해좌집(海左集)

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[연구사업]한국학 기초자료사업
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서지사항
분야문학
유형문헌
시대조선
문서종류문집 해설

본문

海左集自敍 (自書1)
1787. 丁範祖가 65세 되던 해에 자신이 지은 詩文을 직접 정리한 뒤 쓴 서문이다. 문학에 뜻을 둔 15・6세 이래에 자신이 유지했던 문학적 지향, 그 이후 65세에 이르는 동안의 문학적 성취 과정 등을 서술하고 정리된 시문의 규모를 기술하고 있다.
海左集序 (序1)
1867. 李明迪가 쓴 『해좌집』의 서문이다. 『해좌집』을 간행하는 정범조의 증손 黃州 牧使 丁大植의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 正祖의 文體反正 운동의 구심점 역할을 했던 정범조의 문학적 능력과 기여를 높이 평가하는 내용이고 후반부는 반평생을 관직에 있었으면서도 세사에 얽매이지 않았던 삶의 태도와 교유한 인물 등을 통해 그의 풍모와 기상을 드러내고 있다.

卷一
詰夢 (1)
1765. 부인 東萊鄭氏가 죽은 지 3일째 밤 꿈에 부인이 근심하는 듯한 표정을 한 채 나타나고 그 10일 뒤 밤에 다시 화난 듯한 표정을 하고 나타났지만 이후에는 부인이 꿈에 나타나는 않는 것을 경험한 뒤 쓴 부이다. 꿈에 부인이 나타나는 것과 자신의 감정 사이의 관계를 객관적인 시각에서 읊고 있다.
鹿皮帶賦 (2)
許某와 헤어질 때 그로부터 이별의 정표로 사슴가죽으로 만든 허리띠를 받고 쓴 賦이다. 사슴의 성장 환경, 사슴가죽의 아름다운 무늬, 허리띠로 만들어지는 과정 등 사슴가죽 허리띠가 가진 특색을 통해 布衣의 선비가 유지해야하는 순수하고 고결한 뜻을 읊고 있다.
詩 (3)
蛩蛩之行六章章八句, 明燈三章章四句, 雖白匪白三章章四句, 維山有獸四章章四句, 贈幽人, 夜飲龍淵申叔宅, 曉發楮島, 江行贈人, 夜宿鳳棲寺, 泊葛山與柳生夜別, 過沈叔故宅, 江閣夜懷, 詠舟中菊樹贈石梁主人, 題法泉古塔, 黃驪晚望, 隴頭水, 芳樹, 王昌婦, 贈三從弟明會-昌祖, 待人不至, 和鄭士述-弘祖, 古意三章贈鄭士述, 其二, 其三, 讀燕超齋詩集, 白龍歎, 望京師, 曉發, 舟到蟾江志喜, 雪, 靜女吟, 感懷五首, 其二, 其三, 其四, 其五, 明會過余別後追寄, 舟中和許明遠, 善哉行, 雲中鵠, 感懷, 贈李彝甫-秉延, 其二, 其三, 芭蕉, 述懷寄原江兄弟, 白瓢花, 新積寺病懷, 寄鄭汝搏-翼海, 其二, 寄再從弟堯叟-述祖, 佳人, 月中桂, 金谷園花發懷古, 送李君東萬歸嶺南, 出塞行, 採蓮曲, 少年行, 憶智日上人, 懷病啽, 晚坐待明會, 秋夕, 懷鄭士述, 訪勉學子廣川幽居, 惻惻, 萍漪漪, 白馬從南來, 子夜歌, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 子夜變歌, 子夜四時歌(春歌, 夏歌, 秋歌, 冬歌), 前溪歌, 其二, 惱儂歌, 估客樂, 其二, 守一菴, 途逢盡室入橋內山者, 堤川途中, 幽事, 寄病啽從叔-志翕, 望家大人嶺旆, 喜雨, 江閣曉起, 尹家婦, 孫孝子, 南山之楓樹行, 客從山中來, 迷鳥篇, 京城扇, 路遠曲, 孤雲曲, 躬耕歌, 賣劍歎, 悲逝水, 感憤歌, 獨感曲, 其二, 其三, 子夜狐, 于勒琴送自在翁, 君莫愁行贈自在翁, 難別君送鄭士登, 同氣歌贈家弟, 寡鶴篇, 梅花歌送金禹錫-廷龜-歸蘂城, 大俠篇, 猛虎篇, 夜訪鄰家, 送李聖威歸蘂城, 送有鄰之京師, 清溪月夜, 古意二章述懷二章奉申從兄, 其二, 其三, 其四, 有所思, 山中書懷, 鄙人, 駱洞雨中懷李彝甫, 上率儲君幸永禧殿瞻望有述, 歸山述懷, 春洲晚望懷洛中故人, 送子章從兄歸鄉, 一樹杜鵑放花, 雨雪後到園中有一叢花意幸亦從此陸續否.

