핵을 받은 후 스스로의 허물을 논한 두 번째 상소문이다.
三疏 (30)
부호군 이승택의 탄핵을 받은 후 스스로의 허물을 논한 세 번째 상소문이다.
辭册禮諸差備箚 (31)
왕세자 책봉을 준비하는 冊封都監의 여러 직임과 내의원 제조의 사직을 청한 箚子다.
辭領議政疏 (32)
영의정의 사직을 청한 상소문이다.
辭錫馬箚 (33)
王世子 冊封禮에 참여한 공로로 말을 하사받은 것에 대해 사양한 차자다.
慶禮後辭免疏 (34)
慶禮를 행한 후 사직을 청한 상소문이다. 부족한 재능임에도 불구하고 지극한 임금의 은혜를 입고 있다며 사직을 청하는 이유를 밝혔다.
乞解訓局舌院及諸司提擧箚 (36)
訓練都監과 司繹院 및 여러 관직의 提調 직책 사양을 청한 차자다.
奏請回還後辭賞典箚 (37)
世子冊封奏請使로 燕行하고 復命한 후 하사된 賞典의 사양을 청한 차자다. 연행했던 일은 오히려 스스로에게 영광된 일이지 상을 받을 일은 아니라고 했다.
乞解兼務箚 (38)
겸직하고 있는 훈련도감과 사역원 제조의 사직을 청한 차자다. 훈련도감과 사역원의 일은 변방의 경비와 事大交隣의 막중한 직책임에도 자신은 신병으로 인해 맡은 지 4년 동안 성과를 이루지 못했다고 사직의 이유를 밝혔다.
乞解舌院提擧箚 (39)
사역원의 도제조 사직을 청한 차자다. 사대교린의 중책을 담당하는 자리에 임명된 지 4년이 지났지만 특별한 성과를 보이지 못했음을 강조했다.
請暇乞解藥院提擧箚 (40)
內醫院 提調의 사직을 청한 차자다.
辭錫馬箚 (40)
말을 하사받은 것에 대해 사양을 청한 차자다.
乞解藥院提擧箚 (40)
內醫院 提調의 사직을 청한 차자다.
辭諡册文製述賞典箚 (41)
哲宗妃 哲仁王后(1837-1878)의 諡冊文을 제술한 공으로 받은 賞典의 사양을 청한 차자다.
留都狀啓做錯自劾箚 (41)
임금의 行幸 때에 서울에 남아 머물라는 명을 받은 후 올린 狀啓에서 잘못을 저지른 것에 대해 스스로 탄핵한 차자다.
乞遞壽榮新除奎章閣待敎疏 (43)
아들 李壽榮이 奎章閣 待敎에 새로 임명된 것에 대해 사양을 청한 상소문이다. 스스로가 임금의 지극한 대우를 받은 것도 감당하기 어려운데 재능이 부족한 자식을 규장각 대교라는 중책에 임명한 것을 취소해 달라고 청했다.
再疏 (44)
아들 李壽榮의 奎章閣 待敎 임명을 취소해 줄 것을 청한 두 번째 상소문이다.
論文川松田未徹疏 (45)
함경남도 文川의 松田에 대해 논한 상소문이다. 송전은 太祖의 증조모인 정숙왕후의 능인 淑陵과 20리의 거리에 있는데, 근래에 일본의 선박이 가끔 출몰한다며 이에 대한 대비책을 논했다.
仁川開港不可許施疏 (46)
仁川을 開港하지 말 것을 청한 상소문이다. 인천은 한양과 100리도 안 되는 지척의 거리에 있는 중요한 곳으로 일본에게 개항할 수 없음을 힘써 강조했다.
諸大臣聯箚後對擧疏 (47)
여러 대신들과 함께 聯名으로 차자를 올린 후 함께 아뢴 상소문이다. 개항과 관련한 시국의 일에 대해 간략히 논했다.
王世子痘候平復辭議藥廳賞典箚 (48)
왕세자의 痘瘡이 완쾌된 후 내의원에 상을 내린 것에 대해 사양을 청한 차자다.
王世子痘候平復間日問安置之後辭藥院箚 (49)
왕세자의 痘瘡이 완쾌되어 문안을 드리고 난 뒤 내의원의 사직을 청한 차자다.
擬辭六條薦人箚 (50)
인재를 천거하라는 명령에 대해 아뢴 차자다. 인재를 선발하는 일은 국가의 미래를 위해 반드시 중요한 일임을 강조했다.
擬論倭洋開港事箚 (51)
외국 선박에게 開港하는 일에 대해 논의한 차자다. 일본에게 인천항을 개항한 이후 美國의 개항 요청에 대해 부국과 강병의 일은 외국과의 교섭에 있는 것이 아니라 스스로의 節用과 撫養에 달려있다는 점을 강조했다.
申㰔等疏句語對擧疏 (52)
申㰔 등이 이유원을 탄핵한 상소에 대해 조목조목 해명한 상소문이다. 신섭 등이 이유원에 대해 다른 나라와 내통한 죄를 짓고 李鴻章과 더불어 번번이 서신을 왕래하며 이홍장의 글을 빙자하여 미국과의 통상을 주장했는데, 이에 대해 자신의 뜻은 개항에 있는 것이 아니라 國富의 증대과 國力의 증강에 있을 뿐이라고 해명했다.
恩敍敦諭後疏 (54)
특별한 은혜를 베푼 임금의 교지를 받고 올린 상소문이다.
請收全權諭旨箚 (55)
全權大臣에 임명하라는 명을 거두어 줄 것을 청한 차자다. 기존에 없던 칭호인 전권대신이라는 막중한 직임에 대해 자신의 신병과 재량 부족을 들어 거듭 사양했다.
辭金寶篆文書寫疏 (56)
翼宗의 尊號를 추상하는 일과 관련하여 金寶篆文 書寫官의 사직을 청한 상소문이다.
請寢公私服改定疏 (57)
복식을 개정하라는 명을 거두어 줄 것을 청한 상소문이다. 宣祖 때 李恒福이 의복 개정을 반대했던 것과 憲宗 때 趙寅永 역시 이항복의 말을 인용해 철릭의 복식 개정을 반대했다며 국가의 大節에 관련된 복식의 개정에 반대했다.
諸大臣被罪後匡救仍請同勘疏 (58)
여러 대신들이 문외출송이나 파직의 처벌을 받은 후 이들을 구원하는 동시에 자신도 함께 처벌해 줄 것을 청한 상소문이다. 대신들이 벌을 받을 때 자신은 한양에 없어서 요행히 면했다고 하면서 자신의 죄도 함께 다스려 줄 것을 청했다.
爲嗣子請命疏 (59)
양자를 들여 후사를 잇고자 한다며 허락해 줄 것을 청한 상소문이다. 외아들 李壽榮이 1880년 죽었기 때문에 12촌 동생 李裕承의 둘째 아들 李石榮을 후사로 삼을 수 있도록 허락을 청했다. 이에 대해 허락한다는 답글도 뒷 부분에 함께 실었다.
賀班未參請勘箚 (60)
축하하는 자리에 참여하지 못한 것에 대해 죄를 청한 차자다.
辭玉册文製述官箚 (60)
신병을 이유로 玉册文 製述官의 사직을 청한 차자다.
金在穰疏後擬箚 (61)
유학 金在穰이 시폐에 관해 상소한 후 김시양의 상소에서 자신의 이름이 거론되었다며 반박하여 올린 상소문이다.
辭賞典箚 (61)
賞典의 사양을 청한 차자다.
領相遞後自引箚 (62)
영의정에서 체직된 후 스스로를 책망하며 올린 차자다.
册八
乞致仕疏 (1)
나이가 많아 벼슬을 辭讓하고 물러나기를 청한 상소문이다. 대대로 임금의 두터운 은혜를 입어왔으며 자신 역시 헤아릴 수 없는 큰 은혜를 입었는데, 그에 보답하지 못한 것을 한탄했다. 또한 先親의 遺命이 나이 50에 관직을 떠나라는 것이었다며 사직을 청했다.
乞致仕二疏 (3)
나이가 많아 벼슬을 辭讓하고 물러나기를 청한 두 번째 상소문이다. 부족한 재능으로 오랫동안 관직을 있었음을 강조했다.
乞致仕三疏 (5)
致仕를 청한 세 번째 상소문이다. 純祖 때 族祖 李敬一이 부모의 봉양을 위해 사직을 청하여 허락받았던 일을 거론하며, 老母의 나이가 80이 되었는데 지난 겨울 浮脹의 증세가 심해졌다며 노모의 병간호를 위해 사직을 청한다고 했다.
乞致仕四疏-未反徹五疏見重卜 (7)
致仕를 청한 네 번째 상소문이다. 돌아가신 부친의 관직에 오래 있지 말라는 遺命과 老母의 심해지는 病勢로 인해 사직을 청한다고 했다.
乞致仕六疏 (9)
致仕를 청한 여섯 번째 상소문이다. 부족한 재능으로 인해 조정에 폐해만 끼쳤음을 강조했다.
乞致仕兼論書院毁撤七疏 (11)
치사를 청하면서 동시에 書院을 毁撤하는 문제에 대해 논한 일곱 번째 상소문이다. 憲宗은 자신을 父子 사이처럼 아껴주었고, 哲宗 때는 上卿(判書)의 지위에 올랐으며, 高宗 때 이르러 정승의 지위에 오르는 등 과거에 급제한 이후부터 줄곧 임금의 큰 은혜를 입었음을 강조했다. 또한 유학을 중시하고 도학을 높이는 것은 나라의 큰 바탕인데, 수많은 書院을 철폐하라는 조정의 명령이 있자 유학자들의 사기가 꺽였다며 서원 철폐에 반대하는 뜻을 펼쳤다.
乞致仕八疏 (14)
致仕를 청한 여덟 번째 상소문이다. 國朝의 故事를 살펴보니 아니 56세에 치사한 경우가 있는데, 바로 자신의 나이가 56세라며 조정에서 물러나기를 청했다.
乞致仕九疏 (16)
致仕를 청한 아홉 번째 상소문이다. 나이도 많고 身病도 깊은 자신은 정승의 직임에 적합하지 않음을 강조했다.
乞致仕十疏 (18)
致仕를 청한 열 번째 상소문이다. 林泉에서의 삶을 희망하는 자신의 바람은 조정에 출사하는 것이 단지 한 개인의 문제만이 아니라는 朱子의 말처럼 나라의 風俗과도 연관이 된다는 점을 강조했다.
乞致仕十一疏 (19)
致仕를 청한 열한 번째 상소문이다. 身病이 깊고 능력이 부족한 자신의 물러남은 너무나 당연한 일이라고 했다.
乞致仕十二疏 (20)
致仕를 청한 열두 번째 상소문이다. 身病으로 인한 직무 수행의 어려움을 이야기하며 사직을 청했다.
乞致仕十三疏兼請壽榮給暇 (21)
致仕를 청한 열세 번째 상소문이다. 사직을 청하는 동시에 외아들 李壽榮에게 10년의 휴가를 줄 것을 청했다.
十四疏 (24)
致仕를 청한 열네 번째 상소문이다. 조정에 출사했다가 만년에 물러나는 절의에 대한 宋나라 歐陽脩의 이야기를 인용하며 자신도 그처럼 조정에서 물러나고자 한다고 했다.
乞致仕十五疏 (25)
致仕를 청한 열다섯 번째 상소문이다. 임금을 섬기는 예는 젊어서는 모든 일에 힘쓰는 것이지만 나이가 든 후에는 조용히 물러나는 것이라며, 자신은 이제 사직할 때가 되었음을 강조했다.
乞致仕十六疏 (26)
致仕를 청한 열여섯 번째 상소문이다. 조정의 중책을 맡은 지 오래되었지만 별다른 성과를 이루지 못한 자신의 무능함을 강조했다.
乞致仕十七疏 (28)
致仕를 청한 열일곱 번째 상소문이다. 자신의 사직 요청은 조정의 선비들로 하여금 廉恥를 알게 하는 것과도 연관이 있다며 사직을 허락해 줄 것을 청했다.
乞致仕十八疏 (29)
致仕를 청한 열여덟 번째 상소문이다. 자신은 이미 임금의 지극한 은혜를 입은 몸으로 더 이상 정승의 직임을 수행할 수 없음을 강조하며 관직에서 물러나는 것만이 자신이 할 수 있는 일이라고 했다.
乞致仕十九疏 (31)
致仕를 청한 열아홉 번째 상소문이다. 신병으로 인해 더 이상 직책을 수행할 수 없다고 했다.
乞致仕二十疏 (32)
致仕를 청한 스무 번째 상소문이다. 자신의 병은 더 이상 약으로 치료할 수 없다며 오직 관직에서 물러나는 길만이 유일한 방법이라고 했다.
乞致仕二十一準請疏 (33)
致仕를 청한 스물한 번째 상소문이다. 河海와 같은 너그러움으로 사직을 허락해 줄 것을 청했다.
敦諭後附奏 (36)
敦諭를 받은 후 아뢴 奏文이다. 부족한 점이 많음에도 불구하고 조정의 중책에 임명된 것에 대해 극력 사양의 뜻을 표했다.
別諭後附奏 (37)
특별히 내린 임금의 諭旨를 받은 후 아뢴 奏文이다. 자신으로서는 감당하기 어려운 중책이라며 사양의 뜻을 표했다.
東朝別諭後附奏 (38)
太后의 別諭를 받은 후 아뢴 奏文이다. 자신의 능력은 본래부터 부족했고 모든 사람들이 아는 바라면서 임명을 사양하는 뜻을 드러냈다.
疏批後偕來附奏 (39)
上疏에 대한 임금의 비답이 있은 후 여럿이 함께 올린 奏文이다. 정승이라는 직임의 중요성을 강조하며, 임금의 두터운 은혜에 감사의 뜻을 표했다.
再疏後別諭附奏 (40)
거듭 상소한 것에 대한 別諭를 받고 올린 奏文이다. 학문과 재능에서 부족함이 많음에도 불구하고 別諭를 통해 河海와 같은 너그러움을 보여준 임금의 은혜에 깊은 감사를 표했다.
三疏後附奏 (41)
세 번 상소한 후 올린 奏文이다. 임금의 과분한 은혜에 대해 감사를 표했다.
重卜後附奏 (42)
정승에 임명된 후 올린 奏文이다. 부족함이 많은 자신에게는 과분한 직책이라며 사양의 뜻을 표했다.
別諭後附奏 (43)
別諭를 받은 후 올린 奏文이다. 감당하기 힘든 중책이라며 사양의 뜻을 표했다.
再疏後附奏 (44)
거듭 상소한 후 올린 奏文이다. 인륜의 떳떳함은 부모를 섬기는 것에 근본하는데, 자신에게 부여된 조정의 중책은 事親은 물론 輔國에도 지장이 있는 것이라며 사양의 뜻을 표했다.
別諭後附奏 (45)
別諭를 받은 후 올린 奏文이다. 용렬한 재능으로 인해 임금의 부름에 응할 수 없음을 사죄했다.
拜領相後附奏 (46)
영의정에 임명된 후 올린 奏文이다. 부족한 재능으로 영의정에 임명되어 황공할 따름이라고 했다.
敦諭後附奏 (47)
敦諭를 받은 후 올린 奏文이다. 예로부터 忠臣을 구할 때 반드시 孝子 중에서 선발했던 것은 부모에 대한 효성과 나라에 대한 충성이 근본이 같기 때문이라면서, 자신은 효자가 아니기 때문에 충신도 될 수 없다며 사양의 뜻을 표했다.
亞卿偕來後附奏 (48)
參判들이 와서 임금의 교지를 전달하여 聖旨를 받은 후 올린 주문이다. 부족한 자신에 대한 임금의 큰 은혜에 황공함을 표했다.
正卿偕來後州獄胥命附奏 (49)
八座의 중신들이 모두 와서 聖旨를 전달한 후 州獄에서 임금의 처분을 기다리며 올린 奏文이다.
州獄胥命後附奏 (50)
州獄에서 임금의 처분을 기다리며 올린 奏文이다. 모든 것이 자신의 죄라고 하며 처분을 기다린다고 했다.
金吾胥命後附奏 (51)
의금부에서 임금의 처분을 기다리며 올린 奏文이다. 자신의 죄는 산과 같고 임금의 은혜는 바다와 같다고 했다.
手批後附奏 (52)
임금의 비답을 받은 후 올린 奏文이다. 임금이 잘 다스리기를 원하지 않는다면 신하 역시 충성하지 않는다는 唐나라 陸贄의 말을 인용하며 임금을 섬길 때 가장 중요한 것이 속이지 않는 것임을 강조했다.
州獄胥命附奏 (53)
州獄에서 임금의 처분을 기다리며 올린 奏文이다. 임금의 敦諭를 받은 후 감격함을 표했다.
付處還收後附奏 (54)
中途付處의 명을 환수받은 후 올린 奏文이다. 임금의 은혜에 깊은 감사를 표했다.
納命召還鄕後附奏 (55)
命召(국왕의 부름을 받은 중신들이 궁궐에 들어가기 위하여 휴대하던 일종의 궁궐 출입증)를 반납하고 고향으로 돌아간 뒤 올린 주문이다. 더 이상 조정에 머무를 수 없는 사정을 간략히 진술했다.
再次附奏 (56)
두 번째 올린 주문이다. 감히 임금의 명을 거스르는 것에 대한 治罪를 청했다.
三次附奏 (57)
세 번째 올린 주문이다. 부족한 자신을 우대해 주는 것에 대해 황송함을 표했다.
入城附奏 (58)
도성에 들어가 올린 주문이다. 世子의 冊禮에 관해 자신은 아는 바가 없기에 어떠한 도움도 되지 않는다고 했다.
閣臣偕來後附奏 (59)
閣臣들이 모두 와서 聖旨를 전달한 후 이에 대해 올린 奏文이다. 조상의 묘에 비석을 세우는 문제로 인해 탄핵을 받고 조정에 풍파를 일으킨 일은 사실의 여부와 관계없이 자신의 부덕함으로 인한 것이라며 자책했다.
進詣城外附奏 (60)
도성 밖으로 나가 올린 奏文이다. 부족한 자신을 아껴주는 임금의 은혜에 깊이 탄복하며 스스로의 부덕함을 자책했다.
入城附奏 (61)
도성에 들어가 올린 奏文이다. 大官으로서 탄핵을 받고도 자리를 지킬 수는 없음을 강조했다.
重拜後附奏 (62)
中書에 거듭 임명된 후 올린 奏文이다.
疏批後附奏 (63)
上疏에 대한 임금의 批答을 받은 후 올린 奏文이다. 조정의 여러 중책에 임명된 것을 모두 사양했다.
恩敍疏批後附奏 (64)
上疏에 대한 임금의 批答을 받은 후 올린 奏文이다. 冊文을 지으라는 명을 받고는 자신의 부족한 재능을 이유로 사양을 청했다.
册九
朝參陳勉啓 (1)
朝參(중앙에 있는 문무백관이 正殿에 모여 한 달에 네 번 문안을 드리며 정사를 논의하던 자리)에 참여하여 학문에 힘쓰고 마음을 바르게 하는 일이 가장 중요함을 강조한 啓文이다.
湖南還弊啓 (3)
湖南의 還穀의 폐단에 대해 아뢴 啓文이다. 호남지역의 모든 읍이 환곡의 폐단이 깊은데, 특히 昌平縣의 경우는 더욱 심하다며 그 실정에 대해 논했다.
海西三政啓 (4)
황해도의 三政(田政・軍政・還政)에 대해 각 조목별로 논한 계문이다. 田賦에 대해서는 좋은 토지는 富豪한 자들이 모두 소유하고 있는 반면 가난한 백성들은 薄土를 개간해서 연명하는 상황이라고 지적했다. 그리고 그동안 각 읍에서 이루어졌던 여러가지 폐단 특히 白徵의 폐단에 대해 집중적으로 논의했다. 軍籍에 대해서는 그동안 軍籍에 기록된 병사들의 수가 실제와 맞지 않는 폐단이 거의 모든 읍에 걸쳐 만연했고, 또한 그 폐단은 이미 고질적인 것이 되어 버렸다고 지적했다. 또한 軍民을 노예처럼 보는 습속이 있어 軍役을 회피하는 일이 다반사였음을 강조했다. 그러나 황해도는 하삼도로 이어지는 지리적 요충일 뿐만 아니라 서쪽으로는 중국과 바닷길로 직접 연결이 되고 근래에는 서양의 선박들이 수시로 출몰하는 중요한 곳임에도 불구하고 각 진과 영의 武備가 허술함을 지적하며 이에 대한 조치를 강조했다. 還穀에 대해서는 황해도의 戶摠이 본래 12만 8천인데 실제로 거두어 들이는 還戶는 7-8만에 지나지 않을 만큼 환곡의 폐단이 깊다고 지적했다. 이 외에도 三政과 관련하여 한양 營門에 소속된 屯田의 別將들이 저지르는 폐단, 각 驛에서 저지르는 폐단, 각 감영에 속하여 감영과 각 고을 사이의 연락을 취하던 벼슬아치인 邸吏의 폐단, 공부도 하지 않고 농사도 짓지 않은 채 각 고을에서 문제를 일으키는 浮浪者들의 폐단 등에 대해서도 논의했다.
陳勉啓 (20)
임금이 학문에 더욱 힘쓸 것을 당부한 啓文이다.
信字仰勉啓 (21)
信이라는 글의 뜻을 통해 임금에게 더욱 노력할 것을 당부한 啓文이다. 나라를 다스리는 요체가 오직 信에 있음을 강조했다.
貿銅債四十萬兩蕩減啓 (23)
甲山의 貿銅債 40만냥의 蕩減을 청한 계문이다.
雷異後引咎啓 (24)
우레의 이변이 있은 후 올린 계문이다. 聖人은 하늘의 재앙을 만나면 반드시 스스로를 경계했다는 점을 강조했다.
慶會樓入侍陳勉啓 (25)
慶會樓에 入侍하여 政事에 더욱 노력할 것을 청한 계문이다. 景福宮의 중건을 맞아 더욱 새롭게 분발해야 함을 강조했다.
親耕陳勉啓 (26)
임금이 직접 농사의 모범을 보이는 일에 힘쓸 것을 당부한 계문이다.
重卜後陳勉啓 (27)
재상에 거듭 임명된 후 임금에게 더욱 노력할 것을 당부한 계문이다. 聖賢의 心法은 經傳에 있고, 역대의 사적은 史書에 실려 있으니 오직 聖學에 힘써야 함을 강조했다.
移御後陳勉啓 (29)
慶運宮으로 移御한 후 더욱 힘쓸 것을 당부한 계문이다.
日講官復設啓 (30)
侍講院 소속의 日講官을 다시 설치할 것을 청한 계문이다. 덕성을 함양하고, 총명함을 기르는 요체가 바로 학문에 있다는 점을 강조했다.
除濫刑啓 (31)
濫刑의 폐단을 없앨 것을 청한 계문이다. 근래 도적을 다스리는 법이 지나치다는 점을 지적했다.
歲首頌禱啓 (32)
새해를 맞이하여 기원하는 바를 아뢴 계문이다.
淸錢變通後措處啓 (33)
淸錢(청나라 돈)을 유입해 통용시키는 정책을 혁파한 후 그에 상응하는 조처에 대한 계문이다. 각 도의 수령과 吏胥輩들을 신칙할 것을 당부했다.
節財用啓 (34)
재물의 씀씀이를 절약할 것을 청한 계문이다.
寬刑獄啓 (36)
刑獄을 너그럽게 할 것을 청한 계문이다. 임금이 백성을 사랑하는 큰 방법이 바로 형옥을 너그럽게 하는 것이라고 했다.
辭免啓 (37)
사직을 청한 계문이다.
請開講啓 (38)
講官을 두고 經史를 공부할 것을 청한 계문이다.
武才申飭啓 (39)
武備를 더욱 申飭할 것을 청한 계문이다. 나라를 위하는 방법으로는 文事가 중요하지만 武備 역시 소홀히 할 수 없는데, 그것은 평소에 잘 모르지만 유사시에는 절대적으로 중요하다는 점을 강조했다.
論場屋弊啓 (40)
과거 시험장의 기강을 바로 잡을 것을 청한 계문이다. 지난번 과거 시험장에 무뢰배들이 난입하여 소란을 일으켰을 때 심지어는 試官을 핍박하기 까지 했다며 더욱 엄중하게 다스려 기강을 바로잡을 것을 청했다.
招延山林啓 (41)
山林을 조정에 초빙할 것을 청한 계문이다. 임금이 나라를 다스리는 요체는 實學에 있고, 그 실학을 이루는 요체는 바로 山林宿德을 초빙하는 것이라고 했다.
論明義錄啓 (42)
『明義錄』에 대해 논한 계문이다. 『명의록』은 정조가 王世孫으로 있을 때, 그의 代理聽政을 반대하던 洪麟漢과 鄭厚謙 등을 賜死하게 된 전말을 기록한 책인데, 『명의록』의 논의에 적극 찬동하는 입장을 밝혔다.
故儒賢李夢奎李維泰節惠啓 (43)
李夢奎(1510-1563)와 李維泰(1607-1684)의 시호를 청한 계문이다. 이몽규에 대해서는 그가 金克成의 문인으로 당시에 金正國이 진정한 학자라고 칭찬했으며, 李珥가 그 행장을 지었고, 金堉이 『東國名臣錄』에서 그 언행을 기록하여 이후 花巖書院이 사액을 받게 되었다는 점을 강조했다. 이유태에 대해서는 어릴 적부터 金長生의 문하에서 공부를 하고 宋時烈, 宋浚吉과 함께 孝宗 때 조정에 초빙되었고, 肅宗 때 등용되었다는 점을 강조했다. 선비를 숭상하고 도를 중시하는 列聖朝의 遺訓을 본받아 이들에게 시호를 내릴 것을 청했다.
故經筵官成近默節惠啓 (44)
成近默(1784-1852)의 시호를 청한 계문이다. 성근묵이 成渾의 후손으로 학문에 연원이 있고, 모든 일에 성실했으며 특히 衛正斥邪에 큰 공이 있음을 강조했다.