卷二

和鰲下諸公幽居雜詠, 春朝, 輓鄭士重, 其二, 和寄洪而憲-翰輔, 解樂翁哭子, 落齒, 三迂宅共賦, 西亭夜坐, 歸剡中故居題眎諸從, 關王廟, 田家雜興, 其二, 其三, 龍潭, 虎穴, 將歸原江舊居志感, 溪上晚望, 寄呈缶广洪叔-晟, 到鰲山舊宅悵然有述, 夜到鄰家微醺, 看花晚歸, 晚下白雲山, 秋懷, 其二, 書懷, 還山棲, 登白峰嶺, 贈李生, 憶鄭李二亡友感題, 秋日書懷, 宿檀嶺, 是夜雪甚燈下述懷, 贈五明金光漢, 宿丹丘郡, 經長迴棧, 宿蘂城贈洪希聖-伋, 寄呈缶广, 寄呈芝崗洪大父-命源, 寄洪而憲-翰輔, 其二, 其三, 苦寒, 雜詩, 其二, 過二樂樓, 吾樓, 送族叔歸嶺南, 自歎自戒自慰詩九章(自歎第一章, 自歎第二章, 自歎第三章, 自戒第一章, 自戒第二章, 自戒第三章, 自慰第一章, 自慰第二章, 自慰第三章), 豆江鼠, 海蟲, 寄而憲, 寄洪叔敬言, 江樓晚坐, 漫賦, 構小堂, 狼川道中, 寄申聖淵-光洙, 寄李彝甫, 出城書懷, 過南漢有感, 曉行, 洪從趾卿-宗益-登上庠過余構贈, 送金秀才歸嶺南, 補弊舍有述, 窮居, 索居書懷, 寄金上舍伯瞻-光遇, 其二, 其三, 其四, 祝腹兒, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 六祝詩成矣是夜夢有虎入室覺而解之曰虎文明之物也其生子才乎遂志喜, 奉寄內從兄, 贈沈戚光之, 寄呈缶广 寄而憲, 而憲見訪書贈, 寄而憲, 奉送亞使洪公嶺南之行, 寄金上舍, 其二, 余嘗獲從諸公游甚懽各有詩屬仍自述(洪殿中叔, 許上舍丈泰叟-䄡, 鄭士述, 李英叟-亨煥, 洪而憲, 李彛甫, 申聖淵, 金伯瞻, 許明遠, 洪聖承-伋, 李士心-萬應, 自述), 夜坐, 沈珠篇, 悼士述, 愚湖, 謾興, 衰年, 其二, 海翁, 悼士述, 石橋雨中, 山居雜詠, 其二, 陰城道中述八愁(思家, 計程, 失睡, 淹病, 對燭, 逢雨, 衣綻, 橐空), 曉發, 賦呈芝崗, 呈缶广, 其二, 壘前韻奉寄, 其二.

卷三

寄宿沈君錫題贈, 詠沈君錫閤梅, 其二, 贈沈聖休-宜禎, 贈金永國-鼎鎭, 寄希聖, 其二, 贈希聖, 其二, 其三, 輓彝甫, 其二, 過李和中-之實-文洲幽居信宿賦贈, 其二, 其三, 禹錫自原鄉來題贈, 寧陵十二韻, 贈兪婿-孟煥(一解, 二解, 三解, 四解, 五解), 聖淵自寧陵齋所專价寄詩和其韻, 正月十五夜偕聖淵登神勒寺東臺翫月號韻各賦, 到陵齋又賦, 赴陵齋春會, 其二, 其三, 其四, 清心樓月夜敍別, 聖淵將歸覲韓山折簡邀余乘舟到神勒寺聖淵迎候寺樓共賦, 向夕浮舟向神勒寺, 送睦幼選-萬中-遊天磨, 聖淵夜過社稷直廬拈韻共賦, 其二, 其三, 盤松, 石井, 聖淵至約幼選不來, 其二, 述懷, 寄聖淵繕工直廬, 其二, 聞聖淵船泊楸島無恙, 兪婿舜玉就社齋讀書賦贈, 哀李從子陵-崗, 其二, 春日携幼選韓季心-致沃-魯瞻遊北嶽, 還到六曹街幼選分路拈歸字, 暮春述鄉思, 憶幼選, 小林菴, 余東歸聖淵幼選諸益會竹西敍別, 其二, 其三, 其四, 和幼選, 竹西共賦, 其二, 其三, 送申執玉-虁相-歸覲, 送兪穎老-景柱-歸峽, 聖淵冒雨至呼韻共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 哀傷, 共兪秀五-恒柱-拈韻, 其二, 訪聖淵直廬, 竹西宅與聖淵秀五共賦, 其二, 其三, 共秀五拈唐詩韻, 其二, 其三, 送蔡侍郞伯規-濟恭-宰安岳, 陪駕觀稼西郊, 騎省書懷, 其二, 其三, 臨署中小池, 寄聖淵北山旅舍, 其二, 送高原督陲權叔紀-以綱, 題李掌憲丈希朱-之晦-四不齋, 同秀五夜訪聖淵, 申戚堯臣-匡堯-自堤上來住癯川沈戚-汲-家夜與秀五往會, 和而憲寄詩韻, 癯川夜集, 月夜訪堯臣不遇歸路口占, 其二, 和聖淵卻寄, 郭南夜話贈安生, 北山聖淵宅共賦, 其二, 十五夜携秀五步出水標橋候聖淵, 同秀五訪聖淵路上各賦, 東歸贈秀五, 臨發贈堯臣, 過鐵店, 杯山贈李士會夏亨, 曉發口號, 風雪陰城道中, 雪夜訪石原村舍, 其二, 帶月偕鄰友訪水北酒家呼韻, 夏日江居即事, 余以臺職對吏蒙恩放與秀五和空同集韻, 其二, 其三, 其四, 其五, 和樊巖伯規韻, 其二, 其三, 其四, 憶聖淵, 憶兪魯瞻-日柱, 斗尾峽舟中遇雷雨, 詠土燕, 過孤山祠, 登丹巖小亭, 馬上口占, 劍湖, 狐峴, 行近黃山驛, 閱馬, 善山道中懷舊, 剪燈, 醉號, 延香驛別省峴丞蔡士述-弘履, 獨夜, 龍湫, 乘月獨出, 向大丘巡營道中雜述, 嶺南樓, 辰韓, 其二, 留題省峴驛竹裏館, 孤雲臺, 散步, 海上懷聖淵幼選, 雙忠祠, 松潭院, 和題雙碧樓, 雜謠, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 日哦亭即事, 駐陣巖, 雨中, 宿山家, 輓藥隱許公, 奉御降香祝祭伽倻津龍神, 寄鄭士宗, 浮舟至臨鏡寺登孤雲臺, 西墻梅樹二月始着花荒僻可憐, 普雲菴能上人見訪賦贈, 日哦亭雜題, 其二, 其三, 其四, 次遊玉山書院韻, 雞林館次板上韻, 盤龜, 重到通度寺, 向東萊道述, 次蓬萊館板上韻, 海雲臺分韻得鳴字, 沒雲臺觀海, 次嶺南樓板上韻, 野望臺, 值雨, 客夜望嶺南樓, 自東海歸書懷, 奉寄巡相, 歸田, 其二, 贈西鄰, 到西鄰醉賦, 其二, 其三, 秋日浮舟楊湖, 秋日即事簡東鄰, 其二, 其三, 送趙友子長-胤源-向湖中, 其二, 東鄰共賦, 和西鄰, 其二, 其三, 其四, 其五, 和寄東鄰七夕詩韻, 疊前韻, 酒後寫懷, 西江晚眺, 遊鳳棲菴, 其二, 其三, 送人之京師, 鄰家醉筆, 偶題.

卷四

1771. 咸興, 高原, 洪原, 北靑, 登厚峙嶺, 其二, 其三, 崔君範重以金吾郞謫三水與余偕至甲山送別, 述旅愁, 其二, 其三, 其四, 鐵嶺歌, 述懷, 遣悶, 捕貂歎, 北謠雜曲, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 其十二, 其十三, 其十四, 其十五, 其十六, 其十七, 春娘詞, 十一首, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 黃昏, 登八角亭, 與李尙書次唐宋人集及東人集詩各體韻課日賦詠長短錯互興寄雜出無題目可區分故隨所作先後以數爲次聯屬以錄爾, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 其十二, 其十三, 其十四, 其十五, 其十六, 其十七, 其十八, 其十九, 其二十, 其二十一, 其二十二, 其二十三, 其二十四, 其二十五, 其二十六, 其二十七, 其二十八, 其二十九, 其三十, 其三十一, 其三十二, 其三十三, 其三十四, 其三十五, 其三十六, 其三十七, 其三十八, 其三十九, 其四十, 其四十一, 其四十二, 其四十三, 其四十四, 其四十五, 其四十六, 其四十七, 其四十八, 其四十九, 其五十, 其五十一, 其五十二, 其五十三, 其五十四, 其五十五, 其五十六, 其五十七, 其五十八, 其五十九, 其六十, 其六十一, 其六十二, 其六十三, 其六十四, 其六十五, 其六十六, 其六十七, 其六十八, 其六十九, 其七十, 其七十一, 其七十二, 其七十三, 其七十四, 其七十五, 其七十六, 其七十七, 其七十八, 其七十九, 其八十, 其八十一, 其八十二, 其八十三, 其八十四, 其八十五, 其八十六, 其八十七, 其八十八, 其八十九, 其九十, 其九十一, 其九十二, 其九十三, 其九十四, 其九十五, 其九十六, 其九十七, 其九十八, 其九十九, 其百, 其百一, 其百二, 其百三, 其百四, 其百五, 蒙恩宥歸途感述, 踰嶺到北靑, 抵咸興方伯宋-文載-出餞醉中口呼, 春川道中遇雨, 宿橫邑次安季華-錫任-贈韻, 送洪侍郞君平-名漢-按關東, 送蔡侍郞伯規黜補三水, 其二, 送蔡侍郞伯規按關北, 和知樞李丈-齊巖-九老會詩韻, 送燕行-代人作/, 其二, 其三, 次洪處士舊居玉溜菴詩韻, 輓洪尙書-重孝, 寄明遠, 輓許上舍-襜, 輓許明遠, 輓人, 歸山謾述, 送南直長士直-挺秀-歸湖中, 鴨, 石假山, 春日泛愚湖, 其二, 其三, 其四, 靑春, 謾吟, 廣石磵邀明會堯叟共話, 暮春山居即事.