星變後陳勉啓 (45)
星變이 있은 후 더욱 정사에 힘쓸 것을 당부한 계문이다. 나라를 다스릴 때 文武를 겸비하면서도 우선 순위는 文에 두어야 한다는 점을 강조했다.
論驛弊啓 (47)
서북 지역 각 驛의 폐단에 대해 논한 계문이다. 역을 설치한 목적이 傳命을 신속히 전달하는 것임에도 불구하고 쇠락하여 실제로 그 기능을 수행하지 못한지 오래되었고, 位畓(역의 재정을 위해 마련된 토지) 또한 그 지역의 權貴한 자들이 소유하는 등의 폐단을 지적했다.
北咨後論兵事啓 (48)
청나라에서 咨文을 보낸 후 군대의 일에 대해 논한 계문이다. 治世가 오래되면 전쟁에 대한 대비를 하지 않게 된다며 치세에도 항상 경계의 태세를 늦추지 말아야 함을 강조했다.
論宿衛啓 (49)
宿衛하는 일에 대해 논한 계문이다. 壯勇營과 摠衛營의 제도가 간편하고 시행이 편하다는 점을 강조했다.
正田賦啓 (50)
田賦를 바로잡을 것을 청한 계문이다. 田稅가 날로 증가하여 백성들을 침학하고 있다며 전세의 폐단을 바로잡을 것을 청했다.
徵贓啓 (51)
還徵의 폐단에 대해 논한 계문이다. 鄭元容, 權敦仁, 朴晦壽, 金興根 등 역대 신료들이 모두 환징의 폐단에 대해 지적했던 글을 인용하며 폐단을 바로잡을 것을 청했다.
論武衛軍啓 (53)
궁궐의 숙위를 위해 설치한 기관인 武衛所의 軍事에 대해 논한 계문이다. 各司와 各營에서 武衛軍을 다른 보통 編伍와 다름없이 간주하며 업신여기는 문제를 지적했다. 또한 무위소의 군사들이 자신들의 위치를 믿고 방자하게 굴면서 거리낌 없이 행동하는 문제 역시 지적하며 일체의 모든 일들을 엄격한 軍律에 의해 시행할 것을 청했다.
論內官恣橫啓 (54)
內侍府의 만행을 논한 계문이다. 內班院(내시부)에서 各司의 서리들을 불러놓고 문득 전교라고 하는데 이것이 실제로 임금의 전교인지 알 수 없는 경우가 종종 있다며 이러한 폐다능ㄹ 그대로 방치하면 훗날 말할 수 없는 문제가 된다며, 대궐 안에서 南衙와 北司의 구분이 예로부터 엄격하였음을 강조했다.
奏請復命入侍陳勉啓 (55)
1875년 王世子 冊封 奏請使의 正使로 중국에 다녀와 復命하는 자리에서 학문에 더욱 힘쓸 것을 청한 계문이다.
慶源犯越事議律議 (57)
慶源에서 발생한 越境의 일에 대해 법에 의해 엄격히 처분할 것을 논의한 議文이다.
廟庭配享議 (58)
綾原君(李俌)은 仁祖의 묘정에, 麟坪君은 孝宗의 묘정에, 南延君(李球)과 豐恩府院君(趙萬永)은 純祖의 묘정에 배향할 것을 논의한 議文이다.
箕尾星與南斗星幷祭議 (59)
箕尾星과 南斗星에 함께 제사를 지낼 것을 청한 議文이다.
關西四郡興廢議-擬作 (60)
關西지역 四郡의 잔폐함에 대해 논한 議文이다. 관서 지역이 지리적으로 중요함에도 불구하고 잔폐함이 심하다며 수령으로 하여금 財用을 절약하게 하여 백성들이 생업에 편안히 종사할 수 있도록 신칙할 것을 당부했다.
朴章錫復科議 (61)
朴章錫의 復科(科擧에 及第한 사람의 姓名을 방에서 지워 落第시켰던 것을 다시 합격시킴)에 대해 논한 議文이다.
各園墓展拜服色議 (62)
각 陵과 顯隆園에 참례할 때의 服色에 대해 논한 議文이다.
繼講册子議 (63)
經延에서 다음에 읽어야 할 책으로 『中庸』을 선택할 것을 주장한 議文이다. 『중용』이 성학의 연원이고, 大本을 세우고 達道를 행하며 心法을 전수하는 요체라고 강조했다.
中庸畢講後繼講册子議 (64)
경연에서 『중용』의 강을 마친 후 계속해서 읽어야 할 책으로 『詩經』을 추천한 議文이다. 朱子의 독서법에 따라 四書 다음에는 三經을 읽어야 하는데, 삼경 중에는 『시경』이 처음이라고 했다.
沁都砲糧米議 (65)
강화도의 군량미에 대해 논한 議文이다. 강화도는 한양을 방어하는 해상의 요충지인데 근래 들어 서양의 선박들이 자주 침입하여 결국에는 丙寅洋擾 같은 피해를 입게 되었으니, 이후로 강화도를 지키는 군사와 군량미를 증대하여 방비에 더욱 노력할 것을 청했다.
萬東廟復設儀節議 (66)
萬東廟를 다시 설치하라는 임금의 특명에 대해 이와 관련한 절차 및 儀節에 관해 논한 議文이다. 여러 절차 및 의절은 기존의 제도를 준수하고 나머지 의절은 예조에서 別單을 마련하게 할 것을 청했다.
詩傳畢講後繼講册子議 (67)
경연에서 『詩經』의 강을 마친 후 『書經』을 강할 것을 청한 議文이다. 『書經』을 통해 역대 제왕들의 心法과 治道를 공부할 수 있음을 강조했다.
北學議 (68)
청나라의 학문과 문물에 대해 배워야 함을 강조한 의문이다.
新選武士敎鍊議 (69)
새로 선발한 무사들을 훈련하는 일에 대해 논한 의문이다. 임진왜란 이후 戚繼光의 『紀效新書』를 얻어 武備에 준비하며 訓練都監을 설치했는데, 柳成龍이 훈련도감의 도제조가 되고 趙璥이 대장이 되었었다며 이번에 새로 선발한 군사들을 훈련도감에 소속시킬 것을 청했다.
册十
皇勅頒敎文 (1)
청나라 황제의 칙서를 받고 백성들에게 널리 반포한 임금의 교서다.
熱河使免詣行在回咨 (2)
청나라 咸豊帝가 1860년 熱河의 離宮으로 피난하자 이를 문안하는 問安使가 행재소에 도착하여 회답한 咨文이다. 청나라가 애로우전쟁으로 북경이 함락에 처하는 위기를 맞이하여 함풍제가 열하로 피난한 것에 대해 조선에서 문안사를 파견했는데, 행재소에 도착하여 청나라의 자문을 받고 이에 대해 회답하는 글을 대신 지은 것이다.
惠嬪追上尊號樂章文 (4)
正祖의 어머니 惠慶宮 洪氏에게 존호를 추상하는 행사의 樂章文이다.
當宁上尊號玉册文 (5)
高宗에게 존호를 올린 玉冊文이다. 고종에게 統天隆運肇極敦倫이라는 존호를 올린 옥책문이다.
王世子册封竹册文 (7)
순종을 왕세자로 책봉한 竹冊文이다.
大王大妃殿加上尊號玉册文 (8)
翼宗妃 神貞王后(1808∼1890)에게 壽寧이라는 존호를 加上한 玉冊文이다. 익종의 배필이 되어 안으로 도운 것은 하늘처럼 크고 해처럼 밝았으며 純元王后(1789∼1857)의 덕을 이어 받아 존귀해도 부지런하였고 부유해도 검박하였음을 강조했다.
哲仁王妃諡册文 (9)
哲宗妃 哲仁王后(1837∼1878)의 諡冊文이다. 안동김문의 명문 전통을 이어받고, 순원왕후와 효현왕후의 부덕을 계승하여 『女範』을 준칙으로 삼아 만민의 우러름을 받았다는 점을 강조했다. 敬獻莊穆이라는 존호와 함께 哲仁이라는 시호에는 지혜로움과 인자함을 겸비했다는 의미가 있음을 논했다.
純祖大王追上尊號玉册文 (11)
純祖에게 尊號를 追上한 玉冊文이다. 洋邪를 물리쳐 正學을 떠받치고, 총명함과 叡智를 겸비하여 덕치를 이루었음을 강조했다.
大司憲宋達洙疏批 (13)
大司憲 宋達洙(1808∼1858)의 상소에 대한 批答을 대신 지은 것이다. 상소문의 취지를 이해한다고 했다.
祭酒宋來熙疏批 (13)
祭酒 宋來熙(1791∼1867)의 상소에 대한 비답이다. 講學에 힘쓰는 것이 무엇보다 중요한 일이므로 곁에서 보필할 것을 당부한 뜻으로 임금을 대신해 지었다.
內閣提學朴永元敎旨 (15)
奎章閣 提學 朴永元(1791∼1854)에게 내린 교지다. 조정의 각 직책들이 지니는 중요함을 강조했다.
內閣提學金興根敎旨 (15)
奎章閣 提學 金興根(1796∼1870)에게 내린 교지다. 文章家가 지니는 의미가 나라에 얼마나 중요한지를 논했다.
直提學金學性敎旨 (16)
直提學 金學性(1807∼1875)에게 내린 교지다. 나라에서 文章을 중시하는 이유에 대해 논했다.
待敎洪淳穆敎旨 (16)
待敎 洪淳穆(1816∼1884)에게 내린 교지다. 상소를 가납한다고 했다.
直閣尹致英敎旨 (17)
直閣 尹致英(1803∼?)에게 내린 교지다. 상소의 뜻을 가납하는 동시에 더욱 노력할 것을 당부했다.
待敎金炳德敎旨 (18)
待敎 金炳德(1825∼1892)에게 내린 교지다. 항상 독서에 힘쓸 것을 당부했다.
廣州留守李嘉愚敎書 (18)
廣州留守 李嘉愚(1783∼1852)에게 내린 敎書다. 廣州의 지리적 중요성을 강조하면서 더욱 노력할 것을 당부했다.
華城留守朴永元敎書 (19)
華城留守 朴永元에게 내린 敎書다. 正祖가 경영한 화성의 중요성을 강조하고 더욱 노력할 것을 당부했다.
慶尙監司金興根敎書 (19)
慶尙監司 金興根에게 내린 교서다. 백성들을 撫摩하는 것이 惠政의 급선무임을 강조했다.
豐恩府院君趙萬永賜几杖敎書 (20)
豐恩府院君 趙萬永(1776∼1846)에게 几杖을 하사한 교서다. 국가에 대한 지극한 충정과 뛰어난 문장력으로 일생동안 나라를 위해 노력했다며 이에 대한 보답으로 궤장을 하사한다고 했다.
奉朝賀朴綺壽宣麻文 (22)
奉朝賀 朴綺壽(1774∼1845)에게 베옷을 하사한 敎文이다. 조정에 나온 지 40여 년 동안 뛰어난 재능을 바탕으로 范祖禹나 寇準과 같이 조정에 많은 공을 세운 점을 강조했다.
法善圖說文 (25)
法善圖에 대한 글이다. 文王의 이 그림은 진정으로 백성들을 사랑하는 마음에서 나온 것이라는 점을 강조했다.
人心道心說文 (25)
『心經』의 人心道心圖에 대한 글이다. 顯宗은 講官에게 명하여 先儒들의 인심도심설을 강하도록 했고, 正祖 역시 직접 인심도심설을 짓기도 했다며 인심도심에 관한 논의가 聖學의 本領이라는 점을 강조했다.
白雉序文 (26)
흰 꿩에 대한 글이다. 흰 꿩은 상서로운 동물로서 주나라 성왕 때 이미 그에 대한 논의가 등장한다고 하며, 꿩이 또한 文明의 상징임을 강조했다. 지금 흰 꿩이 나타난 것 또한 성대한 세상을 의미하는 것이라고 했다.
玉䅯序文 (27)
玉䅯에 대한 글이다. 당시 한 줄기에 16이삭이 달린 玉䅯을 조정에 바친 이가 있었는데, 이에 대해 盛世의 아름다움을 칭송했다.
王世子痘候平復送神文 (28)
王世子의 痘瘡 증세가 회복된 것을 경축하며 神을 보낸 글이다.
大王大妃殿望九加上尊號玉册文 (29)
翼宗妃 神貞王后(1808∼1890)의 나이가 81세가 된 것을 경축하여 泰運이라는 尊號를 加上한 옥책문이다.
光化門上樑文 (31)
1864년(고종 1) 흥선대원군의 경복궁 재건으로 다시 옛 모습을 찾은 光化門에 대한 上樑文이다. 앞으로 태평성대의 시대가 도래할 것을 기원하며 임금의 거처인 正宮의 문으로 백성들의 우러르는 바가 될 것임을 확신했다.
交泰殿上樑文 (34)
재건된 경복궁의 交泰殿 상량문이다. 왕비의 침소인 교태전은 왕과 왕비의 구분을 엄격히 하는 것으로 고대의 제왕들이 올바른 통치를 위해 우선시 하는 일이었음을 강조했다.
來宣閣上樑文 (37)
의주 객사에 있는 來宣閣의 상량문이다. 내선각은 凝香堂과 함께 중국의 사신을 맞이하는 기능을 하는 건물로서 손님을 맞이하는 역할에 충실할 것을 기원했다.
北靑鄕校移建上樑文 (39)
北靑의 鄕校를 移建하고 그 내력을 기록한 상량문이다. 학교를 설치하는 목적은 가르침을 위한 것으로 백세의 스승인 성인을 계절에 따라 예와 악으로 섬기는 것이 가르침의 시작이라는 점을 강조했다. 향교의 이전을 계기로 북청의 학문이 더욱 융성할 것을 기원했다.
藕華亭重建上樑文 (42)
해주에 있는 藕華亭을 重建하며 내력을 기록한 상량문이다. 부친이 해주의 통판으로 부임하여 이를 모시고 와서 처음 인연을 맺었는데, 정자가 4면에서 바람을 맞이하고 3면에서 달을 바라볼 수 있는 아름다운 풍광을 가졌다고 했다.
挹湖亭上樑文 (44)
挹湖亭의 상량문이다. 세 그루의 홰나무를 마주하고 있는 정자의 아름다움과 그 아름다움에 견줄만한 주인의 높은 인품을 칭송했다.
又佳亭上樑文 (46)
충북 鎭川에 지은 자신의 정자 又佳亭에 대한 상량문이다. 예로부터 生居鎭川이라 불리던 진천의 頭陀山 밑 草坪의 경치좋은 곳에 자리한 이 정자에는 芙蓉과 牧丹이 가득하고 주변의 산세가 아름다우며 깨끗한 모래와 맑은 물이 일품이라고 했다.
慶衍堂上樑文 (48)
1880년(고종 17)에 건립된 安國洞 別宮의 건물 일부인 慶衍堂의 상량문이다. 역대 이래로 국왕의 혼례 때 親迎의 절차에서 別宮을 두었던 것은 生民의 시작이 되는 왕비를 맞이하는 절차를 중시했기 때문임을 강조했다. 이처럼 내외의 분별을 중시하는 禮를 통해 국왕의 정치가 덕에 근본하고 그러한 덕에 근본한 정치가 만민에게 널리 퍼질 것을 기원했다.
康寧殿重建上樑文 (51)
景福宮 안에 있는 임금의 寢殿인 康寧殿의 重建 상량문이다. 경복궁이 중건되어 임금이 거처하게 되면서 주변에 交泰殿과 思政殿이 갖추어졌는데, 강녕전은 그러한 전각들과 함께 임금의 정사에 중요한 역할을 하는 곳이라는 점을 강조했다.
我笑堂銘 (54)
마포 孔德에 있던 興宣大院君 李昰應의 별장인 我笑堂에 대한 銘이다. 聖人은 진정으로 즐거워한 후에 웃는다는 孔子의 뜻을 본따 이름을 붙였는데, 나라의 文武를 갈고 닦으며 사악함을 물리치고 올바름을 북돋는데 힘쓴 이하응의 治積을 칭송했다.
李氏世藏笏銘 (56)
李擎中(1574∼1627)의 집안에서 대대로 전해진 笏에 대한 銘이다. 이경중은 본관이 龍仁, 字는 德普이며, 임진왜란 당시 공을 세웠던 참판 李惟一의 아들이다. 1597년 謁聖試 武科에 급제할 때 李恒福이 재주를 아껴 牙笏을 주었는데, 그것을 이경중의 후손들이 대대로 傳受했다. 이후 1863년 이유원이 함경도 관찰사에 부임했을 때 이씨 집안에서 그 홀을 계속하여 소장하고 있었기에 이러한 인연에 깊이 감동한다고 했고, 이경중 부자를 왜적들이 두려워했던 점을 회상했다.
竹蒲團銘 (57)
李參鉉(1807∼?)이 보내준 竹蒲團에 대한 銘이다. 예전에 湖洲 蔡裕後(1599∼1660)가 草廬를 짓자 滄江 趙涑(1595∼1668)이 竹蒲團을 선물하려 했는데, 얼마 후 채유후가 초려를 기와집으로 고쳤다는 소식을 듣고는 조속이 죽보단 선물을 그만두었다는 이야기가 문원의 故事로 남아 있는데, 자신 역시 초려를 기와집으로 바꾸었기 때문에 죽보단을 받을 수 없다는 뜻을 보였다.
林下廬銘 (58)
자신의 집에 대한 銘이다. 松林이 우거지고 새들이 깃든 자연과 벗하는 자신의 집에서 농사짓고 옛 선현들의 책을 읽으며 지내는 생활의 즐거움을 이야기했다.
三硯銘 (59)
龍圖硯, 天統硯, 後凋硯이라는 3가지 벼루에 대한 銘이다. 龍圖(河圖)는 文明의 시작을 알리는 의미를 지녔고, 天統은 음악의 조화로움을 의미하고, 後凋는 義理의 소중함을 의미한다고 했다.
藤杖銘 (59)
등나무로 만든 지팡이에 대한 짧은 銘이다. 강하기도 하고 부드럽기도 하며, 老少와 左右를 가리지 않는 덕을 지녔다고 칭송했다.
落霞琴銘 (59)
落霞琴이라는 거문고에 대한 銘이다.
几銘 (60)
안석에 대한 명이다. 둥근 모양은 양을 상징하고, 네모진 모양은 음을 상징한다고 했다.
洗銘 (60)
씻는 것에 대한 銘이다.
筆銘 (60)
붓에 대한 銘이다. 붓이야말로 군자의 지도리라는 점을 강조했다.
古鏡銘 (60)
오래된 거울에 대한 銘이다. 비추는 형태에 따라 다른 모습을 드러내는 거울의 덕은 군자를 닮았다고 했다.
石斧銘 (60)
돌로 만든 도끼에 대한 銘이다. 禹임금이 治水를 위해 산을 깍는데 사용했던 도끼 등 故事를 인용하며 도끼의 덕에 대해 논했다.
石槍銘 (60)
돌로 만든 槍에 대한 銘이다. 쇠로 만든 창이나 돌로 만든 창은 모두 중국의 북동방면에 거주했던 肅愼의 槍이라고 했다.
石砮銘 (60)
돌살촉에 대한 명이다. 돌살촉 역시 肅愼의 것이라고 했다.
皇賜靑玉笛銘 (62)
雪汀 李忔(1568∼1630)이 明나라 毅宗으로부터 받은 푸른색 옥피리에 대한 銘이다. 이흘의 본관은 慶州, 字는 尙中인데, 청나라와의 和議를 강력히 거부하며 斥和를 주장했다. 1629년 皇孫의 탄생을 축하하는 進賀使의 正使가 되어 冬至使 尹安國과 함께 배를 타고 명나라에 가다가 풍랑을 만나, 윤안국은 익사하고 홀로 살아서 賀表와 辨誣奏文을 전달했다. 의종은 그의 노고를 치하하며 白玉으로 만든 笏과 靑玉으로 만든 피리를 선물로 주었는데, 이후 이흘이 북경에서 죽었기에 의종이 장례를 치러주고 시신과 함께 홀과 피리를 조선으로 보내주었다. 이후 후손가에 홀과 피리가 전했지만 홀은 소재를 알 수 없고 옥피리는 외손에게 전해졌다는 내력을 기록했다. 李氏金石錄을 보니 송시열이 지은 이흘의 행장에도 옥피리의 이야기가 실려있지 않다며 평소 音律에 정통했던 이흘의 재능을 칭송했다.
美堂老人玉磬銘 (63)
美堂 鄭文升(1788∼1875)의 玉磬에 대한 銘이다. 정문승이 옥경을 직접 연주하는 것을 보고는 聖人이 天下를 자신의 집안과 같이 여겨 근심하는 마음을 잠시도 멈추지 않았다는 것을 연상했는데, 그것은 옥경을 갈고 닦아서 소리를 조화롭게 하는 것이 나라를 조화롭게 다스리는 것과 같은 이치이기 때문이라고 했다.
古董投壺銘 (64)
황해도 관찰사로 부임하여 그곳에서 얻은 投壺에 대한 銘이다. 조선에서 만든 것이 아니라 중국의 송나라나 원나라 때 만든 것 같은데, 어떠한 인연으로 자신에게 왔는지 궁금해 했다.
書案銘 (65)
憲宗 때 만든 자신의 작은 책상에 대한 銘이다. 항상 앞에 두고 책을 읽었는데, 세월이 지나며 많이 낡았음을 안타까워했다.
蒲葵扇銘 (66)
포규나무의 잎으로 만든 부채인 蒲葵扇에 대한 銘이다.
山房古玩十六事銘 (67)
山房에서 완상했던 골동품 16가지에 대한 銘이다. 商나라 술잔으로 귀가 둘이고 다리가 3개인 父辛爵에 대한 商父辛爵, 상나라 술잔 蠆觚에 대한 商蠆觚, 周나라 祭器인 伯彝에 대한 周伯彝, 주나라 夔鳳豆에 대한 周夔鳳豆, 周나라 솥 太師鼎에 대한 周太師鼎, 주나라 追敦에 周追敦, 주나라의 솥 遣叔鼎에 대한 周遣叔鼎, 주나라의 종 寶林鍾에 대한 周寶林鍾, 역시 주나라의 종에 대한 周鎛鐘, 중국의 여섯 가지 상서로운 것(六瑞)의 하나로 곡식의 줄기와 이삭을 새긴 白玉에 周穀璧, 漢나라의 종에 대한 漢綏和搖鐘, 漢日光竟, 漢玉衣導, 당나라의 星宿에 대한 唐二十八宿竟, 송나라의 도자기에 대한 宋瓷器, 고려의 도자기에 대한 高麗瓷器의 16편이다.
三如意銘 (69)
대나무, 옥, 쇠에 대한 3편의 銘이다. 대나무의 곧음을 칭송한 竹如意, 옥을 군자의 덕에 비유한 玉如意, 옥보다 강하고 대나무보다 곧은 철의 덕을 칭송한 鐵如意이다.
贈周自弇白頭山石銘 (69)
周自弇에게 준 白頭山 돌에 대한 銘이다. 백두산의 돌은 흰색인데, 자신의 머리도 백두산의 돌처럼 희게 되었음을 한탄했다.
瘞硯銘 (69)
벼루를 제사지낸 銘이다. 자신이 늙어감에 반해 벼루는 늙을 줄을 모른다고 하면서, 장차 벼루도 흙과 함께 늙어가리라 했다.
册十一
正朝內閣箋文 (1)
새해의 첫날에 內閣을 대표하여 임금에게 올린 箋文이다. 만물이 생장하는 봄의 기운을 받아 모든 일이 잘되기를 기원했다.
正朝內閣箋文 (1)
새해의 첫날에 內閣을 대표하여 임금에게 올린 箋文이다. 寸陰을 아껴 經筵에 힘쓸 것을 당부했다.
冬至內閣箋文 (1)
冬至에 내각을 대표하여 임금에게 올린 箋文이다. 陽氣가 준동하는 시기를 맞이하여 학문과 政事에 각별히 노력할 것을 당부했다.
冬至內閣箋文 (2)
冬至에 내각을 대표하여 임금에게 올린 箋文이다. 大殿과 中宮殿의 慶事를 감축한다는 뜻을 표했다.
冬至內閣箋文 (2)
冬至에 내각을 대표하여 임금에게 올린 箋文이다. 백성들이 사방에서 우러러 보고 있다는 사실을 강조하며 德으로서 이들에게 모범이 될 것을 당부했다.
冬至箋文 (2)
冬至에 올린 箋文이다. 君子의 道는 늘어나는 반면 小人의 道는 줄어들고 陽氣를 북돋우는 반면 陰氣는 억제하는 정치를 이룰 것을 당부했다.
大殿誕辰內閣箋文 (3)
大殿의 誕辰日을 맞이하여 內閣을 대표하여 올린 箋文이다.
純元大妃誕辰箋文 (3)
純祖妃 純元王后(1789∼1857)의 생일을 축하한 箋文이다. 謙讓하는 덕을 지녔음을 칭송했다.
憲宗大王痘候平復內閣箋文 (4)
憲宗의 두창 증세가 회복된 것에 대해 내각을 대표하여 축하한 箋文이다. 숙종과 순종의 뒤를 이어 헌종이 두창의 증세가 있었는데, 모두 회복이 되었음은 하늘의 보살핌이 있었기 때문이라고 했다.
憲宗大王嘉禮內閣箋文 (4)
헌종이 혼례를 올리는 것에 대해 내각을 대표하여 축하한 箋文이다.
三朝寶鑑親上太廟內閣箋文 (4)
1848년 간행된 『三朝寶鑑』을 헌종이 직접 宗廟에 올린 것에 대한 內閣의 箋文이다. 『삼조보감』은 『國朝寶鑑』의 일부로 正祖, 純祖, 翼宗 치세의 시조를 편찬한 책이다.
純元大妃周甲稱慶箋文 (5)
純元王后의 회갑을 맞이하여 이를 경축한 전문이다.
哲宗大王嗣位箋文 (5)
哲宗의 등극을 축하한 箋文이다. 先王의 遺志를 받들고 天命을 따를 것을 당부했다.
憲宗大王祔太廟箋文 (5)
憲宗을 宗廟에 祔廟하는 일에 관한 箋文이다. 종묘에 陞享하는 儀禮의 중요성을 강조했다.