卷五

共玉汝叔禹錫拈宋人韻各賦, 病起, 賦幽居, 赴沃溝任所, 月夜馬巖觀潮, 赴任之十六日有嚴旨 盡遞文臣倅令齊赴京師理裝促發行到成歡驛店舍聖淵自順天遞來月夜相值迎視甚喜拈韻共賦, 其二, 白菊, 寄南士直, 題鳳菴僧壁, 林居, 秀五自黑島宥還卻寄, 龍淵亭賦呈表從叔申-思錫, 其二, 送汝搏, 盆菊, 人事, 寒士, 玉汝叔見枉賦贈, 夜坐書懷, 次衡兒韻, 雪夜看書, 山路遇雪, 醉後信筆, 冬至後一日小醉率爾三首, 其二, 其三, 送富寧倅朴汝敏-敦行, 雪, 次劍南詩韻, 其二, 其三, 其四, 其六, 述幽事, 共而憲次東詩集中韻, 其二, 其三, 春帖詩, 其二, 其三, 早春即事, 寄寧越倅聖淵, 其二, 次衡兒韻, 其二, 泛前湖, 垂楊灣, 廣石潭, 大坪, 古塔, 漆湖步, 楊江港, 衰懶, 抑陰扶陽-湖堂應製二十韻, 自言居水勝居山-應製, 古調雖自愛-應製, 建功歌-應製, 臨歸與幼選秀五拈唐律韻敍別, 接堂吏所報去月二十四日命湖堂朴相甲賡御製是夜夢入侍便殿仰瞻天顏有迎喜色命製詩以進旋即驚悟下懷結枕上口占, 參賀班歸渡漢津雨中黯然有京闕之戀, 曉發廣州店舍, 秋日遣興, 其二, 蜀葵花, 謾興, 寒夜書懷, 次若衡韻, 楊湖雪中醉歸, 雪甚, 中林, 次劍南韻, 其二, 其三, 其四, 山夜, 次韻寄題許鏡心-澈-幽居, 江樓獨夜, 歲暮, 寒夜病中, 至日夜, 上愍賤臣親老家貧有除邑之命久之任基城上下詢邑俸豐薄程道遠近蓋異數也感泣有詩, 陛辭之夕入侍退述瞻戀宸極之懷, 出都門, 丹陽道中, 豐衙夜坐書懷, 與三從弟丁得童子拈韻共賦, 其二, 春日雜興, 春雨, 醴泉道中, 道中口占, 大谷寺, 題寂照菴僧壁, 留別宇上人, 遲日, 伏聞上候平復志喜, 寄秀五, 夜入軍威, 期宗人玄之寺中, 行近郡齋, 陪二親舟泝丹丘將踰嶺赴郡行抵月灘贈諸益, 舟中記勝, 其二, 向小白山喜方寺馬上口呼, 李戚稚暉景溟叔昇柱溟來游嶺南歷訪拈韻共賦, 其二, 遊安氏舊亭, 贈昌樂郵丞崔天逵-致白, 錦仙臺, 與朴承旨仲涵-師海-順興倅韓厚叔-光載-游竹溪九曲, 寄贈李學士聖輔-世奭-燕行, 堯臣歷訪郡齋留醉拈放翁詩韻共賦, 其二, 其三, 挈昌樂督郵觀獵, 昌郵丞旣瓜歸再抵書甚慇懃遺菱花刻板爲謝兼寄十韻, 石北申聖淵輓-百韻, 六月十一日夜夢淵令來未省爲誰家而日已向夕衣冠灑脫形神銷瘦拈韻賦詩思索甚苦方設酒食蘧然驚寤悲不能禁呼燭題一律, 初秋池亭晚眺, 謁郁錦書院仍訪黃錦溪後孫尙玉幽居賦贈, 宿雙岳寺, 鳴鳳寺內院, 郡西樓觀射, 虛上人雨過賦贈, 李斯文士謙萬達見枉留數日共賦, 其二, 天逵觀獵鷹颺去寄失鷹詩其鷹不竟夕而返如認馴養之恩誠義鳥也以得鷹奉寄, 偕天逵訪錦溪精舍仍敍別, 寄李致政-最中, 內清涼, 滿月臺, 金生窟, 聰明水, 外清涼舊有安中庵今廢 , 月夜賦一絕, 謁陶山祠院, 自咸昌郡偕沈戚光之柳戚晦如申戚擎天往仙遊洞, 鳳巖寺洞中有白雲臺水石甚奇, 仙游洞, 輓安叔華-錫儆, 其二, 秋日游靜安洞, 五明洞懷金光漢, 新年與庶從弟樂祖共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 奉邀凡山趙丈-周奎-留郡衙數日共賦, 其二, 徐斯文佑漢以其先祖遺集序文見托賦贈, 金上舍-光澈-托其兒子又慶受學臨歸共賦敍別, 其二, 其三, 其四, 贈歸又慶童子, 豐樂亭與趙佐郞普陽拈韻共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 次韻贈金持憲-埅㙔-兄弟, 芙蓉稧會次韻示諸益, 贈別深源.