各殿上尊號箋文 (6)
各殿에 尊號를 올리는 일에 관한 箋文이다. 나라의 큰 경사를 맞이하여 國運이 더욱 昌盛할 것을 기원했다.
哲宗大王嘉禮箋文 (6)
哲宗의 혼례를 축하한 箋文이다. 名門에서 配匹을 맞이하게 되었다며 혼례를 축하했다.
中宮殿嘉禮箋文 (6)
中宮殿의 혼례를 축하한 箋文이다. 六禮를 갖추어 치러지는 혼례를 통해 앞으로 모든 복의 근원이 되기를 기원했다.
親摠庶政箋文 (7)
親政을 하게 된 것을 경축한 箋文이다.
東朝加上尊號箋文 (7)
大妃에게 尊號를 올리게 된 것을 경축한 箋文이다.
純祖大王舟梁回甲追上尊號箋文 (7)
純祖의 逝去 1週忌를 맞이하여 尊號를 올린 箋文이다.
辨誣使事順成稱慶內閣箋文 (8)
청나라에 辨誣하는 일이 성공적으로 이루어졌음을 축하하여 내각을 대표해 올린 箋文이다.
大殿中宮殿上尊號稱慶內閣箋文 (8)
大殿과 中宮殿에 존호를 올린 것에 대해 내각을 대표해 칭송한 箋文이다.
當宁嗣位內閣箋文 (9)
지금 임금이 왕위를 계승한 것에 대해 내각을 대표해 올린 箋文이다.
致仕謝箋文 (10)
사직을 청한 箋文이다. 세 임금을 섬기는 동안 자신이 받았던 두터운 은혜에 비해 자신이 나라와 임금에게 보답한 것은 너무나 부족하다고 했다. 이제 그동안의 부족함을 반성하고 모든 일에서 물러나야 할 때임을 스스로 깨닫게 되었다고 강조했다.
問士之處世有二道 (12)
科擧의 시험 문제로 임금을 대신해 작성한 글이다. 선비의 處世에는 나아감과 물러남의 두 가지 길이 있다고 전제한 후, 堯舜의 治世에도 許由와 같이 은거했던 사람이 있었고, 湯武의 시대에도 伯夷와 叔齊가 있었으며, 춘추시대에 孔子는 천하를 떠돌았고, 전국시대에 孟子는 여러 제후들을 찾아다녔는데 이것은 어떠한 의미를 지니는가를 물었다. 張良이 劉邦에 의해 기용되어 漢나라 건국에 공을 세운 후 병을 핑계 대며 정치에 관여하지 않았던 것과 諸葛孔明이 은거하다가 三顧草廬 후 劉備를 도와 전쟁에 임했던 것은 優劣을 논할 수 있느냐고 물었다. 그리고 선현들이 이처럼 出處에 삼가하는 자세를 보였는데 나아가고 물러남을 시의에 맞게 절충하려면 어떻게 해야 하는지에 대해 물었다.
問心者一身之主宰 (13)
科擧의 시험 문제로 임금을 대신해 작성한 글이다. 한 몸을 主宰하고 만 가지 일의 근본이 되는 마음(心)에 대해 물었다. 고요한 본체를 性이라 하고 사물에 응하여 발현된 것을 情이라 하며, 人心 또는 道心, 良心 혹은 本心 등 여러 경우에 대해 자세히 논할 것을 요구했다. 그리고 하늘을 섬기는 도는 마음을 보존하는 것(存心)일 뿐이며 命을 안다는 것은 이치를 궁구하는 것(窮理)일 뿐이라는 것에 대해서도 논하라고 했다. 또한 范祖禹의 딸이 마음이 어찌 들고 나는 것이 있겠느냐며 孟子는 마음을 모른다고 한 것에 대해 程子가 맹자를 알지는 못하지만, 마음은 알았다고 칭찬한 것에 대해 논할 것 등 마음에 대한 先儒들의 다양한 논의에 대한 자신의 비평적 견해를 요구했다. 그리고 마지막으로 유학을 闡明하고 인재를 기르기 위해 본래의 眞心을 어떻게 보존해야 하는지에 대해 물었다.
答金邵亭書 (16)
金永爵(1802∼1868)에게 답한 편지다. 김영작은 충주목사 金思稙의 아들이며, 영의정을 지낸 金弘集의 아버지다. 문을 닫아걸고 독서에만 몰두한 채 여생을 보내고자 한다는 뜻을 보였다.
答蕉泉鄭尙書書 (17)
蕉泉 鄭文升(1788∼1875)에게 답한 편지다. 선배들의 의리와 학문을 존숭하는 일에 대해 논했다.
奉蕉泉尙書論書體書 (19)
蕉泉 鄭文升(1788∼1875)에게 書體에 대해 논한 편지다. 梧川 李宗城(1692∼1759)의 碑碣을 준비하는 과정에서 정문승에게 우리나라와 중국의 書法의 역사와 이에 대한 자신의 견해를 피력했다. 고조부가 일찍 세상을 떠났기 때문에 이종성이 어린 종조카이자 이유원의 증조부인 李敬寬을 자식처럼 아끼며 사랑하고 항상 곁에 두었는데, 역시나 27살이라는 젊은 나이에 죽었고 그래서 이유원의 조부 李錫奎(1758∼1839)을 이종성이 손자처럼 아꼈다고 하며 이러한 인연으로 인해 자신이 이종성의 묘갈을 준비하는 일에 깊은 애정을 갖게 되었다고 했다.
與李尙書-宜翼-書 (25)
李宜翼(1794∼?)에게 보낸 편지다. 1594년(宣祖 27)에 지방 유림들의 공론으로 李穀과 아들 李穡의 학문과 덕행을 추모하기 위해 창건하여 위패를 모신 文獻書院의 기문을 李恒福이 지었는데, 『白沙集』에 있는 문헌서원의 기문과 서원에 걸려있는 현판의 내용에서 다른 부분이 있다며 이를 바로잡는 문제에 대해 논했다.
與景先書 (27)
族弟 李裕承(1835∼?)에게 보낸 편지다. 이유승은 李恒福의 9대손으로 李啓善의 아들이며, 부통령 李始榮의 아버지다. 白下 尹淳이 글씨를 부탁받으면 그 글의 내용이 좋은지 아닌지를 우선 확인한 후 청에 응했다는 이야기, 명나라 사람이 月沙 李廷龜에게 글을 청하며 100자 이내에서 지어줄 것을 부탁했는데 이정구가 100자 안에서 글을 마치지 못하고 簡易 崔岦이 몇 글자를 줄여 100자 안에서 마무리를 지었는데, 명나라 사람이 최립의 관직이 이정구보다 높지 않은 것을 이유로 다시 이정구에게 글을 부탁했다는 이야기 등을 거론하며 墓道文字를 청하는 일의 폐단에 대해 논했다.
與景先定祭品書 (28)
祭需의 사치를 경계하는 내용으로 族弟 李裕承에게 보낸 편지다. 從曾祖 李敬一(1734∼1820)이 大宗家의 제사 규칙을 정한 후 조부 李錫奎(1758∼1839)가 그것을 보완했다는 가문의 제사 의례의 내력에 대해 소개하면서, 祭禮는 祭需를 풍성하게 준비하는 것보다 청결함에 중점을 두어야 한다고 강조했다. 또한 비록 각 집안마다 조금씩의 절차상 차이는 있을 수 있다고 하면서 자신의 가문은 明谷 崔錫鼎의 朔祭에는 酒果를 사용하고 望祭에는 과일 하나만을 사용한다는 견해를 따르고 있음을 강조했다. 宋나라 司馬光이 宗廟 祭享의 물품을 간소히 할 것을 주장했고, 조선에서도 黃喜가 陵享을 줄일 것을 청했다고 하면서 나라에서 이처럼 앞장서 제례의 사치를 경계했으니 마땅히 사대부들 역시 제사에 근검절약해야 함을 지적했다.
與景昌定祭儀書 (29)
祭祀의 儀禮에 대해 논하며 族弟 李裕膺(1817∼?)에게 보낸 편지다. 忌祭를 지내는 방식이 집안마다 서로 다른데, 혹은 신주를 각각 진열하고 함께 지내거나 혹은 함께 진열하고 같이 지내기도 하는데 이것은 모두 예에 어긋난다고 했다. 정자는 櫝(신주를 넣어두는 궤)을 합친 반면 주자는 각각 설치했다고 하면서, 본래 자신의 가문에서는 신주를 각각 설치했었다고 하면서 주자의 견해에 찬동했다.
答朴平老書 (30)
朴昇壽에게 답한 편지다. 보내준 八句의 詩는 매우 뛰어나다고 하면서 동시에 사람에게 忠信은 평생을 지켜야 하는 것이라는 점을 강조했다.
上圭山祧位移奉次序書 (31)
祧位를 이안하여 봉안하는 순서에 관해 族叔 李啓翊(1803∼1861)에게 올린 편지다.
與宗中不祧位還奉長房書 (32)
不祧位를 모시는 禮에 대해 宗中에 보낸 편지다. 자신의 집에 別廟를 만들 수 있는 공간이 있다며 우선 이곳에 不祧位의 神位를 묘실 것을 제안했다.
與宗中書 (33)
族弟 李裕奭(1821∼?)의 상을 당해 상복을 어떻게 입어야 할 지에 대해 논하며 宗中에 보낸 편지다. 집안에서는 五服의 제도 중 가장 낮은 등급이고, 복상 기간이 3개월인 緦服을 입는다고 하면서 이에 대한 종중의 뜻을 물었다.
答景昌祧主權奉問答書 (34)
族弟 李裕膺에게 祧主(遠祖의 신주)를 權奉(정상적인 수순에 의해서가 아니라 형편에 따라 임시적으로 봉안하는 것)하는 문제에 대해 답한 편지다. 李裕奭의 상을 당하면서 祧主를 이유응의 집으로 옮겨야 하는 문제에 대해 논했다.
與楸谷宗中書 (35)
楸谷의 宗中에 보낸 편지다. 從曾祖 李敬一(1734∼1820)이 정한 大宗家의 제사 규칙을 준수해야 함을 강조했다.
答趙(土+肅)本生朞後服問答書 (36)
다른 사람의 후사가 된 사람이 本生의 부모상을 당했을 때 입어야 하는 의복에 대해 논하며 趙(土+肅)에게 답한 편지다. 검게 물들인 상복인 墨縗를 입어야 한다고 하면서 그것은 다른 사람의 후사가 된 사람은 본생의 부모보다 양부모를 더 중요하게 여겨야 하는 것이 의리의 올바름이라고 했다.
與景先論大學衍義書 (37)
『大學衍義』에 대해 논하며 族弟 李裕承에게 보낸 편지다. 군주의 행동강령인 『大學』을 經傳子史를 바탕으로 보충한 眞德壽의 『大學衍義』는 萬世의 太平之世를 여는 도구라고 칭송했다. 太祖가 처음 『대학연의』를 중시하기 시작한 이후 太宗, 世宗이 모두 훌륭한 책이라고 칭송했고, 中宗代에는 金安國이 『近思錄』과 함께 心學에 절대적으로 필요한 책이라고 중시했던 점, 顯宗과 肅宗 역시 『대학연의』를 중시했던 것 등에 대해 논했다.
與景先論沿革之弊書 (38)
族弟 李裕承에게 보낸 편지다. 『大學衍義』를 보면서 우리나라의 先儒들이 올린 奏文과 함께 비교하여 논했다. 中宗 때 趙光祖의 개혁 주장에 대해 중종이 祖宗의 法을 후손이 함부로 고칠 수 없다는 논리로 반대한 것의 잘못됨, 宣祖 때 成渾이 백성들이 고통받고 있는 상황에도 조종의 법이라 하여 개혁을 미루는 것의 잘못됨을 극력 강조한 것, 仁祖 때 金尙容, 趙翼, 崔鳴吉 등의 개혁 요구 등에 대해서도 언급했다.
與舜瑞論近思錄書 (41)
『近思錄』에 대해 논하며 趙璣淳에게 보낸 편지다. 『근사록』은 性理의 本源을 말하고 학문의 綱領을 밝힌 책으로 楊朱, 墨翟과 같은 異端을 辨破하고 堯舜 이후 유학의 大要를 설명한 책임을 강조했다. 그러므로 初學者는 반드시 이 『근사록』을 日用에 절실한 책으로 여기고 깊이 익혀야 한다고 했다.
與舜瑞論七情書 (46)
七情에 대해 논하며 趙璣淳에게 보낸 편지다. 喜怒哀懼愛惡欲이 생겨나는 근원인 情은 性이 발동한 것으로 性은 마음에 갖추어져 있고 情은 사물에 응하는 것으로 性과 情이 一身을 主宰한다고 했다. 그러므로 사람은 누구나 학문을 통해 배우고 익혀서 情이 사물에 응할 때 中節할 수 있도록 해야 함을 강조했다.
與舜瑞論經字異同書 (48)
여러 경전의 異同에 대해 논하며 舜瑞에게 보낸 편지다. 『周易』, 『詩經』, 『書經』, 『禮記』 등의 경전에 등장하는 字句를 여러 판본을 거론하며 서로 비교하고 대조하며 다른 부분에 대해 논했다. 『論語』, 『孟子』, 『中庸』에 대해서도 각 篇에서 다른 책에는 서로 다르게 등장하는 부분을 지적했다. 이러한 것들은 모두 하루 아침에 발견하여 기록해 둔 것이 아니라 그때그때 책을 읽으며 기록해 두었던 것이라는 점을 밝혔다.
答穉粹緬禮書 (53)
묘를 이장하고 제사지내는 일과 관련하여 穉粹에게 답한 편지다. 이번의 移葬은 先山이 편안해지는 일인 동시에 자손의 편안함과도 연관이 있는 문제라며 이장의 타당성을 강조했다. 또한 緬禮(묘를 이장하는 예)를 할 때 油果를 사용하는 문제에 대해서는 사용하지 않는 것이 좋다는 의견을 제시했다.
答圭山韜藉之制書 (54)
李啓翊에게 韜藉(神主를 모시는 主櫝을 씌우는 집으로 흔히 비단을 겹으로 포개 붙여서 신주에 꼭 맞게 만드는 데 開櫝할 때에는 그것도 따라서 벗김)의 제도와 관련하여 답한 편지다. 韜藉의 제도가 통일되지 못한 상황에 대해 『朱子家禮』, 『家禮輯覽』, 『喪禮備要』, 『四禮便覽』 등의 책을 인용하여 설명하고 있다.
與石居深衣之制書 (55)
石居에게 深衣의 제도에 대해 논한 편지다. 深衣는 宋代에 유행한 사대부의 복식으로 신분이 높은 선비가 주로 입었던 웃옷인데, 흰 베로 두루마기 모양으로 만드는 데 소매를 넓게 하고 검은 비단으로 가를 두른 것이 특징이다. 각 부위의 치수와 재질에 대해 자세히 논했다.
與景先書 (57)
族弟 李裕承에게 보낸 편지다. 찬성공의 忌祭를 함께 폐한 것은 잘못이 아니라고 했다.
與景先書 (58)
族弟 李裕承에게 보낸 편지다. 비록 外家와 本家는 차이가 있을 지라도 喪服을 입을 때만큼은 외가와 본가에 차이를 두어서는 안된다고 주장했다.
答景先書 (59)
族弟 李裕承에게 답한 편지다. 『朱子家禮』의 혼례 조항에 대해 논하며 禮라는 것은 情에서 나오고 情은 마음에서 나오기 때문에 마음에 편한가 불편하가를 기준으로 예에 적합한가 아닌가를 판단하면 된다고 했다.
答李台卿書 (60)
李台卿에게 답한 편지다. 태조・세조・원종・숙종・영조・순조의 御眞을 봉안했던 永禧殿에서 어진을 옮겨 봉안하는 일의 절차에 관해 논했다.
論軍旅書 (61)
군대에 대해 논한 편지다. 누구에게 보낸 것인지는 알 수 없다. 兵法에서 가장 중요한 것은 風雨의 움직임을 아는 것으로 장수들이 풍우의 변화를 알아야만 수하 병사들을 효과적으로 지휘할 수 있다는 점을 강조했다.
覆祁堂書 (63)
전원에 은거하며 사는 즐거움에 대해 논한 편지다.
答花山宗中書 (64)
花山의 宗中에 답한 편지다. 李恒福의 학문과 덕행을 기리기 위하여 1635년(인조 13) 지방 유림의 公議로 창건된 花山書院의 影幀 2本을 옮겨 모시는 일에 대해 논했다. 작은 영정은 禮曹의 關文으로 인해 노덕서원으로 옮기게 된 반면 큰 영정은 墳舍에 모시기로 화산의 종중에서 결의했지만, 분사에 모시는 것보다는 작은 사당을 별도로 건립하는 것이 좋겠다는 견해를 피력했다.
別紙 (64)
花山의 宗中에 답한 편지의 別紙다. 매년 10월 보름날인 이항복의 생일에 지내는 제사의 祭需와 儀節에 관해 간략히 논했다. 祭品은 朴世堂 影堂의 茶禮에 따르고, 의절은 徐渻의 時享祭의 예에 따를 것을 권했다.
上東里丈書 (66)
東里 李五秀(1783∼1853)에게 올린 편지다. 經・史・子・集을 비롯하여 조선의 典故・역사・지리・산물・書畵・典籍・詩文・歌辭・정치・외교・제도・宮中秘史 등 각 부문을 史料的인 입장에서 백과사전식으로 엮은 자신의 저서 『林下筆記』를 교정하는 과정에서 넣어야 할 내용과 빼야 할 내용에 대한 조언을 구했다.
與朴平老書 (67)
朴昇壽에게 보낸 편지다. 근래 글을 짓는 습속이 僻字와 隱語를 사용하여 문장의 겉모습만을 화려하게 꾸미는데 치중하고 있다는 점을 비판했다.
答朴平老書 (69)
朴昇壽에게 답한 편지다. 한 시대의 文風은 그 시대의 文柄을 잡은 사람에 의해 좌우되는 측면이 많다는 점을 지적했다.
與金鎭撫-善弼-書 (70)
金善弼에게 보낸 편지다. 강화도는 나라에서 중시하는 곳으로 몇 해 전 서양 군함으로부터 침략을 받은 것을 회복하는 방법에 대해 논했다. 중요한 것은 군사들의 마음을 얻는 것으로 춘추전국시대의 병법가 吳起가 병사들과 苦樂을 함께 했던 것, 전국시대 齊나라의 田單이 병졸들과 함께 궂은 일도 기꺼이 하면서 자기 식구 모두를 군에 편입시켜 군대의 사기를 높였던 것처럼 군사들을 위무하는 것이 가장 중요하다는 점을 강조했다.
與景昌書 (71)
族弟 李裕膺에게 보낸 편지다. 커다란 명예 뒤에는 반드시 큰 낭패가 따르게 된다는 말처럼 큰 기쁨 뒤에는 반드시 큰 걱정이 따를 것이라는 점을 강조하며, 輔榮이 20세가 되기 전에 과거에 급제한 것은 큰 기쁨이지만 훗날을 생각하여 미리미리 걱정이 생기지 않도록 할 것을 당부했다. 그러면서 그것은 오직 어떻게 訓導하느냐에 달려 있음을 강조했다.
與金渭師-尙鉉-書 (72)
金長生의 9대손 金尙鉉(1811∼1890)에게 보낸 편지다. 先賢의 文章을 본떠 글을 짓는 문제에 대해 논하면서, 徐居正이 하루에 詩 백편을 짓고는 다음날 자신이 어떤 글을 지었는지 기억하지 못했다는 것처럼 아무리 「歸去來辭」, 「赤壁賦」 등 훌륭한 글을 모방한다 해도 결국에는 자신의 글이 되지 못한다고 했다.
答趙肅夏書 (73)
趙肅夏에게 이사를 가면서 忌祭를 지내는 문제에 대해 답한 편지다. 金長生이 宗家에 사정이 있으면 齋舍나 墓舍에 자손들이 모여 제사를 지내는 것도 무방하다고 한 것을 인용해 조숙하의 집이 서울로 이사를 가더라도 기제를 묘에서 지내면 된다고 했다.
答人問出母服書 (74)
再嫁한 어머니가 죽었을 때 입어야 하는 服制에 대해 어떤 사람이 물어온 것에 대해 답한 편지다. 아버지가 죽은 후 재가한 친어머니를 嫁母라 부르는 반면 아버지와 이혼한 친어머니를 出母라 부른다고 하며 마땅히 嫁母를 위한 복제는 出母를 위한 복제보다 더 중시해야 한다고 했다.
答人父在母喪返虞儀書 (76)
아버지가 살아 있는 중에 어머니의 상을 당했을 때 返虞의 의례에 대해 어떤 사람의 물음에 답한 편지다. 반우는 시신을 매장하고 나서 집에 돌아와 곡을 하는 返哭과 땅속에 묻힌 시신의 혼령을 편안히 하기 위해 지내는 제사인 虞祭를 말하는데, 모든 예에는 아버지가 생존해 있으면 아버지가 主가 된다는 점을 강조했다.
與年貢使鄭穉仲書 (77)
年貢使 鄭穉仲에게 보낸 편지다. 자신이 전에 燕行하게 되었을 때 趙寅永(1782∼1850)이 중국에 가서 言貧, 文貧, 銀鈔貧의 三貧을 어떻게 이겨내겠냐고 했었는데, 실제로 중국에 가서 조인영의 말을 절감하게 되었다고 했다. 그러면서 만일 다시 燕行하게 된다면 귀를 막고, 입을 닫고, 눈을 감아 三貧의 고통을 겪지 않게 하리라고 했다.
答穉五追服可否書 (78)
李惇奎에게 追服의 가부에 대해 답한 편지다. 이돈규는 이유원의 從曾祖 李敬魯의 庶子다. 추복은 喪禮의 하나인데, 부모가 돌아갔을 때 나이가 어렸거나 또는 어떤 사고로 인하여 喪服을 입지 못하였다가 나중에 상복을 입는 것이다. 날짜가 많이 지나간 뒤에 사망 소식을 듣고 소급하여 입는 상복을 稅服이라 했는데, 이는 갓난아기였을 때나 혹은 유복자로 태어난 경우에 해당하는 것일 뿐으로 李滉과 尹拯이 모두 추복에 대해 부정적이었다고 했다.
左諭善任-憲晦-招延書 (79)
世孫講書院의 左諭善(종2품) 任憲晦(1811∼1876)를 부르는 편지다. 임금이 특별히 史官을 보내 敦諭를 전달하고 누누이 下敎하는 것은 반드시 부르고자 하는 뜻이 있는 것이라며 조정에 出仕할 것을 권유했다.
答金渭師書 (80)
金尙鉉에게 답한 편지다. 하루하루 시를 읊조리며 지내는 적막한 생활을 한다며 안부를 전했다.
答游天愚-智開-贈橘樹書 (81)
청나라의 永平府 太守인 游智開(?∼1898)가 귤나무를 보내준 것에 대해 답한 편지다. 유지개는 이유원이 이홍장에게 보내는 밀서를 전달해 주는 역할을 담당했던 인물이다. 귀한 귤나무를 보내준 것에 대해 깊은 감사를 표했다.
答游天愚-智開-書 (82)
청나라 游智開에게 답한 편지다. 李鴻章이 조선에 기여한 공로가 크다는 점은 조선의 모든 臣民들이 다 공감하고 있는데, 이홍장의 공로와 함께 유지개의 공로 역시 매우 크다는 점을 강조했다. 끝에는 游智開가 이유원에게 보낸 편지를 첨부했다.
答肅毅伯李中堂-鴻章-書 (85)
李鴻章(1823∼1901)에게 답한 편지다. 조선을 위해 노력하는 것에 깊은 감사를 표했다. 끝에는 이홍장이 보낸 편지를 함께 첨부했다.
答瀋陽將軍崇-實-書 (87)
瀋陽將軍 崇實에게 답한 편지다. 조선이 크게 의지하고 있다는 믿음을 전했다. 끝에는 숭실이 보낸 편지를 함께 첨부했다.
答池谷書 (88)
池谷에게 안부를 전하며 답한 간략한 편지다.
答趙定熙書 (89)
趙定熙(1845∼?)에게 답한 편지다. 여러 사람의 제사를 함께 지내는 合祭는 禮에 합당하지 않으며, 禫祭의 服色은 先賢들의 논의가 일정하지 않기 때문에 조상들이 행했던 것을 따르면 된다고 했다.
答趙肅夏書 (89)
趙肅夏에게 답한 편지다. 담제가 지나기 전에 출사하는 문제에 대해 논하며 예에 어긋나는 일이라고 했다.
答人父在母喪返虞儀書 (89)
어떤 사람이 아버지가 살아 있는 중에 어머니의 상을 당했을 때 返虞의 의례에 대해 물은 것에 답한 편지다.
答金君奭準書 (90)
중인출신의 시인 金奭準(1831∼1915)에게 답한 편지다. 文章은 천하와 고금을 통관하는 것으로 門地에 간섭되지 않는다는 점을 강조했다.
答周自弇書 (90)
周自弇에게 답한 편지다. 詩文을 통해 후세에 이름을 전하는 일의 의미에 대해 논했다.
寄游天愚書 (91)
청나라의 永平府 太守인 游智開에게 보낸 편지다. 일본은 물론 서양과의 通商에 회의적인 견해를 표명했다. 끝에는 청나라에 이유원의 편지를 전하던 譯官 李容肅의 편지를 첨부했다.
上保定書 (93)
保定에게 올린 편지다. 일본의 동정에 대해 논의하며 永興 등 북방 지역의 중요성을 강조했다.
寄吉林將軍銘鼎臣書 (94)
청나라의 吉林將軍 銘安에게 보낸 편지다. 길림 변경의 땅을 차지하여 경작하고 있는 咸鏡道 사람들의 처리 문제에 대해 논했다.
答吉林將軍書 (95)
吉林將軍 銘安에게 안부를 전하며 답한 편지다.
答周自弇書 (96)
周自弇에게 답한 편지다. 『全唐文』에 최치원의 이름이 빠져 있는 것을 보고 『桂苑筆耕』 1질을 보낸다고 하면서 간단한 안부를 전했다.
答瀋陽兵部書 (96)
瀋陽의 兵部에 안부를 전하며 답한 편지다.