卷六

醉到東鄰共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 寄語楚江漁父戒勿釣楚江魚-二十韻, 遷都丹圃建白瑤宮召李長吉作新宮記, 同題, 纔闋慈氏喪制又迫先大王終祥濡筆志哀戊戌元月三日也, 室人忌日, 外姑終喪後始向梧下擬展廟路上賦眎外從姪申匡國, 外從兄墓感懷, 即事次東坡韻, 物態, 用茅蓋屋有述, 書懷簡棠溪, 賦八物戲, 雨夜獨吟, 汝搏窮老無子常感傷次沈戚興甫韻以解之, 次寄棠溪, 醉次諸少年韻, 其二, 其三, 疊前韻, 其二, 其三, 步屧, 醉呼, 次東州集韻, 其二, 其三, 疊前韻次敬夫題廣石村 鄰社少年夜集有詩孤枕無聊和其韻, 翌夕邀諸少年拈韻共賦, 贈申從巨山, 述感次家弟韻, 艾羹會醉呼, 半百, 春日憶聖淵而憲二亡友有感, 贈鄭生鎭禮, 醉賦, 有騎省恩除感賦, 赴召歷辭先妣墓泣述, 差寧陵忌辰祭官奉香祝渡漢津, 南漢山城, 聖淵爲寧陵寢郞邀余爲酒賦會今過直廬黯然有黃壚之感, 哀鄭汝難, 其二, 其三, 其四, 開元寺, 曉下山城, 陪孝明殿朔祭志哀, 省中雜詠, 其二, 又賦, 騎曹直廬東墀新植杜鵑開花幽約可憐, 其二, 得家弟書, 寒食差祭長陵見士女滿路皆上墓愀然有先楸之懷, 奉贐蔡尙書使燕, 其二, 其三, 弘濟院餞席, 送申善用-禹相-宰興陽, 其二, 鄉書, 坐無標軍人闌入闕中承嚴旨待罪金吾門尋蒙放, 鍾閣觀二十八拍悲壯可喜, 寄順興倅朴承宣仲涵, 其二, 上憫旱命濬川渠蓋祈雨舊例也越數日果有雨, 許同知-鉍-輓, 其二, 輓李知事-齊巖, 約幼選天與善用會城南水閣蓋諸少年偕焉拈韻各賦, 諸君先歸余幼選留賦, 歸途聯句, 又步其韻, 與幼選訪秀五留宿共賦, 會洞小集醉歸寄幼選, 其二, 翌日君西宅又賦贈幼選, 其二, 贈善用, 聞舉女孫, 尹彝仲-弼秉-崔聖著-烜-見枉共賦, 是夕訪秀五留宿聖著亦至同賦, 其二, 其三, 赴幼選城西小集拈韻共賦, 其二, 疊前韻寄餘窩求和, 其二, 其三, 其四, 輓許同知-代家大人作, 謾題贈西鄰, 曉起, 題申姪潤-之新-寓草堂, 醉書, 次澤南集韻, 謾興, 次唐人閒居作, 寄呈夏雪洪叔, 閒居雜述, 其二, 其三, 其四, 次東人詩韻, 閉門, 霖雨書懷, 雨後觀漲, 霽景, 秋夜, 鄭季野幽居八景(獨峰夜月, 八瀑朝雲, 方塘紅蕖, 寒臺翠柏, 閒庭脩竹, 老圃叢菊, 東溪垂釣, 南坪牧牛), 偕李上舍元老舟發興湖到甓寺遇金正言致鳴沿途唱酬, 其二, 其三, 其四, 除襄陽之前夜夢拜先妣內子在傍侍疾如平昔泣述, 陛辭述下懷, 度箭橋, 廣陵津, 宿松坡, 近鄉, 早發利川, 發法泉, 明會追送一日程臨別呼贈, 曉發胎亭, 橫城長峴途中, 宿狗洞, 其二, 遠回峽, 大蔚谷, 曉望歸綠嶺, 名芝谷, 州吏迎官下嶺, 歸綠嶺歌, 嶺底民家數戶蕭然可愍, 嶺下遇風雨歌, 山雨水漲上官遲一日戲述, 雨晴水殺始發, 衙後小麓望海一曲, 峴山謠, 漢水詞, 大堤曲, 巫山, 秋夕寫懷, 中夜, 官池觀打魚, 清讌堂演樂, 月夜登醉山樓, 訪祥雲丞值入五色嶺飲靈泉不遇, 題崔上舍幽居, 東海廟, 秋夜寫懷, 漢水觀設柵捕魚行, 歲候, 次李夢瑞韻題李君精舍, 洛山寺, 義相臺觀海.