呈欽差上勅書 (97)
청나라 황제의 명령으로 파견된 사신에게 보낸 편지다. 鄕廬에서 老病을 調息하고 있는 자신의 안부를 전했다.
答肅毅伯書 (98)
肅毅伯爺爵 李鴻章에게 답한 편지다. 西學을 전파하려던 프랑스인을 잡아 자백을 받은 후 解送했던 일 및 德源과 東萊府를 開港한 일과 관련하여 일본공사 하나부사 요시모토(花房義質,1842∼1917)와의 교섭 상황 및 중국이 조선에 미치는 절대적 영향과 은혜에 대해 깊은 감사를 표했다. 끝에는 영국, 독일, 프랑스, 미국과 통상하여 일본을 견제하고 러시아 사람들이 엿보는 것을 방지할 것을 권한 이홍장의 편지(1879년 1월 26일) 두 통을 첨부했다.
答肅毅伯書 (104)
이홍장에게 답한 편지다. 우선 憲書啓官 李容肅의 편에 글을 부치면서 永平府 太守인 游智開를 통해 이홍장에게 편지를 전달했는데, 그동안 신속하게 연락을 취하지 못한 점에 대해 사과했다. 최근에 일본과 화친하고 조약을 맺으며 通商하는 것은 어찌할 수 없어서 하는 일이지만 그 접촉 과정에서 의심하는 뜻을 보이지 말라고 한 이홍장의 지시를 그대로 지키고 있다고 강조했다. 또한 규정한 이외의 딴 항구를 지적하며 개방해 달라고 했지만 어디나 중요한 지역이기 때문에 쉽게 승낙하지 않았고 仁川은 수도의 인근에 있기 때문에 마침내 그들의 요구에 응하지 않았더니 어느 정도 불평을 품었으나 관계가 파탄되지는 않았다고 하는 등 조선과 일본의 외교 상황에 대해 자세히 설명했다. 끝에는 이홍장의 편지를 첨부했다. 이홍장의 편지에서는 일본인의 성정이 포학하고 탐욕스럽기 때문에 조선이 교섭할 때 어려움을 많이 겪게 될 것이라고 했다. 또한 일본 公使 何侍讀이 글을 보내와 조선과의 교섭을 희망한다고 하는 이야기도 전했다. 그리고 交隣의 도는 그것이 타당하다면 원수가 오히려 원조자가 되고 반대로 타당하지 않다면 원조자가 원수가 되기 때문에 일본과의 마찰이 없이 교섭이 잘 진행되기를 희망한다고 했다. 그러면서도 일본의 처사가 잘못되고 행동이 망측하므로 미리 방어해야 한다는 점을 강조하면서 일본이 서양의 제도를 숭상하여 허다한 것을 새로 만들면서 벌써 부강해질 방도를 얻었다고 스스로 말하지만 사실은 國債가 쌓여 도처에서 말썽을 일으키면서 널리 땅을 개척하여 그 비용을 보상하려고 하지 않을 수 없는데 그 대상에 조선이 포함된다며 주의할 것을 당부했다. 그러면서 중국은 병력과 군량이 일본의 10배나 되기 때문에 스스로 견뎌낼 수 있겠지만 조선을 그렇지 못하므로 은밀히 武備를 닦고 군량도 마련하며 군사도 훈련시키는 등 방어를 튼튼히 할 것을 당부했다.
擬廟堂書 (111)
廟堂에 올린 擬書다. 일본의 개항요구에 대해 논하며 南陽 역시 王畿의 요충지로 인천과 마찬가지의 지리적 중요성이 있다고 강조했다.
擬廟堂書 (112)
廟堂에 올린 擬書다. 청나라에서 쓰던 동전인 小錢을 들여와 사용하는 문제에 대해 부정적인 견해를 표했다.
擬廟堂書 (113)
廟堂에 올린 擬書다. 미국과 프랑스를 상대하면서 오직 禮義를 지켜야 한다고 강조했다.
答鄭穉仲書 (114)
鄭穉仲에게 답한 편지다. 宗家의 長子喪에는 斬衰 3년을 입는다며 服制에 대해 간략히 논했다.
與周溪書 (115)
周溪 鄭基世(1814∼1884)에게 보낸 편지다. 정기세는 영의정을 지낸 鄭元容의 아들이며, 우의정을 지낸 鄭範朝의 아버지이다. 부인의 상을 당했을 때의 服制에 대해 간략히 논했다.
答景先書 (116)
族弟 李裕承에게 답한 편지다. 이유승의 돌아간 어머니 산소가 있는 곳에 繼母의 산소를 모시는 문제는 예에 어긋난다고 했다. 비록 예전에 霞谷 鄭齊斗가 먼저 돌아간 두 부인의 묘를 한 곳에 마련하고 그 사이를 비워둔 채 훗날 자신의 묘자리로 준비했는데, 정제두가 죽은 후 사정이 있어 다른 곳에 장사지냈던 일은 있었지만, 이것은 준거로 사용할 수 없는 것이라 했다.
答趙爰夏書 (117)
趙爰夏에게 답한 짧은 편지다. 旁題(神主 아래의 왼쪽에 쓰는 제사를 받드는 사람의 이름)를 쓸 때 제주가 너무 어리면 冠名을 지어 쓸 것을 제안했다.
答景先書 (117)
族弟 李裕承에게 답한 편지다. 이유승의 아들로 이유원의 후사가 된 李石榮이 이유원의 아들 李壽榮보다 나이가 많기 때문에 형이 되는 것은 너무도 당연하다고 했다.
與景先書 (118)
族弟 李裕承에게 답한 편지다. 이유원의 아들 이석영의 첫째 부인(鄭基轍의 女)의 무덤을 移葬하는 문제에 대해 논했다.
答趙玉垂書 (118)
秋史 金正喜의 戚姪이자 제자인 玉垂 趙冕鎬(1803∼1887)에게 답한 편지다. 노년에 자연을 벗하며 지내는 삶에 대해 논했다.
與李統使-元會-書 (119)
李元會(1827∼?)에게 보낸 편지다. 忠武公 李舜臣이 창설한 統營의 방비에 전념해 줄 것을 당부했다.
與景先書 (120)
族弟 李裕承에게 답한 편지다. 禫祭의 복제에 대해 논하며 黑笠에 白條帶를 하는 것이 집안의 예라고 했다. 끝에는 예전에 담제를 지낼 때 黑團領을 입기도 했는데 그것은 옳지 않다는 追書를 첨부했다.
論吉月出仕書 (121)
吉月에 출사하는 문제에 대해 논한 편지다. 복상을 마치고 나면 임금의 명령이 중요하기 때문에 길월에 출사하는 것이 얼마든지 가능하다고 했다.
答尹穉道書 (121)
尹穉道에게 답한 편지다. 保晩齋 徐命膺(1716∼1787)이 문형을 역임하면서도 騈儷文을 짓지 않았던 것처럼 四六騈儷文은 문장을 중시하는 사람들에게 그다지 중요한 것이 아님을 강조하고, 조선의 변려문은 중국의 변려문과 다른 점이 많다고 했다.
乙未記夢說 (123)
1835. 조부 李錫奎로부터 들은 꿈 이야기에 대해 기록한 글이다. 이유원이 便服차림의 漢陰 李德馨을 만났는데 이덕형이 배고프다며 술과 음식을 찾기에 대접해 드렸다는 조부 이석규의 꿈 이야기를 들었는데, 얼마 후 이유원이 이덕형의 祠版을 구해 藥峴의 私第에 봉안하게 되었다는 인연을 기록했다.
書家正派說 (124)
書藝의 역사에 대해 중국의 기원부터 설명한 글이다. 蝌蚪文과 周나라 宣王 때 太史 史籒가 지은 大篆과 大篆의 자체가 너무 복잡하여 쓰기에 불편했으므로 秦나라의 丞相 李斯가 개량하여 간략하게 만든 小篆의 출현 및 八分書의 정립, 이후 隸書 3천자의 등장과 이후 行書와 草書의 정립. 鳥跡書, 鵠頭書, 龍書, 飛白書, 上方大篆, 墳書, 穗書, 垂雲書 등 古篆 三十八體의 성립과 이후 중국의 서법 전개에 관해 설명했다. 우리나라에 이르러서는 金生의 楷書와 楊士彦의 草書가 晋나라 서법의 쇠락함을 회복했고, 이어 韓濩가 해서의 진수를 얻었고, 尹淳이 동방 서법의 거침을 극복했으며, 李匡師는 秦漢의 衣鉢을 전수받았다고 했다.
培松說 (129)
소나무를 기르며 소나무의 곧은 성품에 대해 논한 글이다. 비록 등나무 덩굴이 휘감아 곧게 자라거나 높이 자라지 못했더라도 그것은 소나무의 본래 속성이 아니라고 했다.
放鼠說 (130)
쥐를 놓아준 것에 대한 글이다. 東里 李五秀(1783∼1853) 상자 안에 들어온 쥐를 놓아준 것은 하인에게 仁을 가르치게 한 효과가 있다고 했다.
養馬說 (131)
말을 기르는 것에 대한 글이다. 天駟가 흩어져 말이 되면서 좋은 것은 준마가 되고 좋지 못한 것은 둔한 말이 되었다고 하면서 한 목장 안에 준마와 鈍馬가 섞여 있어도 각각의 기질에 의해 구분이 된다고 했다.
種椶櫚者說 (132)
종려나무를 심는 것에 대한 글이다. 매우 크게 자라는 종려나무의 속성에 대해 논하며 집안에 심는 것의 장단점이 있음을 논했다.
畜猫者說 (133)
고양이를 기르는 것에 대한 글이다. 어느 승려가 고양을 길렀는데 새끼 고양이가 점차 자라며 혼잡스럽고 먹을 것을 훔치는 습성을 보고는 다시 기르지 않겠다고 한 일을 거론하며 본성은 그렇지 않지만 점차 불의에 빠지게 되는 인간의 모습에 비유했다.
册十二
協宣堂重修記 (1)
議政府의 協宣堂 중수에 대한 기문이다. 1865년(고종 2) 중수한 의정부의 협선당은 贊成(종1품)과 參贊(종1품) 4명의 집부실로 찬성과 참찬의 내력과 중국의 역대 제도와의 비교 및 임금을 도와 정치를 행하는 찬성고 참찬의 중요성에 대해 언급했다.
文憲書院重修記 (3)
황해도 해주의 文憲書院 중수에 대한 기문이다. 문헌서원은 崔沖(984∼1068)과 그의 아들인 崔惟善(?∼1075)의 위패를 봉안하한 서원으로, 1549년(명종 4) 愼齋 周世鵬(1495∼1554)이 건의하여 賜額을 받았고, 1685년(숙종 11년) 影幀을 봉안했는데, 이러한 내력은 崔錫鼎이 지은 書院志에 기록되어 있다고 했다. 1861년(철종 12년) 이유원이 묘당에서 중수할 것을 건의하였고, 다음해 일이 이루어졌다는 내력을 기록했다.
九峯書院重修記 (4)
九峯書院의 중수에 대한 기문이다. 구봉서원은 南溪 朴世采(1631∼1695)의 위패를 봉안한 서원인데, 이유원의 선조인 龜川 李世弼(1642∼1718)과 厚齋 金榦(1646∼1732)이 박세채의 문인이 되었던 인연으로 이유원의 선조들이 3대를 거치며 구봉서원의 원장을 지냈다고 했다. 1861년 이유원이 황해도 관찰사로 부임했을 때 김간의 후손을 만나 서원의 중수기문을 부탁받아 짓게 되었다는 내력을 기록했다.
藕華亭重建記 (5)
황해도 碧城의 藕華亭 중수에 대한 기문이다. 1829년(純祖 29) 이유원이 16살 때 부친을 모시고 벽성에 놀러갔다가 控海臺의 동쪽에 있는 작은 정자의 문미에 藕華라고 이름을 붙였었는데, 34년이 지난 후 황해도 관찰사로 부임했다가 자신의 題額을 만나고는 이를 인연으로 하여 중건 기문을 짓게 되었다고 했다. 邑誌를 살펴보니 본래의 이름은 小荷였고, 처음 언제 지어졌는지는 알 수 없지만 1772년(영조 48) 鄭存中이 중수했다는 등의 정자의 내력을 기록했다.
瓢巖碑閣記 (7)
경주이씨의 시조 瓢巖 李謁平(기원전 117∼기원후 83)의 비각인 瓢巖碑閣의 기문이다. 표암비각은 경주의 동쪽 月城에 있는데, 1806년(순조 6) 族祖인 李敬一(1734∼1820)과 李集斗(1744∼1820)가 세웠는데, 1846년(헌종 12) 이유원의 부친 李啓朝(1793∼1856)가 비각을 중수했다는 내력에 대해 기록했다. 또한 嶠南(영남)이 조선의 鄒魯에 해당하고, 月城은 경주이씨의 고향에 해당한다고 했다.
三書院重修記 (8)
抱川의 花山書院, 北靑의 老德書院, 靈光의 栢山書院을 중수한 것에 대한 기문이다. 화산서원은 이유원의 부친 李啓朝가 중수했고, 노덕서원은 李宗城(1692∼1759)이 중수했으며, 백산서원은 李敬一이 영광태수가 되었을 때 돈과 祭田을 마련한 것을 토대로 이유원이 중수했다는 내력을 기록했다.
嘉梧室藏書記 (9)
이유원 자신의 藏書에 대한 글이다. 중국에는 오래전부터 이름을 날린 藏書家들이 있었지만, 우리나라는 고려시대의 武臣亂과 조선시대의 壬辰倭亂과 丙子胡亂 등으로 인해 책들이 많이 없어졌기 때문에 대단한 藏書家들이 없었다고 했다. 그러나 이유원이 살던 시대만 해도 활자 인쇄가 보편화되어 책을 간행하는 일이 훨씬 수월해졌기 때문에 많은 사람들이 藏書에 노력을 했지만, 책을 모으는 일보다 그 책을 읽는 일이 더 중요하고, 책을 읽는 일보다 책을 통해 얻은 지식을 행동으로 옮기는 것이 더 중요하다는 점을 강조했다.
張氏兩世烈孝旌閭記 (11)
慶州의 효자 張季龍과 그의 어머니 坡平尹氏의 정절을 기리는 정려에 대한 기문이다. 파평윤씨는 尹東燁의 딸로 남편 張厚時가 1834년 죽자 식음을 전폐하고 피눈물을 흘리며 슬퍼하다가 失明했는데, 그 아들 장계룡이 지성으로 병간호를 하고 집안 후원에 壇을 마련하고 10년 동안 하루도 빠짐 없이 기도를 드리고, 동생에게는 각지의 명산을 찾아 기도하게 했다. 그러자 1844년 어머니 윤씨가 자리에서 일어나고 시력도 되찾았다. 이러한 사실을 이유원의 부친 李啓朝가 1846년 경상감사로 부임했을 때 경주에서 듣고는 조정에 아뢰고자 했으나 그러지 못했는데, 1867년 경상도 관찰사가 아뢰어 정려가 내리게 되었다는 내력을 기록했다.
李氏旌閭記 (12)
烈女 全州李氏에 대한 旌閭의 기문이다. 전주이씨는 남편이 죽자 손가락을 깨물어 피를 흘려 남편의 병구호를 했고, 遺腹子로 태어난 둘재 아들은 후일 檀波라는 당호를 가진 승려가 되었다고 하면서, 함경도 관찰사가 되었을 때 승려 檀波의 이름을 듣게 되었다는 내력을 기록했다.
杭眉亭重修記 (13)
수원 西湖의 남동쪽에 있는 정자 杭眉亭의 중수에 대한 기문이다. 1831년(순조 31) 당시 화성유수였던 朴綺壽(1774∼1845)가 정자를 세웠는데, 20여 년 후 이유원이 수원에 휴가차 내려갔다가 정자에 들러 옛일을 회상하며 글을 지었다. 정자의 이름은 '杭州의 眉目'이라는 소동파의 시에서 따왔고, 편액은 金祖淳이 썼고, 옛 기문은 박기수가 썼다고 했다.
天一亭記 (14)
한강변에 자신이 지은 정자 天一亭에 대한 기문이다. 임진왜란 당시 李恒福이 명나라 사신 熊化와 함께 한강변에서 뱃놀이를 하며 詩로 酬唱한 일이 있었고, 부친 李啓朝가 항상 한강변에 집을 지어 노년을 보내고자 하는 생각이 있었다고 하며, 한강변 雩壇의 尾保村(남산의 한 줄기인 응봉 아래의 마을)에 작은 집이 있는 것을 구입하여 수리하여 정자로 만들었는데, 그 자리가 바로 예전에 朝天亭이 있던 자리라고 하면서 하늘이 五行의 으뜸인 물을 낳는다는 『周易』 繫辭에서 뜻을 따와 이름을 지었다고 했다.
西林亭重修記 (15)
전북 부안에 있던 西林亭의 중수에 대한 기문이다. 1846년 부안현감 三嵓 趙然明이 이유원에게 서림정의 편액 휘호를 부탁했었고, 그로부터 5년 후 부안을 방문했을 때 친구 朴珪壽가 현감으로 있으며 자신을 반갑게 맞이해 주어 주변을 둘러보았던 인연이 있다고 했다. 그런데 1868년(고종 5) 雨堂 李弼儀가 자신을 방문하여 서림정의 중수기문을 부탁하여 짓게 되었다는 내력을 기록했다.
六宜軒重修記 (17)
六宜軒의 중수에 대한 기문이다. 이유원의 妹弟인 鄭憲朝가 安州牧使로 재임하고 있던 1870년 자신에게 관아의 별관인 육의헌에 대한 기문을 요청하여 글을 짓게 되었는데, 地理가 변하면 사람의 일도 또한 변하는 것이 당연하다는 의미를 지니고 있다고 했다.
彤谿觀重修記 (18)
丹陽縣의 관아인 彤谿觀을 중수한 것에 대한 기문이다. 태백산에서 발원한 물이 흐르는 단양에는 玉筍峰, 龜島 등 關東八景에 버금가는 절경을 지니고 있는데, 친구 鄭基大가 몇 해 동안 단양을 다스리며 善政을 베풀었고 이어 관아의 한 건물인 彤谿觀을 중수한 것을 축하했다.
文溪講堂記 (19)
文溪講堂의 기문이다. 靑나라 鳧舊縣은 조선 文溪驛의 북쪽인데, 조선전기에 松窩 李從允(1431∼1490)이 지은 작은 집이 있었는데, 훗날 집이 퇴락하여 후손들이 힘을 모아 講學을 위한 장소로 중수했던 내력을 기록했다.
齊安堂重修記 (20)
黃海道 黃州에 있는 齊安堂의 중수 기문이다. 제안당은 중국의 사신과 중국에 사신 행차가는 일행이 머무는 곳으로 이유원 역시 30여 년의 관직 생활 동안 10여 차례 들렀다고 했다. 牧使인 妹弟 鄭憲朝가 새로이 중수하며 기문을 지어줄 것을 청해 지으면서, 자세한 내력은 이미 邑誌에 나와 있으니 생략하는 대신 정헌조의 善治에 대한 염원을 칭송했다.
三宜亭記 (21)
충청도 林川에 있는 三宜亭에 대한 기문이다. 삼의정은 백마강 하류에 있는 白巖山에 있는데, 尹聖問의 조상이 지은 것이다. 관직에서 물러나 쉬고, 물가에서 고기 잡으며, 산에서 나물 캐는 3가지의 즐거움을 가진 정자라는 의미를 계승하여 새롭게 중수한 윤성문의 정성을 칭송했다. 이유원이 靑蘿洞에 있는 先山에 가는 길에 들렀을 때, 윤성문이 글을 부탁하여 짓게 되었다고 했다.
小於艓記 (22)
鄭健朝(1823∼?)의 정자 小於艓에 대한 기문이다. 본래 艓은 작은 배를 의미하는 글자인데 정자를 艓이라 부른 것은 杜甫의 詩句에서 그 의미를 빌려온 것이라고 했다.
淸斯樓記 (23)
淸斯樓에 대한 기문이다. 淸斯樓는 淸平川 가에 있던 秋潭 趙漢鏡의 別墅인데, 자신을 단속함에 철저했고, 나라에 큰 공을 기여했음에도 조용히 물러나 작은 집에 거처하며 지냈던 조한경의 높은 덕에 깊은 감화를 받았다고 했다. 또한 물가에 임한 이 집을 통해 마음을 다스리는 일이 물을 바라보는 일과 유사한 점이 있음을 지적했다.
九成樓記 (24)
春川에 있는 九成樓에 대한 기문이다. 이유원이 1865년(고종 2) 춘천 鳳儀山에 있는 君子谷을 지나며 聞韶閣에 들렀던 인연이 있었는데, 5년 후 金炳陸이 춘천의 태수가 되어 누각을 새로이 중수했다며 기문을 청해 글을 짓게 되었다고 했다. 韶는 舜임금의 음악이고, 봉황 역시 聖人의 출현을 의미하는 상서로운 동물이라는 점과 함께 고을을 다스리는 것은 집을 짓는 일과 같은데 백성들을 힘들게 하지 않고도 집을 보수한 太守의 공을 기렸다.
龜川先生不祧廟記 (26)
龜川 李世弼(1642∼1718)의 不祧廟에 대한 기문이다. 이세필은 이항복의 증손으로 不遷位 제사의 대상이 되는 신주를 모시는 사당인 不祧廟에 모시게 된 것을 기록한 글이다. 1863년 鄭元容이 조정에 건의하여 허락을 받았는데, 李恒福이 보여준 절의와 함께 이세필의 공로가 단순히 한 집안만의 의미가 아니라 萬世의 綱常의 근본이 된다는 점을 강조했다.
西溪朴先生畫像記 (28)
西溪 朴世堂(1629∼1703)의 초상화에 대한 글이다. 浿川 曺世傑(1635∼?)이 그린 초상화로 石泉의 옛집에 봉안되어 있는데, 幅巾을 쓰고 玄端을 입은 채 높은 바위 위에 앉아 있고 그 아래로는 맑은 물이 흐르는 풍경이라고 했다. 南九萬과 李德壽가 칭송했던 것처럼 자신도 박세당의 節義와 忠信을 평소 존경했으며, 박세당의 『小學解』와 『思辨錄』은 선현들이 밝히지 못한 것이라는 의미를 지닌다고 강조했다. 1865년 다시 초상화를 배알했을 때 후손 朴昇壽가 글을 요청해 짓게 되었다고 했다.
藍浦縣監李公戰亡日錄後記 (30)
丙子胡亂 당시 순절한 藍浦縣監 李慶善(1600∼1636)의 戰亡日錄에 대한 後記다. 이경선의 본관은 慶州이고, 字는 君善이며, 碧梧 李時發의 庶子이고 吳允謙의 사위다. 1624년(인조 2) 진사시에 합격하고, 1632년(인조 10) 문과에 급제했는데, 병자호란 당시 藍浦縣監으로 재직했다. 전쟁이 발발하자 충청감사 鄭世規의 명령에 따라 군사를 모집하여 廣州 險川까지 올라가 전투에 임하다 죽어 鎭川의 동쪽 長尺里에 묻혔다. 1870년 후손 李鍾夔의 집안에서 전투에 임했던 당일의 일기를 발견했는데, 그 안에 공의 혁혁한 공과 충성이 잘 표현되어 있다고 했다. 또한 이시발이 이항복의 문하에 출입하였고, 함께 임진왜란을 극복하는데 공을 세웠던 것과 자신이 이경선에 대한 글을 짓는 인연에 대해서도 기록했다.
墨溪庄記 (32)
石居 金基纘(1809∼?)의 농막에 대한 글이다. 김기찬의 본관은 淸風. 字는 公緖로 이유원과는 40년 知己이다. 자신의 오랜 친구가 奇行으로 士友들 사이에 이름을 얻었다고 했다.
紫芝洞記 (33)
자신의 거처인 嘉梧谷의 골자기인 紫芝洞에 대한 글이다. 紫芝洞은 嘉梧谷에 있는 세 폭포 가운데 첫 번째로 가장 수심이 깊은 곳이며 물은 紫芝峰에서 발원한다고 했다. 비록 九龍瀑이나 朴淵瀑, 寒溪瀑 등에는 미치지 못하지만 매우 아름다운 골짜기임을 강조했다.
葛川洞記 (34)
丹陽에 있는 葛川洞에 대한 기문이다. 丹陽 邑治의 동쪽에 後坪嶺이란 고개를 넘어 동남쪽으로 40리를 가면 舍人三仙巖이 있는데, 그곳에서 20리 떨어진 곳에 운선구곡이 있고 그 구곡의 첫 번째 골짜기가 葛川洞이다. 둘레가 10리 정도가 되고 그 안에 問莫亭이라는 정자도 있다고 했다.
靑蘿洞記 (35)
保寧에 있는 靑蘿洞에 대한 기문이다. 保寧 邑治의 서쪽에 있는데, 비옥하기는 鄭白(전국 시대 韓나라의 鄭國과 趙나라의 대부 白公이 만든 관개용 도랑)을 능가하고 魚鹽이 풍부하다고 했다. 또한 土亭 李之菡(1517∼1578)과 天休堂 朴泰遜(1641∼1692)이 이곳에서 살았는데, 아직 그 후손들이 많이 살고 있다고 했다.
蓮社廣緣會記 (37)
금강산 楡岾寺의 승려 大雲에게 써 준 蓮社廣緣會에 대한 기문이다. 大雲이 萬日會를 열고 자신을 불렀기에 이에 응하여 글을 지었다고 했다.
海絮記 (38)
바다 안개에 대한 글이다. 1850년 전라도 관찰사가 되었을 때 扶安에 들렸다가 승려의 안내를 받아 邊山에 가서 바닷가 절벽에서 마주했던 바다 안개를 추억하며 그 아름다움에 대해 기록했다.
東峽海棠記 (39)
동해가의 海棠花에 대한 글이다. 예로부터 해당화에 대해서는 향이 없다고 했는데, 花譜를 살펴보니 해당화는 4가지의 종류가 있는데, 蜀州와 昌州의 것은 향이 있다고 했으며 동해의 해당화는 蜀州의 종자라서 향이 있다고 했다.