卷七

觀音窟, 洛山寺賓日樓御製詩歌, 義相臺候日出值氛霧觀巨鯨六七擊水甚奇壯, 裊空娘羅漢舞歌, 奉寄巡相, 登東麓烽臺觀海循南厓而下有石窟深不可測吞吐海濤作霆靂響譬觀音窟尤奇壯, 申文初光河自楓嶽 併海而東 歷過郡齋 相視驚喜 剪燭共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 其十二, 其十三, 其十四, 其十五, 其十六, 其十七, 其十八, 其十九, 其二十, 其二十一, 其二十二, 其二十三, 其二十四, 其二十五, 其二十六, 其二十七, 其二十八, 其二十九, 其三十, 其三十一, 其三十二, 其三十三, 其三十四, 其三十五, 其三十六, 其三十七, 其三十八, 洛山寺聯句, 東海月歌送文初還京師, 竹島, 奉寄巡相, 送文初書懷, 得文初途中寄書, 送汝搏, 悼熊孫, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 送趙汝晦歸驪州, 閱倉儲, 和奉巡相, 洪上舍聖月-霽漢-輓, 其二, 訪祥雲丞拈韻共賦, 其二, 走筆謝祥丞惠松節酒, 兼任臨瀛發行道述, 鏡浦臺, 梅鶴亭, 步祥丞次鏡浦韻卻寄, 其二, 其三, 洞山倉, 次寄祥丞, 洪知事戚叔-晟-輓, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 贈李斯文-海定-爾晏, 其二, 其三, 醉後信筆, 次寄李爾晏, 其二, 次寄祥丞, 疊次, 其二, 其三, 其四, 其五, 朴承宣-師海-輓, 其二, 其三, 祥雲丞來訪共賦, 與申姪士元兪婿舜玉家兒若衡共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 次士元酒詩, 次唐詩韻, 歲除之夕率爾十首鄉懷也懷各有屬(家弟有光, 弟嫂, 同姪, 章兄, 會弟, 堯弟, 玉叔, 豪叔, 沈戚興甫一源昆季, 錫友), 終年所賦詩爲三百餘篇卷末戲題, 元朝, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 喜有光來, 其二, 西樓夜歸, 春日雜謠, 十三日夜乘月步南川橋, 私試諸生程文, 向神興寺道中口呼, 神興寺, 自寺右折而上峯態水勢奇絕可玩有盤石稱飛仙臺, 翌日循左麓行數里許天吼山雄壓半空四圍石峯皆蒼黑如積鐵窟中小菴號繼祖菴有數僧, 寺夜, 出山, 春雨, 郡齋雜謠, 其二, 其三, 其四, 其五,次希菴集中韻, 其二, 其三, 其四, 次寄祥丞士膺, 其二, 述懷, 東軒謾題, 其二, 南津途中, 其二, 疊次李斯文, 其二, 其三, 其四, 步月到酒家口占, 擬登郡西搴芝山賞花雲丞赴會共賦, 芝山之會有光士元舜玉若衡從雲丞及李斯文兄弟三人偕拈韻共賦, 其二, 州俗歲設耆社會余爲張妓樂赴宴醉占一律錄眎席上, 被酒晚歸, 祥雲丞邀芝山會中人爲蔓山之遊酒席共賦, 其二, 其三, 送有光歸原鄉行寒食墓祀因娶其子婦, 分糶, 東樓月夜聽妓蓬萊仙唱歌, 惜新花隕雪詩次韻, 夜步出南溪, 寒食前二日, 寒食感懷, 巡相行到鄰郡一詩奉候, 即事, 雜興, 其二, 悶雨, 觀漲, 其二, 其三, 次唐詩韻, 共雲丞賦, 其二, 其三, 其四.