金剛楓葉記 (40)
금강산의 단풍에 대한 글이다. 금강산은 봄에는 怾怛, 여름에는 蓬萊, 가을에는 楓岳, 겨울에는 皆骨이라는 이름으로 불리는데, 그 중 가을이 최고라고 하면서, 금강산의 가을 단풍에 대해 그 아름다움을 칭송했다. 또한 금강산을 나와 三日湖와 叢石亭에서 海棠花를 감상하는 즐거움에 대해서도 논했다.
東海卵島記 (41)
동해변에 있는 섬 卵島에 대한 기문이다. 1864년 함경도 관찰사에서 해임되어 돌아오는 길에 元山에 들렸다가 작은 섬 하나를 보았는데, 다음해 叢石亭에 올라갔다가 다시 그 바위를 보게 되었다며 元山과 通川의 경계에 있는 섬이었음을 깨달았다고 했다.
夢泉門巖觀日出記 (42)
금강산의 門巖에서 일출을 본 것에 대한 기문이다. 사람들은 모두 바닷가에서 일출을 보아야만 한다고 하는데, 금강산에 갔다가 三日湖에서 놀고 夢泉庵에서 자고 일어난 다음날 門巖에 올라가 일출을 보았을 때의 황홀함에 대해 서술했다.
彌智山賞楓記 (43)
경기도 양평의 彌智山(龍門山)에서 단풍을 감상한 것에 대한 글이다. 1869년 용문산의 龍門寺를 찾아가 주지 寶月과 함께 묵은 다음 함께 산을 올랐는데, 단풍과 산세의 아름다움이 금강산에 뒤지지 않는다고 했다.
海印寺藏經閣重修記 (44)
海印寺의 藏經閣을 중수한 것에 대한 기문이다. 신라 제40대 哀莊王 때 高僧 順應이 창건했고, 1393년 태조 이성계가 고탑을 중수한 이후 강화도 禪源寺에 있던 高麗八萬大藏經板을 옮겨 봉안하며 직접 발문을 지었으며, 1458년 世祖가 승려 竹軒 등에게 명하여 대장경 5건을 간행하게 하고 승려 慧覺, 信眉, 燈谷, 學祖 등에게 명하여 해인사의 전각 상태를 조사하여 보수하게 하고, 仁粹王后와 仁惠王后가 貞熹王后의 遺志를 받들어 學祖로 하여금 해인사의 중수를 감독하게 했다는 내력을 자세히 기록했다. 또한 1872년 조선 개국 8周甲을 맞아 승려 曇華, 慧峰, 古鏡 등으로 하여금 팔만대장경을 보관한 藏經閣을 중수하게 하고는 자신에게 글을 짓도록 명했다는 내력도 기록했다. 이유원은 금강산 正陽寺에 가서 대장경 1부를 본 적이 있을 뿐 海印寺에는 가 본 적이 없다고 했다.
嘉谷茶屋記 (46)
嘉梧谷에 마련한 자신의 茶室에 대한 기문이다. 본래부터 차를 좋아하여 葉志詵(1779∼1863)이 직접 써 준 春風啜茗之臺라는 작은 다실을 마련해 두었었는데, 가오곡으로 이주하면서도 다시 길이 5척, 넓이 2척의 다실을 만들었다고 했다. 그리고는 湖南의 普林茶, 제주의 橘花茶, 중국의 龍井茶와 雨前茶를 마련해 두고는 때때로 즐겨 마신다고 했다.
退川憩廬記 (46)
1878. 退溪院에 마련해 둔 자신의 別墅에 대한 기문이다. 洪福山과 佛巖山 및 王宿川이 흐르는 퇴계원은 한양에 들어갈 때 항상 지나는 곳으로 물러나 쉴만한 곳을 마련하고 退川憩廬라는 편액을 내 걸었다고 했다.
白沙先生舊第重修記 (47)
백사 이항복의 옛 집을 중수한 것에 대한 기문이다. 이항복은 崇禮門 안 남산의 기슭 아래 紫閣峯의 골짜기인 西部 養生坊 第西部에서 출생했는데, 이곳에 司倉을 설치한 이후 倉洞으로 불렸다고 했다. 이곳에서 이항복은 어머니 권씨를 모시고 살았는데, 李敬一 때가지 7대를 전해 내려왔고, 그곳에는 이항복이 직접 심은 두 그루의 회화나무가 있었고, 그 이름을 딴 雙檜亭이라는 정자도 있었다고 했다. 그러나 이후 다른 사람의 소유가 되었고, 이에 이유원이 宗中과 협의하여 먼저 쌍회정을 구입하고 나중에 집을 구입하여 보수했다는 내력을 기록했다.
左司諫牟公旌閭重修記 (48)
左司諫을 지냈던 牟恂의 旌閭를 중수한 것에 대한 기문이다. 모순의 본관은 晉州, 字는 恂之인데, 圃隱 鄭夢周의 문하에서 공부를 했고, 1417년(태종 17) 문과에 급제했으며, 관직을 좌사간에 이르렀다는 것이 耳溪 洪良浩가 지은 묘표문에 나와 있다고 했다. 어릴적 부모의 병이 깊어 의원을 데리러 가는 길에 강물이 크게 불어나 건널 수 없자 하늘을 향해 큰 소리로 외쳐 통곡하자 물길이 저절로 끊겼던 일화가 있어 截江선생으로 불렸다고 하는 등 지극한 효성을 칭송했다.
靜沙堂記 (49)
義州에 있는 靜沙堂에 대한 기문이다. 義州太守로 부임해 있을 때 처음 접했는데, 언제 창건된 것인지 알지는 못하지만, 주변의 풍광이 역대 중국의 명화에 버금갈 정도로 뛰어나다는 점을 강조했다.
岐城鄕校風化樓重修記 (50)
岐城(巨濟島의 옛 이름)의 향교 누각인 風化樓를 중수한 것에 대한 기문이다. 이유원은 1881년 개화를 반대하는 유생들의 상소로 인해 관직에서 물러난 후 처음에는 中和府에 유배되었다가 이후 巨濟島로 이배되었는데, 이 때 거제의 여러 선비들이 풍화루를 중수하고는 자신에게 중수기문을 청하여 짓게 되었다고 했다.
聽溪堂重修記 (51)
해주 石潭에 율곡 이이가 지은 聽溪堂의 重修 기문이다. 이항복이 이이를 만났던 일을 회상하며 이이가 지은 鄕約이 이후 士林들에게 큰 영향을 미쳤음을 강조했다. 봉사손 李漢永이 글을 청해 짓게 되었다는 내력도 기술했다.
以威堂駐節記 (52)
함경도 절도사의 병영인 以威堂에 대한 기문이다. 이유원이 함경도 관찰사에 임명된 다음해인 1863년에 李恒福을 추모하기 위해 세운 老德書院을 찾아가는 길에 함경도 절도사의 병영에 들러 절도사 許熠과 대화를 나누다가 허습의 청으로 기록하게 되었다는 내력을 서술했다. 또한 조상을 섬기는 일이 지니는 의미와 함께 以威堂의 뜻이 위엄으로 천하의 의로움을 삼는 것에 있다고 했다.
望海樓重建記 (52)
함경북도 鏡城의 절도사 병영에 있는 望海樓의 중건 기문이다. 1864년 함경북도 절도사 李南軾이 東西의 문을 중수하고 여러 부재를 교체하는 일을 완료한 것에 대해 장수로서의 일에 충실할 것을 당부했다.
延安府校宮重修記 (53)
황해도 延安府 鄕校의 중수 기문이다. 1887년 연안부의 사림과 백성들이 향교를 중수했는데, 이유원이 1861년 황해도 관찰사로 부임했을 때 임진왜란 당시 왜구를 물리친 李廷馣의 일을 기록한 이항복의 戰勝碑를 찾았던 기억을 떠올렸다. 그리고 학교의 興廢는 斯道의 진작과 연관이 깊은 중요한 일이라고 강조하며 연안부 사람들의 노력을 칭송했다.
家藏御書序 (55)
집안에 있는 憲宗의 御書에 대한 글이다. 1848년(헌종 14) 義州府尹으로 부임할 때 헌종이 직접 써 준 글씨가 있었는데, 그로부터 17년 후 粧潢을 하고 집안의 보물로 간직하고자 한다는 뜻을 기록했다.
壽進寶酌序 (57)
石瓊樓 아래에서 발굴해 낸 구리 그릇에 대한 기문이다. 1865년(고종 2) 경복궁 중건 공사를 할 때 현재의 세검정 초등학교 부근의 석경루 터에서 발견한 구리 그릇에 壽進寶酌이라는 글이 적혀 있었는데, 이를 두고 고종이 여러 신하들에게 글을 지으라고 명령하여 이에 응해 지은 것이다. 이유원은 임금과 흥선대원군의 장수를 의미하고 국운이 더욱 창성하게 될 것을 의미하는 상서로운 일이라고 칭송했다.
晩六先生遺藁序 (58)
晩六 崔瀁(1351∼1424)의 遺稿에 대한 서문이다. 최양은 외삼촌 鄭夢周에게 공부를 배웠고, 李穡의 친구로 조선이 개국하자 전주에 은거했던 인물이다. 1864년 최양의 후손이 詩文을 모아 간행하며 자신에게 글을 청해 짓게 되었다고 하면서, 최양의 절의를 칭송했다.
揚山百老會圖序 (59)
1834년 이유원의 부친 李啓朝가 경상감사에 부임했을 때 그곳의 77세 이상의 노인들 133명이 모였는데, 그 중 77세의 노인 46명이 모인 것을 기념하여 그린 그림 「揚山百老會圖」에 대해 지은 발문이다. 자신은 사람들이 신선에 대해 물으면 항상 나이들어서도 건강한 사람이 신선이라고 대답한다며, 오래 사는 것보다 건강하게 오래 사는 것이 중요하다고 했다.
養窩先生文集序 (60)
養窩 李世龜(1646∼1700)의 문집 서문이다. 이세구는 李恒福의 증손이다. 군자의 학문은 博學하면서도 묶을 수 있어야 하는 것이 가장 중요한데, 이세구이 학문이 바로 그러하다고 칭송하며 특히 독창적인 학문의 특성이 있음을 강조했다. 그것은 『대학』의 物格說에 대하여 李滉과 李珥의 해석이 모두 程朱와 다르다고 반박하고, 正心章에 대해서도 이황의 해석에 비판을 가했으며, 여러 학설을 집대성하여 『가례』를 독자적으로 주석했던 점을 지적한 것이다.
梧川先生文集序 (61)
梧川 李宗城(1692∼1759)의 문집 서문이다. 이종성은 李恒福의 5세손으로, 좌의정을 지낸 李台佐의 아들이다. 오로지 임금의 마음을 바로잡고, 선비들의 기강을 바로세우며, 백성들의 풍습을 올바로 하는데 평생의 정열을 바쳤다고 했다.
體論類編序 (62)
이유원이 지은 『體論類編』의 서문이다. 1841년 과거에 급제한 이후 경연에서 朱熹의 『資治通鑑綱目』을 읽게 되었는데, 그 준비를 위해 『자치통감강목』을 공부하며 중요한 부분을 발췌해 기록하고 또한 주희가 송나라 때 명신의 문집과 전기를 발췌하여 엮은 『宋名臣言行錄』을 부록하여 편찬한 책이 바로 『體論類編』이다. 從高祖 李宗城 역시 『자치통감강목』의 중요성을 門弟子들에게 강조했으며, 자신의 4년에 걸친 기록들을 하나의 책으로 묶는 과정에서 徐有榘(1764∼1845)의 질정을 받았다고 했다.
上經山相公回甲壽圖序 (64)
經山 鄭元容(1783∼1873)의 回甲을 기념하는 듯으로 준비한 그림에 대한 발문이다. 그림에는 돌과 대나무, 산과 물, 봉황과 기린, 난초와 오동나무가 있는데, 돌과 대나무는 절개를 의미하고, 산과 물은 고결함을 의미하며, 봉황과 기린은 영광과 인자함을 의미하며, 난초와 오동나무는 향기로운 인품을 의미하는데, 동시에 이 모든 것들이 장수를 의미하기도 한다고 했다.
大陵李判書-敦榮-六十一壽序 (65)
李敦榮(1801∼1884)의 회갑을 축하한 글이다. 이돈영의 정치적 업적과 더불어 많은 사람들로부터 존경을 받을 만큼 德望을 갖추었음을 강조했다.
韋史申判書-錫禧-六十一序 (66)
韋史 申錫禧(1808∼1873)의 회갑을 축하한 글이다. 弘文錄에 이름이 오르고, 성균관 대사성을 지내는 등 문장으로 세상에 이름을 떨친 점을 강조하고, 노년에는 향리에 물러나 더욱 겸손하게 지냈는데, 겸손함은 복을 기르는 근원이라고 하며 그러한 겸손함이 훌륭한 문장과 더불어 후세에 교훈이 된다고 했다.
薇西金判書-在顯-六十一序 (67)
친구인 薇西 金在顯(1808∼1899)의 회갑을 축하한 글이다. 당시 대부분의 사대부 집에서 회갑을 맞이하면 거창하게 준비를 하여 잔치를 하는 것이 상례였는데, 김재현은 그렇게 하지 않았다며 겸손함을 칭송했다.
趙鄗南-雲漢-六十一序 (68)
鄗南 趙雲漢(1809∼)의 회갑을 축하한 글이다. 조운한은 남산 아래에서 살았기 때문에 鄗南이라 불렸으며, 시문에 뛰어나고 글씨에도 탁월한 재주가 있었음을 강조했다.
聘君鄭判書回巹序 (69)
1868. 장인인 東里 鄭憲容의 回婚을 축하한 글이다. 회갑은 흔히 접할 수 있는 기회이지만, 회혼과 回榜은 아주 드문 일이라고 하면서 경사로움을 강조했다. 그리고 혼인이라는 것이 집안을 바로잡는 근본이면서 동시에 만복의 근원이라는 점을 강조했고, 정헌용의 겸손함과 덕행 역시 많은 사람들의 모범이 된다고 했다.
判宗正李公致仕序 (71)
宗親府의 정 1품 벼슬인 判宗正으로 致仕한 李某를 축하한 글이다. 이름을 밝히지 않고 오직 貞西라는 호를 사용한 인적사항만 기록했다. 사람들을 대할 때 和氣로 대했고, 관직에 나아가서는 최선을 다했으며, 부모를 정성으로 섬겼으며, 자식에게는 자애로웠고, 친구들에게는 신의가 있어서 『大學』의 가르침을 몸소 실천했다고 칭송했다.
張園詩卷序 (73)
친구들과 張氏의 정원에 모여 지은 詩卷에 대한 서문이다. 曺自然이 편지를 보내 모임을 알려 왔는데, 그 자리에는 鄭聖九, 趙文甫, 朴誠伯, 趙善卿, 金公緖가 함께 했다. 2일간 머무르며 친구들과 서로 시를 주고받으며 즐겼는데, 이후 사람들이 竹林의 七賢과도 같았다는 말을 했고 모임을 주도한 이가 曺自然이었음을 강조했다.
楓嶽畫卷序 (74)
怡堂 金夏鐘(1793∼?)이 그린 금강산 화첩에 대한 서문이다. 금강산은 조선 사람들이 안 가본 사람이 없고, 그림으로 그리지 않은 화가가 없었으며, 특히 謙齋 鄭敾과 玄齋 沈師正의 그림이 유명하다고 했다. 김하종이 자신을 위해 그려준 금강산 그림들은 마치 雲林 倪瓚이나 石田 沈周의 그림과 유사한데, 그림의 산을 보면 고요함이 떠오르고, 물을 보면 움직임이 연상되며, 돌을 보면 곧음이 떠오른다고 했다. 모두 64폭의 그림이 있고, 끝에는 紀行錄이 첨부되어 있다고 했다.
慶州李氏派譜序 (75)
白沙 李恒福을 派祖로 하는 慶州李氏의 派譜인 『慶州李氏派譜』에 대한 서문이다. 1868년 2권 2책으로 간행되었는데, 舊譜가 오랜 시간이 지나며 많은 부분이 결락되고, 후손들이 점차 자라게 되어 부득이하게 파보를 간행하게 되었다고 경위를 설명했다.
李氏家乘序 (76)
從高祖인 梧川 李宗城(1692∼1759)이 편집한 慶州李氏의 家乘에 대한 서문이다. 우리나라 사람들이 역사를 기록하는 일에 정성을 다하지 않아서 자신의 집안일을 살피려 해도 항상 다른 집안의 기록을 참조해야 하는 점을 비판하여 전대의 기록과 다른 가문들의 기록들을 참조하여 年代나 官職이 잘못 기록된 것들을 바로잡았다고 했다.
李氏族譜序 (77)
이항복의 從曾祖를 派祖로 하는 派譜와 이항복의 伯父를 파조로 하는 慶州李氏의 파보에 대한 서문이다. 이항복을 파조로 하는 자신의 집안 파보와 李時發을 파조로 하는 경주이씨의 파보가 이미 간행되어 있다고 하면서, 경주이씨의 문중이 매우 번성하고 있음을 강조했다.
宗稧序 (78)
宗中의 모임에 대한 서문이다. 이항복이 살던 시대부터 종중의 모임이 있었는데, 시간이 흐르며 廢置되었다고 했다. 이에 1861년 여러 종중의 인사들과 함께 이항복 부부의 祠版을 한강변의 天一亭에 봉안하고 종손 李裕憲에게 관리하도록 했다는 내력을 기록했다.
家藏李氏金石錄序 (80)
집안에 소장하고 있던 金石錄에 대한 서문이다. 금석문은 모두 당시에 만들어진 것으로 옛것을 좋아하고 박학함을 추구하는 사람들에게는 보물과 같은 것이라고 했다.
慶州李氏畫像帖序 (81)
이유원이 楊州 嘉梧谷의 집에 봉안하고 있던 조상들의 畵像帖에 대해 지은 서문이다. 益齋 李齊賢, 白沙 李恒福, 龜川 李世弼을 비롯하여 李宗城 등 모두 10여명의 초상화를 모은 것인데, 오래된 것은 새로이 粧潢을 꾸몄는데, 李裕膺, 李裕奭, 李裕承이 함께 일을 도왔다고 했다.
華嶽上人詩集序 (82)
승려 華嶽의 시문집에 대한 서문이다. 晩悔菴의 승려 古鏡이 스승의 시집을 가져와서는 서문을 써 줄 것을 부탁했는데, 스승은 본래 시를 잘 지었지만 책으로 만드는 것을 싫어하여 남아 있는 것이 많지 않다고 했다. 이유원은 이에 대해 詩는 인간의 본성에서 나오는 것이기 때문에 佛家와 俗家의 구별이 없음을 강조했다.
龍灣誌序 (83)
義州의 제반사항을 기록한 『龍灣誌』에 대한 서문이다. 의주는 이유원의 9世祖 李恒福이 宣祖를 모시고 피난해 갔던 곳이라고 하며, 자신도 1848년 의주부윤으로 부임해 갔었다고 했다. 부임한 다음해 여름에 進士 金應洙가 舊誌를 가져와서는 새로 편집하여 간행해야 함을 청해 일을 진행했다는 내력을 기록했다.
陶隱處士實紀序 (85)
병자호란 이후 은거한 陶隱處士의 실기를 기록한 『陶隱處士實紀』의 서문이다. 도은이라는 호를 지녔고, 성이 姜이라는 것을 밝혔을 뿐 이름을 밝히지 않았다. 병자호란 당시 형과 함께 부모님을 모시고 福州로 피난했다가 이후 관직에 대한 뜻을 접고 태백산 아래에서 독서에만 전념했음을 강조했다. 이후 영남의 선비들이 그의 절개를 칭송하며 하나의 책을 만들어 자신에게 서문을 부탁해 글을 지었다고 했다.
月令粹編序 (86)
1812년 청나라 秦嘉謨가 편찬한 『月令粹編』에 대한 서문이다. 天地人의 三才는 어느 것 하나 빠져서는 안되는데도 불구하고 『禮記』 「月令」에는 오직 천과 지만을 이야기 하고 있다고 했다. 그런데 『月令粹編』에는 天과 地는 물론 人事를 거론하여 밝히고 있음을 강조했다.
星山趙判書-然昌-六十一序 (87)
星山 趙然昌(1810∼?)의 회갑을 축하한 글이다. 조연창의 본관은 豊壤, 字는 文甫이며 趙民和의 아들이다. 1844년 趙然昌, 曺錫雨(1810∼?), 金基纘(1809∼?) 등과 함께 張氏의 정원에서 모임을 가졌었던 일을 회상하며 당시에는 壯年이었지만 이제는 늙었다고 하면서, 평소 자신의 수양에 힘을 기울였던 조연창의 회갑을 축하했다.
楓石集序 (88)
楓石 徐有榘(1764∼1845)의 문집에 대한 서문이다. 당대의 문장가들이 모두 화려하게 글을 꾸미는 일에 치중했던 것과 달리 서유구는 오직 마음에서 우러나오는 글을 쓰는데 노력했음을 강조했다. 그러면서 자신에게도 蘇軾의 말을 인용하여 글을 짓는 사람은 항상 화려하고 爛漫하고자 하는 폐단에 빠지기 쉽다며 이를 경계해야 한다고 강조했다며 서유구의 문장을 칭송했다.
經山集序 (89)
經山 鄭元容(1783∼1873)의 문집에 대한 서문이다. 정원용의 본관은 東萊, 字는 善之이며 아버지는 돈녕부도정 鄭東晩이고, 어머니는 예조판서 李崇祐의 딸이다. 1802년 문과에 급제한 이후 70여 년 동안 관직에 있으면서 임금을 모셨고, 문장은 스스로 일가를 이룰만큼 뛰어나서 많은 사람들의 모범이 되었음을 강조했다.
申判樞-櫶-六十一序 (91)
威堂 申櫶(1810∼1884)의 회갑을 축하한 글이다. 인생 60년은 720개월이고, 날짜로는 2만1천6백일에 해당한다며, 회갑을 맞이한 신헌이 관직은 높은 자리에 이르렀고, 몸은 五福을 갖추었으며, 문무를 겸비하고 威望이 자자하다고 축하했다. 자신과는 일찍부터 매우 깊은 교분을 나누고 있다며 몇 년 후에 신헌이 역시 자신의 회갑을 축하해 줄 것을 기대했다.
菊堂先生派譜序 (92)
慶州李氏의 17세손 菊堂 李蒨의 派譜에 대한 서문이다. 漢나라 五鳳 元年인 기원전 57년(朴赫居世 즉위년) 시작된 경주이씨의 역사가 고려 忠烈王 때에 이르러 여러 갈래로 분파되었는데, 그 중 하나가 바로 菊堂公派였다고 했다. 李顯稷(1797∼?)이 舊譜들을 모아서 새로이 派譜를 간행하며 자신에게 글을 부탁해 짓게 되었다고 했다. 慶州李門 중에 가장 번성한 3가지 派가 益齋 李齊賢을 파조로 하는 益齋公派와 白沙 李恒福을 파조로 하는 白沙公派, 그리고 나머지 하나가 바로 菊堂 李蒨을 파조로 하는 菊堂公派였는데, 益齋公派譜와 白沙公派譜는 이미 간행이 되었는데, 이제야 비로소 菊堂公派譜가 간행되게 되었다는 사실을 기뻐했다.
柳相國致政序 (93)
정승을 지낸 柳某의 致仕에 대해 쓸 글이다. 西厓 柳成龍의 후손이라는 것만을 밝혔을 뿐 인적사항에 대해서는 언급하지 않았다. 유성룡과 이항복이 宣廟朝에 함께 조정을 위해 노력했던 인연을 떠올리며 자신도 公의 뜻을 이어받아 조정을 위해 더욱 노력할 것을 다짐했다.
晩齋金尙書-世均-六十一序 (94)
晩齋 金世均(1812∼1879)의 회갑을 축하한 글이다. 1841년 정시문과에 급제했을 때 함께 급제했던 인연이 있다고 하며 이후 함께 조정에서 일을 하게 되면서 점차 그 덕행에 깊이 감화를 받게 되었다고 했다. 항상 자신을 단속함에 철저했고 모든 일에 조심하고 삼가는 마음을 가졌음을 강조했다. 이항복이 김세균의 선조 仙源 金尙容으로부터 『大學』을 전해 받는 꿈을 꾼 적이 있다고 하며, 비록 자신과 나이나 모습이 비슷할지라도 자신보다 월등한 知識을 갖춘 김세균은 진정한 畏友임을 강조했다.
弼雲臺稧卷序 (95)
이항복이 살았던 弼雲臺의 주민들이 모여 만든 『弼雲臺稧卷』의 서문이다. 이유원은 어릴적 필운대를 찾아 이항복이 직접 쓴 ‘弼雲臺’ 3글자를 본 적이 있다고 하면서, 이제는 그곳에 數百戶의 집들로 이루어진 마을이 형성되었다고 했다. 그리고 洞民들이 자신이 이항복의 후손이라고 하여 洞長으로 추대하여 글을 짓게 되었다고 했다.
南漢八仙會詩卷序 (96)
친구 8명이 南漢山城에서 모여 지은 시집에 대해 지은 서문이다. 鄭基世(1814∼1884)가 廣州留守로 있으면서 曺錫雨, 趙然昌 등 친구들을 초대하여 모임을 가졌는데, 자신은 신병으로 인해 초대에 응하지 못했다고 아쉬워하면서, 대신 시 한 수를 지어 보냈다고 했다.
光山盧氏世譜序 (97)
光山盧氏의 世譜에 대한 서문이다. 광산노문은 唐나라 때의 巨族인데, 조선시대에는 蘇齋 盧守愼이 문호를 크게 일으켰다는 점을 지적했다. 당시 각각의 가문들이 저마다 족보를 간행하느라 長安의 紙價가 크게 올랐다고 하면서, 광산노시 가문의 世譜 간행은 追遠報本의 의미를 가지고 있다고 했다.
遂初錄序 (98)
李敦宇(1801-1884)가 자신의 致仕疏와 太祖∼高宗 사이에 관료들의 致仕記錄들을 수집하여 편찬한 『遂初錄』의 서문이다. 어려서는 공부하고, 자라서는 관직에 나아가며, 나이 들어서는 물러나야 한다는 朱熹의 말처럼 역대 先賢들의 致仕에 관한 글들을 모아 놓은 이 책의 중요성을 강조했다.
太常誌序 (100)
조선시대에 국가의 제사와 諡號 결정에 대한 일을 맡아 보던 奉常寺의 내력과 업무를 정리한 책인 『太常誌』의 서문이다. 본래 周禮에서 시작된 太常의 일은 진나라 때 왕을 받든다는 의미로 奉常으로 개칭되었다가 한나라 때 다시 太常寺로 불렸고, 신라 때는 典祀署, 고려 때는 太常寺로 불렸다고 했다. 또한 본래 申維翰이 편찬한 志 3책과, 첨정 朴道郁이 엮은 典例 1책을 1763년(영조 39) 도제조 洪鳳漢의 건의로 실무 관료인 洪啓謹・尹謐・南玉・成大中 등이 새로 8권 2책으로 편찬했고, 이것을 1873년(고종 10) 判官 李根命이 6권 3책으로 개편했다는 내력을 기록했다.
天愚生詩鈔序 (101)
永平府 太守 游智開의 시문집에 대한 서문이다. 유지개는 이유원과 이홍장의 사이에 연락을 전달해 주는 역할을 했던 인물인데, 이유원이 청나라에 사신으로 가는 길에 영평부에 들려 만나게 되었고, 서로 시문을 주고 받으며 교분을 쌓게 되었다고 했다. 그러다가 두 번째 만나게 되었을 때 유지개가 자신의 시문집을 건네주어 이에 응해 서문을 짓게 되었다고 했다.
養硯老人詩集序 (102)
紫霞 申緯(1769∼1845)의 시집에 대한 서문이다. 翼宗(1809∼1830)이 세자로 있을 때 신위가 知申事로 재직했는데, 하루는 익종이 벼루 하나를 주며 養硏山房이라는 4글자의 친필도 받아서 이후 양연노인으로 자호하며 시집의 제목으로 삼았다고 했다. 신위는 시문에 매우 탁월하여 수많은 글들을 지었다고 하면서, 43세 이후의 시를 유사한 내용끼리 묶어 편을 만든 『警修堂全藁』가 세상에 널리 알려졌다고 했다. 어릴적 신위로부터 시를 배웠다고 하면서, 詩가 文보다 더 어려움을 강조했다.
耆英會卷序 (104)
임금의 친척과 2품 이상 정1품 이하의 벼슬아치 및 經筵堂上 중에서 일흔 살 이상 된 사람들이 참석하던 敬老會의 기록인 耆英會卷에 대한 글이다. 1874년 2월 8일 왕세자가 탄생한 지 7일째 되는 날 耆英會가 있었는데, 참석한 24명의 나이를 합하면 1,601세가 된다고 하면서 이것은 나라의 경사라고 했다.
齊年序 (105)
청나라의 周自弇이 동갑의 친구들과 만든 모임에 대한 글이다. 1875년 이유원이 왕세자책봉주청사의 정사로 북경에 갔을 때 주자엄을 만났을 때 알게 되었는데, 모두 4명의 동갑 친구들이 齊年이라는 이름의 모임을 갖고 있다고 하여 이에 대해 축하하는 의미를 표했다.
樞府誌序 (106)
中樞院에 대한 기록인 『樞府誌』의 서문이다. 본래는 誌가 없었는데, 1877년 李春常으로 하여금 널리 자료들을 수집해 편찬하게 하여 완성되었다고 했다. 文武 당상관으로서 任職이 없는 자를 일정한 사무를 맡기지 않고 우대하는 의미가 있음을 강조했다.
歗齋集序 (107)
어릴적 친구로 지냈던 歗齋 卞朋七의 문집인 『歗齋集』 서문이다. 향리에 물러나 있을 때 그의 손자 卞春植이 문집을 가지고 찾아와 글을 부탁했는데, 어릴적 기억을 떠올리며 친구를 회상했다.
古鑑序 (108)
崔瑆煥이 편집한 『古鑑』의 서문이다. 1864년 玉堂의 故事로 인해 文苑의 여러 신하들이 역대 제왕 중에 본받을 만한 경우와 경계해야 할 경우를 골라 그림으로 만드는 法善圖를 만든 일이 있었는데, 최성환이 편찬한 『고감』은 그러한 의미를 가지고 있다고 했다. 최성환은 7살 때부터 독서를 좋아했고, 나이가 들면서 독서에 더욱 열중했고, 그러한 것을 임금이 알아서 여러 차례 상을 내리기도 했음을 강조했다.
册十三
東史贊 (1)
조선 후기의 학자 修山 李種徽(1731∼1797)가 쓴 역사책 『東史』에 대한 贊文이다.
張賜寧垂柳圖贊 (1)
張賜寧의 垂柳圖에 대한 贊文이다.
不知翁畫像自贊 (1)
자신의 초상화에 대한 贊文이다.
經山相公書扇贊 (2)
經山 鄭元容(1783∼1873)의 書扇에 대한 贊文이다. 이유원의 아들 李石榮이 정원용에게 올린 ‘萬壽’라고 하는 두 글자를 쓴 부채를 올렸는데, 이에 대해 정원용이 글을 지어 보냈고, 이에 대해 기록한 글이다. 덕성을 함양하고 만복이 깃들기를 기원한 뜻에 대해 감사를 표했다.
鄭蕉泉回榜致辭 (3)
蕉泉 鄭文升(1788∼1875)이 과거에 합격한 지 1주갑이 된 것을 축하한 글이다. 1870년(고종 7) 정문승이 사마시에 합격한 지 60주년이 된 것을 기념하여 고종이 白牌를 거듭 내려주었는데, 그러면서 후손들과 제자들에게 이를 기념하는 글을 짓도록 명하여 이에 응해 지었다고 했다. 정문승으로부터 받은 두터운 은혜에 깊이 감사하며 장수를 기원했다.
金松石回甲壽詞 (5)
松石 金學性(1807∼1875)의 회갑을 축하한 글이다. 나라에 대한 충성은 물론 부모에 대한 효성이 지극했고, 문장의 공력 또한 매우 뛰어났음을 강조했다.
書壽藏錄後 (6)
자신이 직접 마련한 幽宅의 墓儀, 誌銘, 封墳 등에 대한 글이다. 중국에서 墓儀가 시작된 이후의 역사에 대해 간략하게 설명하고, 羊石, 虎石, 馬石, 長明燈 등이 지니는 의미에 대해서도 설명했다. 誌文에는 墓磚記, 墳記, 壙誌, 壙銘, 槨銘, 埋銘 등의 여러 종류가 있고, 回回靑을 이용해 글을 쓰기도 한다고 했다. 壙을 마련하며 泥灰 또는 石灰를 사용하는 것에 대해서는 부정적인 견해를 표했다.
八分書辨 (9)
1865. 古隸를 제외한 隸書의 일종인 八分書에 대해 변론한 글이다. 후한 蔡琰의 글에서 八分書라고 하는 말이 처음 등장했다고 하면서, 『書法論』을 지었던 唐나라 蔡希綜이 楷書의 法을 변형시켜 팔분서를 만들었다는 설, 『書斷』을 지은 張懷瓘이 ‘八’자를 나누어 썼기에 팔분서라고 했다는 설, 蔡邕의 八體 이후에 팔분서가 출현했다는 北宋의 서화가 郭忠恕의 주장 등을 소개했다.
漢孔宏碑辨 (12)
漢나라 孔宏의 碑에 대한 변론의 글이다. 1837년 외숙이 청나라에 가서 闕里全碑의 榻本을 구해왔는데, 다음해인 1838년에 자신에게 검토할 것을 부탁하였기에 살펴보게 되었다. 그런데 그 중에 하나가 이유원이 1832년 臨書했던 한나라 비문으로 당시에는 先民殘碑로 알고 있었던 것이었다며 그것이 실은 孔宏의 비였음을 확인했다는 내용이다.
兒子婚書 (13)
아들 李石榮의 婚姻에 관한 婚書다. 혼인이 인륜의 시작으로 중요한 것이라며 兩家의 축복 속에 진행되고 예절에 어긋남이 없어야 함을 강조했다.
萬二千峯賦 (14)
금강산 일만이천봉에 대한 賦이다. 국중 최고는 물론 세상에서 가장 빼어난 아름다움을 가지고 있음을 강조했다.
金剛感 (16)
금강산을 여행하고 난 후의 감상을 기록한 글이다. 마치 꿈 속에서 여행했던 것처럼 지난 금강산 여행의 추억이 아련하다고 했다.
論古鼎啓 (17)
오래된 세발 달린 솥(鼎)에 대해 논한 글이다. 하늘과 땅의 덕을 겸비한 솥을 好古의 취미가 있는 사람이라면 누구나 아끼고 사랑하는데, 자신도 역시 그러하다고 했다.
宋朝相臣論 (19)
송나라 조정의 相臣들에 대해 논한 글이다. 宋 太祖를 도왔던 宋의 건국 공신 趙普, 宋 太宗과 眞宗 代의 총신인 張齊賢, 능동적으로 대처하여 태자를 지켜낸 태종 연간의 재상 呂端, 王安石의 新法을 반대했던 李沆, 이항과 함께 명재상으로 이름을 떨친 王旦, 遼나라에 여러 번 사신으로 가서 국경문제 교섭을 결말지어 충돌을 피하게 한 공로를 세웠지만 결국에는 王安石의 新法에 반대하여 지방으로 쫓겨났던 富弼, 富弼 등과 함께 英宗의 옹립에 공을 세웠다가 역시 왕안석의 신법에 반대해 조정에서 물러났던 文彦博, 仁宗・英宗・神宗의 세 조정에서 공을 세웠던 韓琦, 新法을 제창했던 王安石, 신법에 반대했던 司馬光, 역시 신법에 반대했던 呂公著와 呂希哲 父子, 范仲淹의 아들 范純仁 등에 대해 간략히 언급했다. 또한 金과의 전쟁을 주장했던 주전파 李綱의 충성을 欽宗이 받아들였다면 徽宗과 흠종은 금의 포로가 되지 않았을 것이고 송은 남쪽으로 밀려나지 않았을 것이라고 했다. 남송의 북벌론자 張浚이 대의를 들어 북벌을 강조했던 것은 임금과 국가에 대한 충성이었음을 강조했다. 趙汝愚는 孝宗이 죽고 光宗이 병 들었을 때 재야의 明德之士들을 초빙해 寧宗의 新政을 보필하게 한 공이 있으며, 南宋이 元나라에 항복하자 저항하다 체포되었고 쿠빌라이칸이 그의 재능을 아껴 몽고에 전향을 권유받았지만 거절하고 죽음을 택했던 文天祥의 충성은 후세에 영원한 가르침이 된다고 했다. 이처럼 300 여 년의 송나라에서 수없이 많은 충신들이 있었는데, 어떤 사람들은 송나라의 쇠망을 文勝한 폐단 때문이라고 지적하는데 이는 功利를 근거로 하는 말이며 道를 모르는 사람의 말이라고 일축했다.
百里奚宮之奇論 (25)
중국 춘추시대의 재상 百里奚와 宮之奇에 대해 논한 글이다. 晋라나가 垂棘지방에서 생산되는 좋은 구슬과 屈産지방의 말(馬)로 虞나라에게 길을 빌려 虢나라를 공격하려 했을 때, 궁지기는 반대의 간언을 했던 반면, 백리해는 간언을 하지 않았었다. 이에 대해 후세의 선현들이 여러 가지로 평가를 내렸다고 하며 어찌되었든 백리해의 충절은 명백하다고 했다.
不封介子推論 (26)
중국 춘추시대의 隱士 介子推가 공신에 책봉되지 못한 것에 대해 논한 글이다. 晉나라 文公이 왕위에 오르기 전에 아버지 獻公에게 추방되었었는데, 그 때 개자추는 19년 동안 문공을 모시며 같이 망명생활을 했다. 훗날 문공이 秦나라 穆公의 주선으로 귀국하여 왕위에 오르고 많은 賢臣을 등용하였으나, 개자추에게만은 봉록을 주지 않았는데, 이에 후세의 논의가 상당히 많이 있었음을 이야기 하며 개자추가 추방당한 문공을 모실 때 자신의 넓적다리와 귀를 자른 일이 있었는데, 이는 충성을 위해 효성을 저버린 일이라고 하며 이미 자신의 신체를 훼손할 때 훗날의 공훈을 생각한 것이니 진심에서 나온 충성은 아니라고 했다.
管窺篇 (27)
天地人의 구성 원리와 陰陽五行, 兵法과 農事 등 다양한 분야에 대해 논의한 글이다. 천지의 氣 가운데 가볍고 맑은 것이 하늘이 되고, 무겁고 탁한 것이 땅이 되는데, 사람은 그 사이에서 나서 하늘로부터 氣를 품부받고 땅에 서서 형체를 이루는데 오행의 빼어남을 갖추고 모든 이치를 구비하여 萬事에 응하는 존재라고 했다. 聖人이 易象의 64卦를 찬술했는데, 28宿의 經과 五星의 緯가 錯綜하여 변화가 생성되었다고 했다. 그리고 兵法과 관련해서는 비록 武臣이라 해도 반드시 책을 읽어야 하므로 병법에 관한 학문인 武學을 통해 무신들을 가르쳐야 한다고 했다. 또한 예로부터 병농은 일치했다고 하면서 井田制가 兵法의 시초라고 하며 농사가 천하의 大本이라는 점을 강조했다. 음악에 관해서는 음악이 마음에서 우러나오는 것으로 만물에 감응하고 사람의 정신을 流通하게 하고 性情을 함양하며 더러움을 씻어내는 역할을 한다고 했다. 그래서 五音을 통해 신하와 백성은 물론 임금까지도 바르게 할 수 있음을 강조했다. 異端에 대해서는 도교에서 말하는 淸淨이 비록 유가의 욕망을 억제하는 것과 유사하거나, 불교에서 말하는 마음에 대한 논의가 비록 유가의 心性論과 유사하지만 그 覺悟處에서는 미묘한 차이가 있고 그것이 결국에는 근본적인 차이를 낳게 한다고 이단에 대한 비판적 견해를 표했다. 그 외에도 숫자에 관한 논의, 음과 뜻의 합성으로 이루어지는 漢字의 구성 원리, 陰陽과 四時의 연관성, 천주교가 중국에 전래되어 이후 전파되는 과정 등에 대해 서술했다.
應運大師畫像偈 (39)
승려 毅寬(1813∼1849)의 초상화에 대한 글이다. 俗姓은 알지 못한다고 했고, 法號가 應運이라고 했다. 大邱府 租巖村에서 출생했고, 13살에 八公山 桐華寺의 鎭海和尙에게 出家한 후 楞嚴經, 起信論 등을 공부했는데 특히 般若經에 몰두했다. 선종과 교종의 겸수했으며, 19살 대는 화엄경을 독파하여 스승으로부터 큰 기대를 받았다. 이후 끊임없이 공부하고 수많은 곳에서 불법을 강했는데 안타깝게 일찍 세상을 떠났다고 했다. 불교의 阿縟多羅三貘三菩提 즉 가장 완벽한 깨달음은 釋迦가 成覺한 秘密의 極意로서 直指人心 見性成佛의 妙理인 正法眼藏인데 응운대사는 정법안장을 체득한 인물이라고 칭송했다.
效白少傅池上篇 (41)
唐나라 시인 白居易(772∼846)의 「池上篇」을 본 따 지은 글이다. 당나라 사람들이 고려에 나서 금강산을 한 번 보기를 소망했던 것처럼 고려는 천하에 이름을 떨쳤다고 강조하며, 자신의 별서인 嘉梧谷을 꾸민 과정에 대해 기록했다. 처음 남쪽에 밭을 마련하고, 동쪽에 책을 읽을 수 있는 萬卷樓를 지은 다음 서북쪽에 손님을 맞이할 수 있는 정자를 마련했다. 그 다음 자신이 전국을 다니며 얻은 각종 기물과 꽃, 나무 등을 심고, 葉志詵 등 중국의 친분이 있는 사람들이 보내준 각종 기물들을 준비해 두었다고 한 뒤, 자신의 별서가 금강산과 멀지 않다는 점도 강조했다.
傖白子 (43)
중국의 여러 故事들을 모아 서술한 글이다. 그 중 하나의 이야기는 다음과 같다. 蜀 지방의 어느 산에서 丹砂가 생산되었는데, 산이 너무 험하여 사람들은 갈 수 없었고, 오직 늙은 원숭이들만 올라갈 수 있었다. 그래서 사람들이 꾀를 내어 원숭이에게 돌을 던지면 화가 난 원숭이가 丹砂를 사람에게 던졌고, 이러한 방법을 통해 단사를 얻을 수 있었다는 이야기를 하며 원숭이들이 귀한 보물로 사람들에게 보복을 하는 것을 두고 원숭이들의 어리석음을 지적했다.
意園圖題語 (45)
1843. 橘山에 있는 자신의 別墅 意園을 그린 작품에 대한 제발이다. 세상에서 輞川이나 平泉 등의 별서를 최고로 꼽지만 자신의 별서가 최고라 하며 스스로의 처지에 安分自足하는 것이 진정한 즐거움이라고 했다.
秘色瓷頌 (46)
秘色의 高麗 瓷器에 대한 頌이다. 鄭基會(1829∼?)가 부친의 묘자리를 구하기 위해 노력한 지 10년 만에 경기도 용인의 한 곳에 자리를 구했는데, 그곳에서 고려시대에 만들어진 것으로 추정되는 자기를 구해 자신에게 보여주었다고 했다. 이유원 자신도 전에 壽藏地를 준비하다가 조선 초에 만들어진 것으로 추정되는 瘞器 하나를 발견한 적이 있었다고 하며 정기회가 발견한 것은 花紋이 있고, 만들어진 것이 상당히 오래되는 것으로 추정되어 고려시대의 것임이 틀림없다고 했다. 또한 이처럼 땅 속에서 물건을 발견하는 것은 그 사람의 정성이 간절할 때에만 가능한 일이라고 하며 정기회의 부모에 대한 지극한 효성을 칭송했다.
册十四
玉磬觚賸記 (1)
嘉梧谷에서 유유자적한 전원생활을 하면서 다양한 분야에 대해 쓴 글이다. 우리나라와 중국의 人物, 歷史, 制度, 書畫, 古器, 書冊, 詩話, 金石, 碑文, 逸話 등 다방면에 걸쳐 기술했고, 자신의 신변잡기에 관한 내용도 포함되어 있다. 風俗은 世道의 元氣인데, 晋나라와 秦나라는 군대의 강력함과 용맹함으로 인해 여러 나라들을 제압하여 통일을 이루었지만 결국에는 晋나라가 삼국으로 분열하고 秦나라는 2世 만에 멸망했는데, 풍속이 쇠퇴했기 때문이라며 나라를 다스릴 때는 위엄과 억압으로 해서는 안되고 덕으로 해야 한다는 점, 北宋의 司馬光이 편찬한 『自治通鑑』에서는 三國 중 魏를 정통으로 간주한 반면 朱子는 『資治通鑑綱目』에서 漢을 정통으로 간주했다며 주자의 견해에 동조하기도 했다. 그 외에도 王陽明, 高攀龍 등 明代 학자들의 단편적인 言說도 소개했다. 조선의 경우는 李滉이 술을 마실 때 말소리와 匙箸의 소리가 전혀 나지 않게 했다는 것, 李珥가 밤에 잠을 안자고 공부를 하면 병이 나므로 밤에는 잠을 자고 낮에 열심히 해야 한다고 한 것, 成渾이 공부는 우선 몸과 마음을 가지런히 하는 것이 우선이라고 했다는 등 여러 先學들의 이야기를 짤막하게 소개했다. 『承政院日記』가 중간에 많은 부분 결락이 되어 英祖 때 各司의 謄錄을 바탕으로 보충했다는 이야기, 李奎報의 白雲小說에 崔致遠이 入唐하여 登第했다는 기록과 웅장한 기개를 보여주는 詩가 전해져 최치원이 우리나라 학자의 우두머리가 되었다는 이야기, 趙光祖가 학자는 무엇보다 우선 義理를 명확히 분별해야 하고 私利를 철저히 배척해야 한다는 것을 강조했다는 것 등을 기록했다. 글씨에 대해서는 南唐의 後主 李煜이 역대의 書法을 평하면서 글씨로 명성을 얻은 이들은 제각기 왕희지의 一體를 얻었을 뿐이라고 하면서 虞世南은 왕희지 글씨의 아름다운 韻을 얻었지만 俊邁(재주)를 잃었고, 歐陽詢은 힘을 얻었지만 따스함을 잃었고, 褚遂良은 뜻을 얻었지만 變化를 잃었고, 顔眞卿은 힘을 얻었지만 자유로움을 잃었고, 柳公權은 강직함을 얻었지만 깊이를 잃었다고 했다. 그 외에도 蘭亭帖과 淳化帖의 두 가지 판본에 대한 논의 등 서법에 대한 여러 이야기를 기록했다. 그 외에도 『三國史記』에 기록된 新羅 文武王의 大王岩과 利見臺에 얽힌 이야기를 언급하며 이후 발견된 文武王碑의 구절을 통해 본다면 문무왕의 수중릉에 대한 『삼국사기』의 이야기는 사실이 맞다고 하는 등 다양한 분야에 대해 간략한 언급과 함께 자신의 견해를 짧게 서술했다.
册十五
領議政忠孝趙公神道碑 (1)
歸鹿 趙顯命(1690∼1752)의 神道碑文이다. 조현명의 祀孫 趙然三이 嘉梧谷으로 찾아와 행장을 보여주며 글을 청해 짓게 되었다고 했다. 우선 조현명의 집안 내력에 대해 상세히 소개했는데, 모부인 光山金氏는 金萬均의 딸이고, 延安李氏 이일상의 외손녀라며 명문의 외가를 두었다는 점을 강조했다. 사마시에 급제했을 때 懷尼是非에 관련한 글을 읽었는데 이후 朴世采의 저술을 본 후 是非를 결정했다고 했다. 경종이 즉위 한 후 延仍君이 世弟로 있을 때 世弟侍講院의 說書를 역임했는데, 연잉군으로부터 『心經』 한 권을 하사받을 만큼 재능이 뛰어났음을 강조했다. 이후 조정에서 역임한 관직을 자세히 기록했는데, 특히 1728년(영조 4) 李麟佐의 난이 발생했을 때 四路都巡撫使 吳命恒의 종사관으로 종군하고 난이 진압된 후 奮武功臣 및 豊原君에 책봉되었던 것을 상세히 서술했다. 성품이 중후했고 선견지명이 있었으며, 가문의 일과 부모의 봉양에 정성을 다했음을 강조했다.
副元帥錦南君忠武鄭公神道碑 (17)
조선 중기의 武臣인 晩雲 鄭忠信(1576∼1636)의 신도비문이다. 1592년(선조 25) 임진왜란이 일어나자 光州牧使 權慄의 휘하에서 종군하며 17세의 어린 나이로 적진을 뚫고 단신으로 뚫고 행재소에 연락을 전달했고, 병조판서 李恒福으로부터 史書를 배워 행재소에서 실시한 무과에 합격했다며 어릴때부터 兵家에 탁월한 재능이 있었음을 강조했다. 李适의 난 때에는 도원수 張晩의 휘하에서 황주와 서울 鞍山에서 반란군을 크게 무찔러 振武功臣 1등으로 錦南君에 봉해졌으며, 1633년 조정에서 後金에 대한 歲幣의 증가에 반대하여 후금과의 단교를 위하여 사신을 보내게 되자 金時讓과 함께 이를 반대하다가 유배된 후 고향 광주로 물러났는데 고향을 떠난 지 14년 만의 일이라고 하는 등 일생동안 나라를 위한 충성에 전념했음을 지적했다. 또한 정충신은 이유원의 조상 이항복의 제자들인 張維, 崔鳴吉, 鄭弘溟 등과 막역한 친분이 있었음과 이항복이 유배지에서 죽은 후 정충신이 예를 갖추어 장례를 준비했던 인연을 거론하며 자신에게도 깊은 인연이 있음을 강조했다.
領議政文忠李公神道碑 (26)
조선후기의 문신이자 자신의 從高祖인 梧川 李宗城(1692∼1759)의 신도비문이다. 李恒福의 5세손이며, 좌의정 李台佐의 아들로, 1727년(영조 3) 增廣文科에 급제한 이후 조정에 진출한 이후의 官歷을 자세히 기록했다. 특히 經筵의 典經으로 시독관 朴文秀와 함께 붕당 200년의 폐해를 논한 것과 경상도 암행어사가 되어 민폐를 일소한 일, 李麟佐의 출가한 자매가 문경에 갇혀 있는 것이 부당하다고 상소하여 석방하게 했던 일 등은 강직한 성품에서 우러나온 것임을 강조했다. 영의정으로 재직할 당시 思悼世子를 보호할 것을 적극 주장했던 반면 세자의 처벌에 적극적이었던 金尙魯 등의 공격을 받고 영의정을 사직하게 되었다고 했다. 曺命敎, 趙迪命, 金尙奎, 金尙迪 등과 壽親禊를 만들었는데, 이후 상을 당했을 때 兪拓基가 조문하고는 다른 사람들에게 이종성이 진정한 효자라고 했다는 일화를 거론하며 효성 또한 지극했음을 강조했다.
領議政忠翼金公神道碑 (46)
조선후기의 문신 華西 金尙喆(1712∼1791)의 신도비문이다. (정조 15). 본관은 江陵, 字는 士保이며 梅谷 金始爀의 아들이고, 어머니 全州李氏는 李箕禎의 딸이라는 家門의 내력과 함께 1736년 정시문과에 급제한 이후의 官歷에 대해 상세히 서술했다. 1771년 『明史』에 실린 綱鑑合纂에 조선왕실의 系譜가 잘못 올라 있다는 대간의 상소가 있자, 자진해서 璿系辨誣使로 북경에 가서 그 책의 개인소장을 금하겠다는 청나라의 약속을 받고 돌아와 『辛卯重光錄』을 편집하고 간행한 일과 1776년 英祖의 顧命을 받은 일은 모든 사람들이 칭송하는 것임을 강조했다.