卷八

李斯文-頤重-養仲與余生同年月日設酒食相邀意甚厚賦贈, 惻惻, 清讌堂醉題, 自東樓移席西城賞春, 英宗大王忌日泣述, 州校例以白場被選儒生居業初選者三人具酒饌邀鄉中少長稱新入禮余亦赴其會賦眎諸生, 訪祥丞共賦, 其二, 奉寄巡相, 其二, 發向雪嶽馬上口占, 候祥雲丞不至是夜雨, 翌朝雲丞至, 五歲菴, 菴有梅月堂金公-時習-遺像感賦, 贈圓上人, 永矢菴, 寒溪瀑, 百潭寺, 歸路顧視雪嶽在雲際殊覺悵然, 永郞湖. 仙游潭, 清澗亭, 遊楓嶽小敍, 鑑湖訪楊蓬萊舊居, 懸鍾巖, 海山亭, 海金剛, 其二, 三日浦, 夢泉庵, 望楓嶽, 新溪寺, 九龍淵, 玉流洞, 鉢淵觀馳瀑, 外圓通, 松林窟, 佛頂臺, 榆岾寺, 船潭, 水岾嶺望內山, 摩訶衍, 萬灰菴無僧, 擬上白雲臺危甚不果, 八潭, 普德窟, 萬瀑洞, 表訓寺, 歇惺樓, 其二, 皆骨謠, 長安寺, 送舜玉還京, 靈源庵, 須彌塔, 歸路, 隱仙臺, 自榆岾冒雨出山, 霱雲軒拈劍南集中韻共賦, 其二, 遊碧玉潭, 長夏, 雲丞枉共賦, 其二, 余在基城與鳴鳳山括虛上人相善今年夏遊楓雪二嶽轉向五臺山歷路訪余臨別索詩賦贈, 耆社觀德余亦赴會席上醉賦, 都洞川雨中觀楸打, 其二, 雨中即事, 其二, 霱雲軒共賦, 其二, 同祥丞賦, 其二, 翌日雲軒拈韻, 次祥丞, 李養仲幽居八景(九峯黃花, 雙湖素月, 赤城霞氣, 漢水漁火, 西亭松影, 南郊稻花, 洛寺遠鍾, 峴山落照), 偕雲丞賦郵園叢竹, 七夕, 次昌黎春雪詩韻賦苦雨, 送衡兒夫婦還原州, 七月旣望夜與崔惠吉張士膺家弟有光泛月南江, 連谷驛亭夜宿, 舟泛鏡湖, 臨瀛歸路, 其二, 崔惠吉張士膺偕枉共賦, 水城道中, 哀強死屍, 秋夕前一日, 寄李爾晏, 雜興, 其二, 秋夜述懷, 曉發臨瀛, 李燕岐-克誠-輓, 領軍赴臨瀛習操, 洞山道中, 夜歸, 丘山驛吏洪春觀者舊館人也行過其門問之則死矣感述, 登大關嶺, 洪溪驛次雲丞韻, 其二, 過五臺山, 抵家眎鄰友, 宿多華, 洪溪夜懷, 申上舍-光淵-清之輓, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 李爾晏夜訪拈韻共賦, 其二, 洛寺夜集共賦, 立春日醉題, 亡室忌日感述, 上元夜同士膺爾晏賦, 其二, 謝鹿門借梅兼和詩用前韻, 寄崔生宗奎, 共雲丞賦, 其二, 歸計, 還梅鹿門述悵意, 醉題東軒, 其二, 寄三陟使君李-東遇-天與, 發吏奴及郡中槍手獵虎, 山民捉獻一豹, 春望, 歲癸亥余赴臨瀛監試今來尋舊館不辨戲題, 謝金措大-衡鎭-志尹惠鮒魚, 題馭風樓, 其二, 次贈權生-弼教, 次贈權生-永教, 其二, 寄題權生-徽教-新構觀梅窩, 其二, 寒食述感, 漢渚, 李承旨戚兄-秀逸-輓, 其二, 差臨瀛查官道中有述, 洞山亭, 雲丞席共賦, 其二, 我衰篇次東州集韻, 清讌堂小集座有原鄉舊識, 其二, 城西小麓得山字共賦, 溪南小會和士膺爾晏, 其二, 余棄郡歸雲丞追送洞山津剪燭敍別, 其二, 五月一日發襄衙擬歸葬子婦仍爲解綬之計道中述懷, 近鄉, 寄題柳斯文百花菴, 海翁, 其二, 和寄李爾晏, 其二, 其三, 次香山詩韻.