校理贈吏曹判書忠獻朴公神道碑 (56)
조선후기의 문신 朴在源(1723∼1780)의 신도비문이다. 본관은 潘南, 字는 而川이고, 1774년(영조 50) 식년문과에 급제한 이후의 官歷을 서술했는데, 특히 1778년 사간원의 헌납으로 재직할 당시 洪國榮의 누이가 정조의 嬪으로 들어가는 것을 극력 반대하여, 홍국영의 미움을 받아 고난을 겪었던 일은 그의 강직함을 보여주는 것이라고 했다.
領議政仁陵君李公神道碑 (60)
조선후기의 문신 李在協(1731∼1790)의 신도비문이다. 이재협의 본관은 龍仁, 字는 汝皐이며, 좌의정을 지낸 李普赫이 조부, 병조판서를 지낸 李景祜가 부친이며 어머니 延日鄭氏는 鄭齊斗의 손녀라며 이재협이 名門 출신임을 지적했다. 1757년(영조 33) 정시문과에 장원급제했을 때 英祖가 직접 불러 이보혁의 손자가 과거에 장원급제한 것을 축하했던 일을 언급했고, 이후 조정에서 역임했던 官歷을 상세히 서술했다. 이유원의 祖母가 이재협의 甥女라는 인연이 있어서 玄孫 李冕榮의 부탁을 받고 글을 짓게 되었다는 내력도 서술했다.
慶尙道觀察使尹公神道碑 (72)
조선후기의 문신 盤湖 尹光顔(1757∼1815)의 신도비문이다. 본관은 坡平, 字는 復初, 1786년(정조 10) 정시문과에 급제한 이후 조정에 진출하여 역임했던 官歷을 자세히 서술했다. 특히 경상도 관찰사로 재임할 당시 朱子와 宋時烈을 배향한 英陽의 雲谷書院에서 유생들이 서로 다투는 일이 발생해 송시열의 영정을 철거했었는데 후에 이것이 문제가 되어 1808년(순조 8) 御史 李愚在의 탄핵을 받았지만 당당하게 임했다는 등 강직한 모습을 잃지 않았다는 점을 강조했다.
右議政文貞任公神道碑 (78)
조선후기의 문신 荷漪 任百經(1800∼1864)의 신도비문이다. 본관은 豊川, 字는 文卿이다. 1827년(순조 27) 증광문과에 급제한 이후의 관력에 대해 자세히 서술했다. 특히 1864년(고종 1) 함께 정승에 임명되었는데, 당시 이유원은 함경도 관찰사로 재직하고 있었기에 먼저 우의정에 임명되었는데 그해 겨울에 갑자기 죽었다며 안타까움을 표했다. 평생 학문 연구에 매진했고 관직생활에서는 항상 청렴했다는 점을 강조했다.
行工曹判書許公神道碑 (84)
조선후기의 무신 許棨(1798∼1866)의 신도비문이다. 본관은 陽川, 字는 而肅이고, 통제사를 지낸 許任의 손자이고, 군수를 지낸 許濈의 아들이다. 1815년 무과에 급제한 후 1835년(헌종 1) 경상좌도 병마절도사, 1837년 함경남도 병마절도사, 1841년 함경북도 병마절도사등을 역임했다는 관력을 상세히 서술했는데, 특히 1865년 어영대장으로서 경복궁 건영도감의 提調가 되어 경복궁 중건에 공을 세웠던 점을 강조했다. 이유원이 함경도 관찰사로 재임할 당시 그곳에서 백성들이 허계의 善政을 칭송하는 말을 많이 들었다며 청렴하고 강직한 관직생활을 높이 샀다.
禮曹判書文貞金公神道碑 (88)
조선후기의 문신 石世 金鼎集(1808∼1859)의 신도비문이다. 본관은 慶州, 字는 九如이며 좌의정을 지낸 金思穆의 손자이다. 1827년 증광문과에 급제한 이후 여러 要職들을 역임한 관력을 자세히 서술했는데, 특히 翼宗(추존)의 대리청정 시절에 익종을 가까이에서 모셨던 일을 거론하며 당시 익종이 忠愼하고 寡黙한 사람이라고 칭찬했던 일을 지적하며 평소 맡은 일에 충실했고 지방관으로서의 치적이 많았음을 강조했다.
吏曹參判贈領議政金公神道碑 (93)
조선후기의 문신이자 이유원의 畏友인 邵亭 金永爵(1802∼1868)의 신도비문이다. 본관은 慶州, 字는 德叟, 아버지는 忠州牧使를 지낸 金思稙이고, 어머니 龍仁李氏는 仁陵君 李在恊의 딸인데, 앞서 이유원은 이재협의 신도비문을 짓기도 했다. 또한 甲午改革을 단행한 주역으로 영의정을 지낸 金弘集의 아버지이다. 1843년 식년문과에 甲科로 급제한 이후의 官歷에 대해 상세히 서술했다. 자신보다 12살이나 많기는 했지만 40년 동안 막역한 사이로 두터운 친분을 유지했고, 이유원이 과거에 급제한 다음해에 급제하여 함께 조정에서 활동했다. 젊을 때는 陸九淵과 王守仁의 저술을 탐독했는데, 만년에는 程朱의 책을 가까이 했음을 강조했다.
工曹參議海月黃公神道碑 (100)
조선중기의 문신 海月 黃汝一(1556∼1622)의 신도비문이다. 본관은 平海, 字는 會元, 아버지는 滄洲 黃應澄, 어머니 盈德鄭氏는 鄭昌國의 딸이다. 1585년 과거에 급제한 이후 조정에서의 官歷을 상세히 서술했다. 특히 1598년 명나라 丁應泰가 조선이 일본과 모함하여 명나라를 공격하려 한다고 誣告한 사건을 해결하기 위해 파견된 辨誣使의 書狀官으로 참여했던 일을 자세히 언급했다. 당시 사행의 正使는 白沙 李恒福, 副使는 月沙 李廷龜였는데, 모두 황여일과 道義로 사귀는 교분이 있었고, 일세의 重望을 받는 것은 물론 문장으로 명성을 날리고 있었으며, 사행을 통해 무고를 완벽하게 해결할 수 있었음을 강조했다. 楊士彦, 李山海, 金命元 등이 모두 畏友로 칭송했고, 尹根壽, 柳成龍, 李德馨, 李恒福, 金誠一, 李廷龜, 申欽, 張顯光 등 당시의 名賢들이 모두 황여일의 재능을 아끼고 사랑했음을 강조했다.
吏曹參判釣隱崔公神道碑 (111)
조선초기의 문신 釣隱 崔致雲(1390∼1440)의 신도비문이다. 본관은 江陵, 字는 伯卿, 左尹을 지낸 崔元亮의 손자이고, 아버지는 崔安麟, 어머니 旌善全氏는 全仁具의 딸이다. 1417년 식년문과에 급제한 이후 集賢殿에 들어가서 학문을 연구했고, 1433년(世宗 15)에는 經歷이 되어 평안도도절제사 崔潤德의 從事官이 되어 여진족 정벌에 공을 세웠으며, 1439년에는 공조참판으로 啓稟使가 되어 명나라에 가서 야인들이 양민으로 경성지역에 영주할 수 있도록 요청하여 허락을 받는 등 많은 공적을 이루었음을 칭송했다. 이유원이 경포대를 방문한 적이 있었는데 10년 후에 崔景集, 崔燉奭 등 최치운의 후손들이 찾아와 글을 부탁해 짓게 되었다는 내력도 기록했다.
吏曹判書李公神道碑 (117)
조선후기의 문신 蘭石 李根弼(1816∼1882)의 신도비문이다. 본관은 全義, 字는 汝諧이며, 예조판서를 역임한 李玄緖가 부친이고, 어머니 昌寧曺氏는 曺允遂의 딸이다. 1852년(哲宗 3) 정시문과에 급제한 이후 조정에 진출하여 역임했던 官歷을 상세히 기록하면서 청렴하면서도 강직한 성품으로 다른 사람들에게 모범이 되었다는 점을 강조했다. 숨을 거두는 날 이유원은 죄를 입고 칩거하는 중이었지만 직접 찾아가서 임종을 지켰는데, 마지막까지도 나라를 걱정하는 말을 남겼다고 했다.
册十六
成均館大司成李公墓碣銘 (1)
조선후기의 문신 松溪 李宗迪(1710∼1748)의 墓碣銘이다. 본관은 慶州, 字는 子順, 李恒福의 5대손으로, 龜川 李世弼의 손자이다. 일찍부터 經史에 능통했고, 義理之學에 전념했으며, 1736년(英祖 12) 정시문과에 급제했는데, 급제한 다음날 영조를 따라 문묘에 배행하여 임금의 언행 數萬言을 기록하여 史才를 인정받았음을 강조했다. 이후 조정에서의 관력을 상세히 기록했다.
洗馬魯齋李公墓碣銘 (5)
조선중기의 문신 魯齋 李希參(1534∼1594)의 墓碣銘이다. 본관은 慶州, 字는 景魯이며, 부친은 李夢奎, 어머니 光山金氏는 우의정을 지낸 金克誠(1474∼1540)의 딸이다. 10살 때 成守琛과 金麟厚의 門下에 나아가 공부했는데, 성수침이 好古堂이라는 3글자를 내려주어 호로 삼기도 했다. 부친을 모시고 保寧에 거주하며 성리학 공부에 전념하다가, 1558년 進士試에 합격한 후 洗馬, 別坐 등에 임명되었으나 모두 응하지 않고, 오직 李珥, 宋翼弼, 趙憲, 崔錫鼎 등과 道義로서 친분을 맺고는 학문에만 전념했음을 강조했다.
厚陵參奉崔公墓碣銘 (7)
조선중기의 문신 崔稷(1604∼1677)의 墓碣銘이다. 본관은 海州, 字는 馨甫, 부친은 崔有泳, 어머니 豐壤趙氏는 趙光炫의 딸로 최유영의 두 번째 부인이다. 부친 최유영이 光海君 후반에 冤獄에 연루되었을 당시 13살이었는데, 인조반정 이후 1648년에 司馬試에 등제했고, 1660년에는 황해도 관찰사 羅星斗가 宋浚吉에게 재능을 추천했고 송준길 역시 洪命夏에게 최직을 천거하여 厚陵參奉에 임명되었다.
振武功臣鰲川君文公墓碣銘 (10)
조선중기의 振武功臣 文晦(1586∼1634)의 墓碣銘이다. 본관은 慶州, 字는 自明, 부친은 文鳳翔, 어머니 礪山宋氏는 宋世傑의 딸이다. 1624년(인조 2) 敎授의 신분으로 李佑・金光肅과 함께, 尹仁發 등이 仁城君을 추대하려는 역모를 꾸민다고 고변하였고, 곧이어 李适의 난이 평정된 뒤 振武功臣 3等에 책봉되었던 이력을 서술했다.
貞夫人錦城吳氏墓碣銘 (12)
白沙 李恒福의 側室 同福吳氏(1574∼1648)에 대한 墓碣銘이다. 항상 婦德을 실천하여 다른 사람들의 모범이 되었음을 강조했다.
贈兵曹參議李公墓碣銘 (13)
병자호란 당시 순절한 李檍(1615∼1637)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 汝樑이고, 부친은 이석립, 어머니 함평정씨는 정세공의 딸이다. 학문에 힘쓰는 한편 兵法書도 많이 읽어 터득한 바가 많아서 具仁垕와 李義培가 그 재능을 인정했다. 병자호란 당시 廣州의 雙嶺陣에서 청군과의 전투에서 죽었고, 1702년 그 공로를 인정받아 兵曹參議에 追贈이 되는 동시에 旌閭가 내려졌다.
掌樂院正吳公墓碣銘 (16)
조선중기의 문신 楸隱 吳允忠(1573∼1629)의 묘갈명이다. 본관은 海州, 字는 君信, 아버지는 吳世恭, 어머니는 朔寧崔氏이며, 영의정을 지낸 楸灘 吳允謙의 從弟이다. 음직으로 조정에 진출했는데, 光海君 조정에서 鄭仁弘 등이 仁穆大妃를 廢位하려는 것을 목도하고는 사직하고 竹山으로 귀향한 후 평생 詩文으로 自娛했다며 강직한 성품을 칭송했다.
兵曹判書貞毅徐公墓碣銘 (18)
조선중기의 문신 六谷 徐必遠(1614∼1671)의 묘갈명이다. 본관은 扶餘, 字는 載邇, 부친은 徐雲驥, 어머니 全州李氏는 李澤民의 딸이다. 9세에 아버지를 여의고 金集과 鄭弘溟에게 수학했고, 1643년(인조 21)에 조정에 진출한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 특히 전라도 감사가 되었을 때 大同法의 시행에 노력했던 것과 金萬均과의 公義, 私義 논쟁을 벌인 것이 이후 조정에 큰 파장을 불러왔는데, 이는 모두 그의 강직한 성품에 기인한 것임을 강조했다.
戶曹判書李公墓碣銘 (24)
조선후기의 문신 晦窩 李寅燁(1656∼1710)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 季章, 부친은 좌의정을 지낸 李慶億, 어머니 海平尹氏는 尹元之의 딸이다. 1684년(숙종 10)에 司馬試에 합격하고, 2년 뒤 定時文科에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 또한 이인엽의 家系가 東國 문장의 우두머리로 일컬어지는 益齋 李齊賢으로부터 시작하여 조선중기 李時發을 거쳐 仁祖, 孝宗, 顯宗의 세 조정에 걸쳐 명성을 떨친 李慶徽, 李慶億 형제로 이어지는 명문 출신이라는 점을 강조했다. 최석정이 이경휘와 이경억의 비문을 지으며 조화롭되 시류에 흔들리지 않는다는 평가를 했었는데, 이인엽 역시 그러한 칭송을 받을만 하다고 했다.
刑曹判書李公墓碣銘 (30)
조선후기의 문신 李潤成(1719∼1781)의 묘갈명이다. 본관은 全義, 字는 集卿, 부친은 李邦協, 어머니 平山申氏는 申思永의 딸이다. 1736년(영조 12) 병조판서 朴文秀의 천거로 南行宣傳官에 임명된 이후의 관력을 서술했다. 조정에서 관직에 있는 40여 년과 부모를 봉양한 50여 년 동안 충성과 효성에 모두 지극했음을 강조했다.
知敦寧府事曺公墓碣銘 (33)
조선후기의 문신 松下 曺允亨(1725∼1799)의 묘갈명이다. 본관은 昌寧, 字는 穉行, 부친은 曺命敎, 어머니 坡平尹氏는 尹春敎의 딸이다. 門蔭과 學行으로 천거되어 1766년(영조 42)처음 벼슬길에 나간 이후의 관력을 서술했고, 특히 그림과 글씨에 능했는데, 公私間의 碑文들이 대부분 그의 손으로 이루어졌음을 강조했다.
副摠管贈左參贊李公墓碣銘 (38)
조선후기의 무신 晩悟 李格의 묘갈명(1748∼1803)이다. 본관은 慶州, 字는 天老, 부친은 同知中樞府事 李溥萬, 어머니 淸州韓氏는 韓宗海의 딸이다. 어려서부터 武才가 뛰어나 선전관이 되었다가, 1769년(영조 45)에 武科에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 正祖 즉위 후 洪國榮의 권세가 높아졌을 때 직언을 하다가 홍국영의 공격을 받고 유배되는 등 강직한 성품을 칭송했다. 아들인 어영대장 李顯稷이 글을 청해 짓게 되었다는 내력도 기록했다.
判敦寧府事李公墓碣銘 (43)
조선후기의 문신 琶西 李集斗(1744∼1820)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 仲輝, 파서 외에 臞鶴이라는 호를 사용하기도 했다. 좌의정을 지낸 李慶億의 5대손이고, 부친은 李進源, 어머니 豊壤趙氏는 趙哲命의 딸이다. 1775년(영조 51) 문과에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술하면서, 詩文과 經傳에 탁월한 재능을 보였음을 강조했다.
履坦齋朴公墓碣銘 (49)
조선후기의 문신 履坦齋 朴綺壽(1774∼1845)의 묘갈명이다. 본관은 潘南, 字는 眉皓, 부친은 朴宗臣, 어머니 海州崔氏는 崔粹一의 딸이다. 조정에 진출하여 청렴하고 강직한 성품으로 많은 사람들의 칭송을 받았음을 강조했다.
全州判官贈吏曹判書李公墓碣銘 (52)
조선후기의 문신 李一榮(1773∼1833)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 啓如, 부친은 琶西 李集斗(1744∼1820), 어머니 安東權氏는 權世模의 딸이다. 1805년 明陵參奉에 임명된 이후의 官歷을 서술하고, 평소 博識하고 재능이 출중하였음을 강조했다.
侍講院司書李公墓碣銘 (54)
조선후기의 문신 李啓宇(1786∼1833)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 徽仲, 龜川 李世弼이 5世祖이고, 부친은 李晩奎, 어머니 淸州韓氏는 韓警의 딸이며, 생부는 李顯奎, 생모 坡平尹氏는 尹星鎭의 딸이다. 1830년(純祖 30) 문과에 급제한 이후의 官歷에 대해 간략히 언급하면서, 평소 독서를 좋아하여 經史에 널리 통달했으며 특히 詩才가 뛰어나 古樂府體에 정통했음을 강조했다.
刑曹判書李公墓碣銘 (56)
조선후기의 문신 李圭祊(1791∼1855)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 玄甫, 부친은 李一榮, 어머니 昌寧曺氏는 曺允亮의 딸이다. 1823년 문과에 급제한 이후의 관력을 서술했는데, 특히 孝明世子의 代理聽政 때 세자로부터 충직함을 인정받았던 것을 강조했다.
工曹判書李公墓碣銘 (61)
조선후기의 무신 李熙絅(1804∼1866)의 묘갈명이다. 본관은 全義, 字는 聖章, 부친은 李景植, 어머니 潘南朴氏는 朴會源의 딸이다. 1826년(순조 26) 무과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 1869년 박회원의 아들 朴敎獻이 찾아와 글을 부탁해 짓게 되었는데 이미 그 이전에 이희경의 부탁으로 李景植의 묘문을 지은 내력이 있다고 했다.
行禮曹判書成公墓碣銘 (64)
조선후기의 문신 成原默(1785∼1865)의 묘갈명이다. 본관은 昌寧, 字는 季淵, 부친은 성老柱, 어머니 全州崔氏는 崔昌傑의 딸이다. 1829년(순조 29) 柑試에서 장원급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 나라에 대한 충성과 부모에 대한 효성이 탁월하여 牛溪 成渾 이후의 家格에 조금의 흠도 남기지 않았음을 강조했다.
百七歲老人墓碣銘 (68)
李壽天(1750∼1846)의 묘갈명이다. 본관은 慶州, 字는 乃百, 부친은 李世參, 어머니 東萊鄭氏는 鄭履福이며, 生父는 李得萬, 生母 金海金氏는 金喆榮의 딸이다. 나라에서 노인들을 우대하면 백성들도 이를 본받아 효도를 하게 된다고 했다.
自碣銘 (70)
李裕元 자신의 壽藏墓에 대한 墓碣銘이다. 일생을 간략하게 總評했다.
石居生碣銘 (71)
조선후기의 문신 石居 金基纘(1809∼?)의 壽藏墓에 대한 墓碣銘이다. 본관은 淸風, 字는 公緖이다. 남산 부근의 石假山 아래 살아서 石居라고 自號했는데, 孝明世子가 代理聽政할 때 재능을 인정받고 헌종 재위시에도 국왕으로부터 칭찬을 받을 만큼 뛰어난 인재였음을 강조했다. 이유원의 自碣銘을 보고는 자신도 生碣銘을 부탁하여 짓게 되었다고 했다.
戶曹參判金公墓碣銘 (73)
조선후기의 문신 金周默(1777∼1847)의 묘갈명이다. 본관은 淸風, 字는 夢叟, 부친은 金聖球, 어머니 光山金氏는 金焴의 딸이다. 1807년 柑試製에서 장원을 차지하고, 1809년 별시에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 특히 孝明世子가 代理聽政할 때 선발된 18명의 文學之士 중 한 사람으로 효명세자로부터 재능을 인정받았는데, 효명세자가 죽은 이후 상심하고는 오직 詩文으로 自娛하며 일생을 보냈다고 했다.
工曹判書美堂鄭公墓碣銘 (77)
조선후기의 문신 美堂 鄭文升(1788∼1875)의 묘갈명이다. 본관은 延日, 字는 允之, 霞谷 鄭齊斗의 玄孫이고, 부친은 鄭述仁, 어머니 坡平尹氏는 尹光裕의 딸이고, 영의정을 지낸 尹東度의 손녀이다. 1810년(純祖 10) 진사시에 합격하고 世子翊衛司 洗馬가 된 이후의 官歷을 상세히 서술했다.
册十七
茅亭三世先塋誌 (1)
李宗喆, 李敬養, 李瑗奎의 3代 묘에 대한 誌文이다. 본관은 慶州로 白沙 李恒福의 후손이고, 龜川 李世弼(1642∼1718)의 후손이다. 混軒 李宗喆(1709∼1752)의 字는 子明, 蔭職으로 관직에 진출하여 여러 지방의 수령을 역임했다. 이종철의 아들 可窩 李敬養(1734∼1790)은 1772년 문과에 급제한 이후 여러 요직을 역임하며 국왕 正祖로부터 재능을 인정받았다. 이경양의 아들 歸浦 李瑗奎(1756∼1822) 역시 여러 지방 수령을 역임했다. 이종철이 효행과 학문에 근본하여 명성을 떨친 이후 이경양과 이원규가 계승하였던 점을 강조했다.
知中樞府事李公墓誌 (5)
조선중기의 무신 李夢麟의 墓誌다. 본관은 慶州, 부친은 主簿를 지낸 李仁臣, 어머니 光州潘氏는 潘熙의 딸이다. 나라에 대한 충성이 지극했고, 軍功도 많이 세웠다고 했다.
縣令贈左議政始寧府院君李公[雲福]墓誌 (6)
조선중기의 문신 李雲福(1531∼1591)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 成之, 부친은 李夢亮, 어머니는 咸平李氏, 白沙 李恒福의 형이다. 관직은 永平縣令을 지냈는데, 부친과 동생, 아들이 모두 顯達하였음을 강조했다.
司僕寺僉正李公遷窆壙誌 (8)
조선중기의 문신 李應胤(1573∼1620)의 묘를 이장한 글이다. 본관은 慶州, 白沙 李恒福의 三從孫(7촌 조카의 아들)으로, 부친은 李大立, 어머니 奉化金氏는 金光弼의 딸이다. 음직으로 조정에 진출하여 여러 지방의 수령을 역임했다. 특히 光海君이 仁穆大妃를 廢位하려 했을 당시 李恒福이 이를 반대하다가 유배가자 관직을 버리고 낙향하여 오직 저술에만 전념하고 李安訥과 함께 詩文으로 酬酌했다는 등 강직한 성품을 강조했다. 6世孫 李啓淳이 본래 振威縣 馬山里에 있던 묘를 같은 縣의 長燈里로 移葬하며 글을 청했다는 내력도 서술했다.
九峯金公墓誌 (10)
조선후기의 학자 九峯 金九爀(1798∼1859)의 墓誌다. 본관은 江陵, 字는 君直, 부친은 俗齋 金時鶴, 어머니 江陵崔氏는 崔益敏의 딸이다. 어려서부터 부모에 대한 효성이 지극했으며 나이가 들어서는 科擧에 대한 뜻을 버리고 오직 학문에만 전념했는데, 『心經』과 『近思錄』은 물론 여러 성리학 서적을 직접 베껴 쓰고, 學規 10조항을 제정하여 후손들과 인근 자제들을 가르치는 일에 전념했음을 강조했다.
校理贈吏曹判書李公墓誌 (13)
조선후기의 문신 李寅熽(1637∼1697)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 子明, 부친은 華谷 李慶億, 어머니 海平尹氏는 尹元之의 딸이고, 尹斗壽의 증손녀이다. 16살에 林川郡守 朴炳의 손녀와 혼인했고, 市南 兪棨에게 나아가 학문을 배웠으며 음직으로 여러 관직을 역임했는데, 仁顯王后의 폐위를 반대하는 상소에 적극 참여했고, 成渾과 李珥가 문묘에서 출향되는 일에도 앞장서 반대했음을 강조했다. 1694년 동생 李寅炳과 함께 과거에 급제했을 당시 肅宗이 직접 불러 칭찬하기도 했다.
吏曹參判李公墓誌 (18)
조선후기의 문신 生谷 李寅煥(1633∼1699)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 文伯, 碧梧 李時發의 손자이고, 부친은 李慶衍, 어머니 靑松沈氏는 沈大復의 딸이고, 生父는 春田 李慶徽, 生母는 海平尹氏이다. 1665년 정시문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 柳尙運이 지은 이인환의 행장을 후손 李圭哲이 갖고 와서 글을 부탁해 짓게 되었다고 했다.
司僕寺正李公墓誌 (22)
조선후기의 문신 梅山 李寅爀(1634∼1710)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 仲章, 부친은 李慶徽어머니 海平尹氏는 尹垍의 딸이다. 鎭川에 卜居하며 오직 학문에만 전념했는데, 柳尙運, 權尙夏 등이 畏友로 여겼고, 洪命夏 역시 재능을 칭찬했다. 음직으로 조정에 진출하여 여러 지방의 수령을 역임했는데, 백성들이 生佛太守라고 칭송했다는 점을 강조했다. 己巳換局 이후 관직을 그만두고 향리에 은거하며 오직 학문에만 전념했다.
弘文館副提學李公墓誌 (25)
李錫杓(1704∼1751)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 運元, 李寅燁의 손자이고 湛軒 李夏坤의 아들이며, 어머니 恩津宋氏는 宋相琦의 딸이다. 1733년 과거에 장원급제하며 재능을 인정받았으며 관직에 진출해서는 강직한 성품으로 인해 고난을 받기도 했다. 조부 이인엽과 부친 이하곤의 명망을 이어받아 3대에 걸쳐 가문의 명성을 드높였음을 강조했다.
副摠管贈兵曹參判李公墓誌 (30)
조선후기의 문신 李順坤(1652∼1729)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 仲厚, 부친은 醉隱 李寅馨, 어머니는 順興安氏다. 음직으로 조정에 진출하여 여러 지방의 수령을 역임했다. 經史에 박통했고, 文武를 겸비했음을 강조했다.
同知中樞府事李公墓誌 (32)
조선후기의 무신 李培源(1693∼1772)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 茂卿, 부친은 李順坤, 어머니 豊川任氏는 任智元의 딸이다. 1728년 武科에 합격한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 文武를 겸비한 동시에 부모에 대한 효성이 지극했음을 강조했다.
司憲府掌令李公墓誌 (36)
李鎭宅(1738∼1805)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 養重, 부친은 李雲培, 어머니 英陽南氏는 南國望의 딸이다. 180년 문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 가문의 일에 적극 앞장서서 先代의 事蹟을 정리했고, 관직에 있을 때는 청렴하면서도 女色을 멀리 했음을 강조했다.
芹暄堂朴公墓誌 (41)
조선후기의 학자 芹暄堂 朴師一(1737∼1816)의 墓誌다. 본관은 潘南, 字는 三如, 부친은 朴昌元, 어머니 文化柳氏는 柳載茂의 딸이다. 『小學』 읽기를 매우 즐겨하면서 다른 사람들에게도 『소학』의 중요성을 강조했고 다른 경전에 대해서도 해박했음을 강조했고, 부모를 봉양함에 효성이 지극하여 호랑이와 꿩의 異變이 있었다고 지적했다.
刑曹判書趙公墓誌 (44)
조선후기의 문신 晴沼 趙容和(1793∼1845)의 묘지다. 본관은 豊壤, 字는 敬涵인데, 처음 이름은 趙泰和였고, 字는 聖交였다. 좌의정을 지낸 趙載浩의 증손이며, 부친은 교리를 지낸 趙雲翊, 어머니 全州李氏는 李得一의 딸이다. 1822년 문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했는데, 성품이 온화하면서도, 문장에도 능하고 經史에도 박통하였음을 강조했다.
兵曹參判權公墓誌 (49)
조선후기의 문신 權溭(1792∼1859)의 墓誌다. 본관은 安東, 字는 景深, 부친은 權馥, 어머니 咸陽呂氏는 呂駿永의 딸이다. 1827년 定時文科에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 1865년 이유원이 관직에서 물러나 있을 때 권직의 아들 權錫耆가 찾아와 鄭元容이 지은 권직의 묘갈명을 보여주며 글을 청해 짓게 되었다고 했다.
南原府使李公墓誌 (53)
南原府使를 지낸 조선후기의 문신 李容奎(1776∼1835)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 季玄, 부친은 李敬養, 어머니 東萊鄭氏는 鄭致儉의 딸이다. 蔭職으로 조정에 진출해 여러 지방의 수령을 역임했는데, 모두 善政을 베풀어 명성을 떨쳤다고 했다. 1834년 이유원이 조부를 모시고 부친의 임지인 安岳으로 가는 길에 信川을 들렀을 때 이용규가 그곳의 수령으로 재임하고 있어서 서로 만난 인연이 있다고 했다.
永川郡守李公墓誌 (55)
永川郡守를 지낸 조선후기의 문신 李啓榮(1794∼1855)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 晦叟, 生父는 李容奎, 生母는 溫陽鄭氏인데, 李瑗奎의 후사가 되었다. 음직으로 조정에 진출한 이후의 여러 官歷과 함께 온화한 성품에 대해 서술했다.
贈吏曹判書李公墓誌 (57)
從叔 李啓禎(1797∼1818)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 吉叟, 生父는 李容奎, 生母 溫陽鄭氏는 鄭致愚의 딸이며, 李永翼의 후사가 되었다. 22세라는 젊은 나이에 요절한 것에 대해 매우 안타까워했다. 振威縣 북쪽에 있는 舞鳳山의 이유원 가문의 世葬之地인데 그곳에 묘가 있다고 했다.
戶曹判書李公墓誌 (60)
조선후기의 문신 笑笑 李穆淵(1785∼1854)의 묘지다. 본관은 全州, 字는 伯春, 부친은 李義常, 어머니 晋州柳氏는 柳健의 딸이다. 1821년(순조 21) 정시문과에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했는데, 1847년 廣州留守로 있을 때, 그 전에 대사헌으로서 趙秉鉉을 탄핵한 상소문에 과격한 문구가 들어 있다는 이유로 전라도 荏子島에 유배되었다고 하는 등 강직한 성품을 지녔음을 강조했다.
弘文館應敎李公墓誌 (67)
조선후기의 문신 李啓善(1812∼1854)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 成汝, 좌의정을 지낸 鵝谷 李台佐의 玄孫으로, 부친은 李廷奎, 어머니 江陵金氏는 金啓濂의 딸이다. 1850년 과거에 급제한 이후의 관력을 서술했다.
淑人迎日鄭氏墓誌 (70)
李啓善의 부인 迎日鄭氏(1809∼1840)의 묘지다. 부친은 정문승, 어머니 坡平尹氏는 尹光垂의 딸이다. 영일정씨는 이유원의 친구 鄭箕錫의 누이이며, 族弟 李裕承의 어머니이기도 한데, 婦德의 모범이 되었음을 강조했다.
禮曹判書脩石鄭公墓誌 (72)
조선후기의 문신 脩石 鄭基善(1784∼1839)의 묘지다. 본관은 東萊, 字는 元伯, 부친은 鄭持容, 어머니 전주이씨는 李昌中의 딸이다. 1812년(순조 12) 문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 이유원이 어릴 적 門下에 나아가 공부를 배운 스승이기도 한데, 사람들로부터 덕망을 많이 얻었음을 강조했다.
漢城府判尹脩齋金公墓誌銘 (79)
조선후기의 문신 脩齋 金世鎬(1806∼1884)의 墓誌銘이다. 본관은 淸風, 字는 稚顯, 부친은 金晉敎, 어머니 廣州李氏는 李秉耆의 딸이다. 1846년 과거에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 憲宗으로부터 재능을 인정받았던 것과 함께 부모 봉양에 지극한 정성을 다했던 점을 강조했다.
册十八
遼東伯忠武金公墓誌 (1)
조선중기의 무신 金應河(1580∼1619)의 墓誌다. 본관은 安東, 字는 景羲, 金方慶의 후손으로, 부친은 金地四, 어머니 善山金氏는 金忠老의 딸이다. 1618년(광해군 10) 명나라가 후금을 칠 때 조선에 원병을 청해오자, 부원수 金景瑞의 휘하에 左營將으로 있다가 이듬해 2월 도원수 姜弘立을 따라 압록강을 건너 후금정벌에 나섰다가 명나라 군사가 대패하자, 3천명의 휘하군사로 수만명의 후금군을 맞아 고군분투하다가 戰死했다는 충절을 강조했다. 이후 여러 문인들과 국왕들이 그의 충절을 기리는 글을 많이 남겼다고 했다.
贈吏曹判書忠烈姜公墓誌 (7)
조선중기의 문신 姜渭聘(1569∼1637)의 墓誌다. 본관은 晋州, 字는 伯尙, 부친은 姜應生, 어머니 安東金氏는 金德鵬의 딸이다. 병자호란 당시 江都가 함락되었을 때 순절했던 충절을 강조했다. 肅宗 때 閔鎭遠의 청에 의해 旌門이 세워졌고, 1811년(純祖 11)에 이조판서에 추증되었으며, 강화의 忠烈祠에 제향되었다는 추숭의 내력도 기록했다.
刑曹參判洪公墓誌 (10)
조선후기의 문신이자 친구인 洪秉壽(1807∼1866)의 墓誌다. 본관은 南陽, 字는 穉箕, 초명은 秉敎였다. 부친은 林磵 洪學淵, 어머니 全州李氏는 李義綱의 딸이다. 1847년 別試에 급제한 이후의 官歷을 기록했고, 1868년 아들 洪輔燮이 글을 부탁해 짓게 되었다고 했다.
昌溪逸士壙誌 (13)
李啓承(1812∼1839)의 墓誌다. 본관은 慶州, 字는 佑卿, 부친은 李鳳奎, 어머니 溫陽鄭氏는 鄭元始의 딸이다. 과거에 대한 뜻을 접고 오직 시문과 글씨에 전념했던 逸士였음을 강조했다.
通德郞鄭公移窆壙誌 (16)
鄭宗愚(1781∼1848)의 묘를 移葬한 것에 대한 글이다. 본관은 溫陽, 字는 明老, 부친은 鄭萬始, 어머니는 韓大裕의 딸이다. 본래는 묘가 南陽縣 溫石里에 있었는데, 1867년 같은 縣의 瑞尾洞으로 옮겼다.
金氏墓誌 (18)
조모 金海金氏(1783∼1864)의 묘지다. 부친은 金百鍊이고, 16살 때 조부 李錫奎와 혼인했다. 이유원이 4살 때부터 받았던 깊은 사랑과 가르침에 보답하지 못함을 안타까워했다.
海平吉處士墓誌 (20)
處士 吉宗孝(1804∼1858)의 墓誌다. 본관은 海平, 字는 汝常, 부친은 吉興道, 어머니는 江陰徐氏다. 평생 經史子集의 학문에 전념했고, 부모에 대한 효성이 지극했음을 강조했다.
雲居生朴君壙誌 (22)
조선후기의 학자 朴龍彬(1833∼1869)의 墓誌다. 본관은 高靈, 字는 荀八, 부친은 朴永輔, 어머니 昌寧曺氏는 曺重振의 딸이다. 학문에서 남다른 재능을 보였으나 短命한 것을 안타까워했다.
洪川縣監金公墓誌 (24)
조선후기의 문신 金啓泳(1783∼1848)의 墓誌다. 본관은 江陵, 字는 敬夫, 부친은 金寅鎭, 어머니 延安李氏는 李性源의 딸이다. 1838년 綏陵參奉에 제수된 이후의 官歷을 기술했다. 또한 중국은 물론 조선의 역사에 박통하고 만년에는 性理學에 더욱 전념하여 『性理源流』, 『論孟類編』, 『庸學翼解』 등의 책을 지었다고 했다.
弘文館應敎宋公墓誌 (28)
조선후기의 문신 宋尙玉의 墓誌다. 본관은 礪山, 宋寅明의 玄孫으로 부친은 宋持和, 어머니 富平李氏는 李翼元의 딸이다. 어릴 적 아버지를 여의고 홀로 계신 어머니에 대한 효성이 지극했음을 칭송했다.
吏曹參判豐安君趙公墓誌 (31)
조선후기의 문신 菊下 趙然興(1816∼1859)의 墓誌다. 본관은 豊壤, 字는 待汝, 부친은 趙濟和, 어머니 昌寧曺氏는 曺允大의 딸이다. 1845년(헌종 11) 別試에 급제한 이후의 관력을 기록했다. 어릴 적부터 선배와 동료들로부터 나라를 이끌 재목으로 인정받았는데, 1859년 명을 받고 湖南의 관찰사로 부임했다가 임지에서 병으로 죽은 것을 안타까워했다.
檢閱趙君墓誌 (35)
이유원의 사위 趙然斌(1832∼1859)의 墓誌다. 본관은 豊壤, 字는 憲汝, 부친은 趙容和, 어머니 柒原尹氏는 尹衡義의 딸이다. 총명하고 재능이 뒤어났지만 28살이라는 젊은 나이에 세상을 더난 것을 슬퍼했다.
知敦寧府事貞武申公墓誌 (36)
조선후기의 무신 申命淳(1798∼1870)의 묘지다. 본관은 平山, 字는 景明, 부친은 申緖, 어머니 潘南朴氏는 朴泳源의 딸이다. 1820년(純祖 20) 蔭補로 南行宣傳官이 되었다가, 같은 해에 무과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 특히 흥선대원군의 신임이 두터웠고, 경사에 능통하고 문예에도 뛰어났던 점을 강조했다.
吏曹判書致仕奉朝賀文簡徐公墓誌 (41)
조선후기의 학자이자 문신인 楓石 徐有榘(1764∼1845)의 묘지다. 본관은 達城, 字는 準平, 대제학을 지낸 徐命膺의 손자이고, 부친은 徐浩修이며, 어머니 韓山李氏는 韓彛章의 딸이다. 1790년(정조 14) 문과에 급제한 이후의 官歷을 자세히 서술했다. 또한 조부와 부친의 家學을 계승하여 農學에 큰 업적을 남겼는데, 이것은 實心으로 實學에 힘쓴 결과라고 했다.
大司諫李公墓誌 (48)
조선후기의 문신 蒼皐 李鎭華(1771∼1842)의 墓誌다. 본관은 驪州, 字는 公實, 부친은 李秉喆, 어머니 順興安氏는 安復一의 딸이다. 9살의 나이에 四書五經을 독파했을 만큼 독서를 좋아했으며, 1813년 문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 부친의 친구 중 한 명으로 어릴적부터 風貌를 흠모했었는데, 死後 30년이 지나 아들 李興浩가 글을 청해 짓게 되었다는 내력도 기록했다.
戶曹參判臨淵堂李公墓誌 (52)
조선후기의 문신 臨淵 李亮淵(1771∼1853)의 墓誌다. 본관은 全州, 字는 晋叔, 廣平大君의 후손이며 부친은 泥軒 李商雲, 어머니 晋州姜氏는 姜錫弘의 딸이다. 어릴 때부터 문장에 재능이 탁월했고, 성리학에도 밝았는데, 홍석주가 堪輿術에 뛰어난 인재로 조정에 천거하기도 했다. 1838년(憲宗 4) 충청도 도사에 임명된 이후의 官歷을 서술했고, 만년에 후학의 양성에 힘썼다는 점을 강조했다.
工曹判書東里鄭公墓誌 (56)
이유원의 장인 東里 鄭憲容(1795∼1879)의 墓誌다. 본관은 東萊, 字는 翼之, 부친은 鄭東奭이다. 1819년 進士가 되었고, 1828년 義禁府 都事에 임명된 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 弱冠의 나이에 門下에 나아가 가르침을 받았고, 결국에는 사위가 되었는데, 항상 다른 사람의 모범이 되었다는 점을 강조했다.
判敦寧府事兼吏曹判書文貞洪公墓誌 (62)
조선후기의 학자이자 문신인 冠巖 洪敬謨(1774∼1851)의 墓誌다. 본관은 豊山, 字는 敬修, 耳溪 洪良浩의 손자이고, 부친은 洪樂源, 어머니 全州李氏는 李存遠의 딸이다. 1816년 문과에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 이유원은 어릴 때 홍경모의 문하에 나아가 공부를 했는데, 항상 올바른 몸가짐을 바탕으로 나라에 충성하고 부모에 효도한 진정한 스승이었음을 강조했다. 홍경모의 증손 洪承憲이 글을 부탁해 짓게 되었다는 내력도 기록했다.
册十九
掌令贈領議政養窩先生行狀 (1)
조선후기의 문신 養窩 李世龜(1646∼1700)의 行狀이다. 본관은 慶州, 字는 壽翁, 白沙 李恒福의 증손이며, 부친은 李時顯, 어머니 平山申氏는 申惕의 딸이다. 어릴 적 朴長遠의 문하에 나아가 공부를 했고, 1672년(현종 13) 進士試에 합격하고, 1695년 음직으로 禮山縣監에 임명된 이후의 官歷을 서술했다. 또한 經學과 禮說은 물론 역사에 해박한 지식을 지녔고, 『대학』의 物格說에 대해 독자적 견해를 정립했다는 점을 강조했다.
左議政奉朝賀忠定李公行狀 (9)
조선후기의 문신 鵝谷 李台佐(1660∼1739)의 行狀이다. 본관은 慶州, 字는 國彦, 白沙 李恒福의 현손이고, 부친은 龜川 李世弼, 어머니 潘南朴氏는 朴世模의 딸이며, 영의정 李光佐의 재종형이다. 1684년(숙종 10) 진사시에 합격한 이후 1699년 정시문과에 급제하여 조정에 진출한 이후의 관력을 자세히 서술했다. 少論으로 활동한 정치적 이력과 함께 강직한 성품과 청렴함으로 타인의 모범이 되었음을 강조했다.
左議政奉朝賀聽軒孝定李公行狀 (31)
조선후기의 문신 聽軒 李敬一(1734∼1820)의 행장이다. 본관은 慶州, 字는 元會, 李恒福의 6代孫이며, 생부는 李宗悅이고, 李宗岳의 후사가 되었다. 1768년(英祖 44) 음직으로 관직에 나왔다가 1775년 定時文科에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 또한 부모 봉양에 지극한 정성을 다하여 당시 조정의 많은 신료들로부터 칭송을 받았음을 강조했다.
領議政文忠經山鄭公行狀 (39)
조선후기의 문신 經山 鄭元容(1783∼1873)의 行狀이다. 본관은 東萊. 字는 善之, 부친은 鄭東晩, 어머니 龍仁李氏는 李崇祐의 딸이다. 1802년(순조 2) 庭試文科에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 純祖代 冬至使로 燕京에 다녀왔고, 憲宗代 예조판서와 이조판서를 거쳐 영의정이 되었으며, 哲宗 즉위 이후 정치일선에서 물러났다가, 壬戌民亂이 일어나자 三政釐正廳의 總裁官으로 다시 정계에 나왔고, 1863년 철종이 죽은 이후 院相으로서 高宗이 즉위하기까지 국정을 관장하는 등 조정의 막중한 임무를 수행하면서 항상 청렴하고 강직했다는 점을 강조했다.
吏曹判書西堂李公行狀 (76)
조선후기의 문신 西堂 李德壽(1673∼1744)의 행장이다. 본관은 全義, 字는 仁老, 부친은 李徵明, 어머니 靑松沈氏는 沈若漢의 딸이다. 1713년(숙종 39) 문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 六經과 百家의 학설에 모두 깊은 학식을 지녔는데, 특히 易經에 탁월했음을 강조했다.
右贊成周溪鄭公行狀 (88)
조선후기의 문신 周溪 鄭基世(1814∼1884)의 행장이다. 본관은 東萊, 字는 聖九, 부친은 영의정을 지낸 鄭元容, 어머니 江陵金氏는 金啓洛의 딸이다. 1837년(헌종 3) 문과에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 또한 문장과 서예에 조예가 깊었으며, 항상 겸손하여 다른 사람과 불화가 없었다는 점을 강조했다.
册二十
判中樞府事趙公諡狀 (1)
조선후기의 문신 天隱 趙宗鉉(1731∼1800)의 諡狀이다. 본관은 楊州, 字는 元玉, 부친은 趙雲逵, 어머니 潘南朴氏는 朴師休의 딸이다. 1768년 문과에 급제한 이후의 官歷을 자세히 서술했다. 文章은 물론 詩書에 뛰어났는데, 특히 楷書에 능통했으며, 당시 많은 墓道文字를 지었다고 했다.
臨海君諡狀 (16)
臨海君 李珒(1574∼1609)의 諡狀이다. 宣祖의 庶子이자 長男으로 字는 鎭國, 어머니 恭嬪金氏는 金希哲의 딸이다. 1592년(선조 25) 임진왜란 당시 順和君과 함께 근왕병을 모집하기 위하여 함경도로 떠났다가 왜군에 포로가 되고 이후 우여곡절 끝에 석방되었으며, 동생 광해군이 즉위한 이후 무함에 연루되어 강화도 교동으로 유배되었고, 당시 李恒福, 鄭逑 등이 결백함을 주장했지만 결국 이듬해 죽음을 당했고, 仁祖反正 이후 묘를 楊州 天磨山으로 이장했다고 했다.
議政府左參贊李公諡狀 (18)
조선후기의 문신 李聖圭(1732∼1799)의 諡狀이다. 본관은 全州, 字는 錫甫, 仁城君 珙의 5대손이며, 부친은 예조판서 李益征, 어머니 竹山安氏는 安相恭의 딸이다. 1753년(영조 29) 문과에 급제한 이후의 官歷을 자세히 서술했다. 조정에 진출한 40여 년 동안 오직 청렴하고 강직한 성품으로 최선을 다했으며, 부모에 대한 효성도 지극했음을 강조했다.
刑曹判書李公諡狀 (25)
조선후기의 문신 李潤成(1719∼1782)의 諡狀이다. 본관은 全義, 字는 集卿, 부친은 李邦協, 어머니 平山申氏는 申思永의 딸이다. 글씨와 그림에 뛰어난 재능을 보였고, 1736년(영조 12) 18살의 나이로 병조판서 朴文秀의 천거로 南行宣傳官에 제수된 이후의 관력에 대해 서술했다.
行吏曹判書致仕奉朝賀朴公諡狀 (29)
조선후기의 문신 履坦齋 朴綺壽(1774∼1845)의 시장이다. 본관은 潘南, 字는 眉皓, 부친은 朴宗臣, 어머니 海州崔氏는 崔粹一의 딸이다. 나이 15∼16세에 이미 文名을 떨칠 만큼 조숙했고, 1806년(순조 6) 문과에 급제하여 청요직을 두루 역임했던 관력을 자세히 설명했다. 또한 六經에 박식했음과 함께 부모에 대한 효성이 지극해 모든 사람들의 칭송을 받았음을 강조했다.
刑曹判書趙公諡狀 (37)
조선후기의 문신 晴沼 趙容和(1793∼1845)의 諡狀이다. 본관은 豊壤, 字는 聖交, 좌의정을 지낸 趙載浩의 증손이며, 부친은 趙雲翊, 어머니 全州李氏는 李得一의 딸이다. 1822년 문과에 급제한 이후의 官歷을 기록했다. 성품이 온화하면서도 문장에도 능했음을 강조했다.
工曹判書李公諡狀 (40)
조선후기의 무신 李熙絅(1804∼1866)의 諡狀이다. 본관은 全義, 字는 聖章, 형조판서 李潤成의 손자이며, 부친은 李景植, 어머니 潘南朴氏는 朴會源의 딸이다. 1826년(순조 26) 무과에 급제한 이후 어영대장, 총융사, 금위대장 등을 역임하고 공조판서의 지위에 까지 오른 官歷을 상세히 서술했다. 또한 비록 武藝로 發身했으나 평생 古文에 매진했음을 강조했다.
行工曹判書許公諡狀 (44)
조선후기의 무신 許棨(1798∼1866)의 諡狀이다. 본관은 陽川, 字는 而肅. 통제사를 지낸 許任의 손자이며, 부친은 許濈, 어머니 全州李氏는 李英世의 딸이다. 1815년 무과에 급제한 이후 경상좌도・함경남도・함경북도의 병마절도사를 역임했고, 공조판서와 어영대장을 역임하며 경복궁 營建都監의 提調로 활약했던 官歷을 상세히 서술했다.
行吏曹判書徐公諡狀 (48)
조선후기의 문신 石耘 徐憲淳(1801∼1868)의 諡狀이다. 본관은 達城, 字는 稚章, 부친은 徐基輔, 어머니 潘南朴氏는 朴宗臣의 딸이다. 1829년(순조 29) 문과에 급제한 이후의 官歷을 상세히 서술했다. 말년에는 휴가를 청해 公州의 紫雲洞에 은퇴했다고 하면서, 평생 청렴하고 강직한 성품으로 많은 사람들의 칭송을 받았음을 강조했다.
知敦寧府事申公諡狀 (55)
조선후기의 무신 申命淳(1798∼1870)의 諡狀이다. 본관은 平山, 字는 景明, 부친은 申緖, 어머니 潘南朴氏는 朴泳源의 딸이다. 1820년(순조 20) 무과에 급제한 이후의 관력을 상세히 서술했다. 武人이었지만 항상 독서를 게을리 하지 않았고 經史와 文藝에 뛰어났던 유학자였음을 강조했다.
參議贈吏曹判書兼成均祭酒果齋成公諡狀 (60)
조선후기의 문신 果齋 成近默(1784∼1852)의 諡狀이다. 본관은 昌寧, 字는 聖思, 牛溪 成渾의 후손으로, 부친은 成鼎柱, 어머니 白川趙氏는 趙衍五의 딸이다. 經山 鄭元容이 學行으로 조정에 추천하는 등 재능을 인정받아 여러 관직을 거쳤다는 官歷을 기록했다. 항상 청렴하고 강직한 성품으로 남들의 모범이 되었으며, 학문에서도 남다른 재능을 보였음을 강조했다.
行工曹判書鄭公諡狀 (68)
조선후기의 문신 美堂 鄭文升(1788∼1875)의 諡狀이다. 본관은 延日, 字는 允之, 霞谷 鄭齊斗의 玄孫이고, 부친은 鄭述仁, 어머니 坡平尹氏는 尹光裕의 딸이다. 1810년(純祖 10) 진사시에 합격하고 世子翊衛司 洗馬가 된 이후의 官歷을 상세히 서술했는데, 앞에서 이미 정문승의 묘갈명을 짓기도 했다.
判敦寧府事金公諡狀 (76)
조선후기의 문신 梅谷 金始㷜(1676∼1750)의 諡狀이다. 본관은 江陵, 字는 晦而, 부친은 金弘柱, 어머니 咸悅南宮氏는 南宮培의 딸이다. 1708년(숙종 34) 식년시에 급제한 이후의 관력을 자세히 서술했다. 重厚한 성품으로 주변의 칭송이 자자했으며, 자식들에게는 과거에 전념하지 말고 오직 독서에 주력할 것을 당부했음을 강조했다.
漢城府判尹李公諡狀 (84)
조선후기의 무신이자 서화가인 星谷 李南軾(1803∼1878)의 諡狀이다. 본관은 全州, 字는 景瞻, 부친은 李謙會, 어머니 昌寧成氏는 成玉의 딸이다. 1824년(순조 24) 武科에 급제한 이후의 官歷에 대해 서술했다. 藏書가 수 만권이었고, 書牘, 畵帖, 遺墨도 많이 수장하였으며, 스스로 글씨와 그림으로 일가를 이루었음을 강조했다.
工曹判書林公諡狀 (89)
조선후기의 문신 松石 林翰洙(1817∼1886)의 諡狀이다. 본관은 錦城, 字는 翼如, 부친은 林箕鎭, 어머니 慶州李氏는 李宗幹의 딸이다. 1846년(헌종 12) 과거에 급제한 이후의 官歷을 서술했다. 重厚한 성품으로 인해 주변의 칭송이 자자했음을 강조했다.