卷九

次菊圃集述懷, 信筆十韻, 過基城感懷, 夢亡子婦悼甚有述, 其二, 其三, 喜雨, 漫興, 春日雜興, 其二, 其三, 其四, 醉草, 其二, 輓尸庵權巖孟容, 其二, 寄景三, 向夕步轉紫閣訪權-伋-敬思, 題兪君西-華柱-城南新居, 執玉見枉共賦, 其二, 醉興, 其二, 其三, 輓金持平-光遇-伯瞻, 其二, 其三, 其四, 輓權掌令-德訓, 京行舟泊驪湖宿趙汝晦家次幼選韻, 舟中次趙君元明-章夏-韻, 其二, 其三, 急雨江漲, 就睡蓬底朝起已到廣津, 雜興, 其二, 其三, 其四, 其五, 寄靈光倅景三, 其二, 有蔓而花結子離離可愛者曰荔芰非中國種也, 訪彝仲共賦, 疊和, 韓謹之-德厚-見枉拈韻共賦, 其二, 改葬室人述感, 寄樊巖蔡尙書, 題畫, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 其十二, 其十三, 無題, 其二, 漫興, 山齋, 詠梅, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 其十一, 訪樊巖別墅餘窩亦至拈韻共賦, 其二, 林臥, 其二, 雪晴, 通籍, 歲除日, 新年, 奉豐川除旨, 利川店, 西出慕華館, 高陽道中, 雨夜賦眎三從庶弟-俔祖, 次俔弟韻, 曉發, 臨津口呼, 臨津歌, 吹篴橋, 碧瀾渡, 登開城南樓, 海州道中, 堠亭, 過石潭, 分韻得靑字, 六郡, 首陽山清聖祠歌, 到府日得燈字, 登郡西麓望海, 栗川使君李公會-鼎運-與其弟季受-益運-枉郡齋共賦, 其二, 送公會後有述, 夜中述懷, 閱兵行, 次俔弟韻, 約李公會將向九月山道述, 入山得仙字, 步月出前溪水石可玩, 北轉寺後數里許有瀑布頗奇壯傳湫有龍, 出山得雲字, 宿殷衙得杯字, 歸贈公會, 謝碧城柳上舍惠仙批草歌, 客夜, 次贈柳上舍, 聞蟬十二韻次唐人作, 惠寰居士李景明-用休-輓, 途中新晴望海, 松禾使君出二小姬唱曲戲賦, 鷹子, 滿月臺歌, 九月山歌送李季受還京師, 携李公會登九月山論樊巖三湖優劣仍戲賦奉寄樊巖蔡尙書, 柳上舍順之携其子雲瞻見訪共賦, 其二, 禱雨(西海廟, 椒島壇, 博石山, 唐舘浦), 余棄郡歸公會枉別留宿共賦, 其二, 夜坐述懷, 寄公會, 賦病鶴, 次贈朴上舍, 贈趙生亨天, 贈尹斯文, 歸途雜述, 其二, 旅舍贈金-濟潤-士楫, 向江西寺, 宿江西寺, 省江西先墓, 其二, 出都門東下述懷, 其二, 次唐人八韻, 在郡買海鶴一隻擬載歸尋化去還山閤中梅樹已被人移去悵然有述, 醉後率爾諸什, 其二, 其三, 見西河貶語乃曰非乏文華奈闊事務戲賦, 短拙, 其二, 其三, 其四, 今年余周甲也元日有述, 立春, 次東州集中村居韻, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 身事, 其二, 關門, 病懷, 占巷東閒地擬誅茅者久之而力詘未果戲賦, 漫興, 種杏子, 上元夜雪, 看紙鳶, 硯滴, 筆筒, 土爐, 磁壺, 鮑杯, 眼鏡, 小屏, 燭臺.

卷十

春雪, 寄秀五, 夢石北, 其二, 族弟德祖祥日, 種柳, 和李夢瑞疊寄韻, 其二, 其三, 其四, 次題許生-滌-幽居, 春日雜興, 鄰社, 戲效艷曲, 其二, 其三, 寄樊巖求眼鏡, 寄謝雲巖詩箋簡幅之惠, 竹坡宅會艮翁雲巖醉後聯句, 其二, 艮翁疊前韻見寄走和, 其二, 和題漁隱亭, 轉到高自菴分韻得靑字, 又得身字, 夜懷, 秋興, 蓮峯李氏八世旌節舊第貧易主近其子孫贖還重揭棹楔乞詩要敍其事次原韻用寄, 哭趙君重緯, 其二, 其三, 賦寄戚兄申于天-峻岳, 客至賦贈, 立春日雨中, 野人, 即事, 雨雪損麥憫題, 歲饑乏食懼渾眷填壑依救荒古方擣松葉黃豆作屑和水飲之差可免死賦此兼寓漆室之憂, 又賦一律, 寄題鄭友草堂, 夜吟, 家犬爲虎所囕, 步出南溪, 題畫(道士斬龍, 眞僧馴虎, 龍, 虎), 沈景眉-壽錫-從楓嶽歸賦贈, 雪夜, 二月, 春事, 訪三迂戚兄歸後賦寄, 其二, 其三, 寄洪叔敬言, 其二, 宿彌山禪房曉發, 輓李正言-正薰, 寄幼選求眼鏡, 洪台-秀輔-君擇辱寄和章兼惠華牋用長句報謝仍乞燕產筆墨, 寄題柳生-載範-重修涵碧亭, 舟向京師值姜君-世白-共次唐人韻, 其二, 其三, 許士鴻-漸-杏洲幽居八景(三角朝嵐, 二水晚潮, 文岫落照, 金陵微翠, 江村漁火, 山谿牧篴, 鴨島蒹葭, 蟹湖帆檣), 柴門, 曙枕, 其二, 李君-之聃-登第以新恩過余詩用志喜贈其大人孝祥, 三月, 春日有感, 折楊柳, 關山月, 芳樹, 隴頭水, 梅花落, 古別離, 明妃怨, 銅雀妓, 巫山高, 俠客行, 紫騮馬, 少年行, 駿馬, 出塞曲, 從軍行, 妾薄命, 王昌婦, 長門怨, 遊仙詞, 採蓮曲, 侍讌曲, 對酒曲, 題尹生羲九池亭, 贈堯臣, 輓戚叔李上舍-晚慶, 其二, 輓洪斯文儒漢-代人作, 輓崔丈-鎭垕, 年少作沙洞春游獨坐無聊寄詩乞酒, 次寄三迂兄, 其二, 李戚聖威-尙重-見枉賦贈, 春遊蓀谷即詩人李達舊居飯申生光周家入逋泉洞洞在絕頂傳壬辰倭難居人多入此獲全云, 其二, 自月灘携諸益浮舟下木溪爲打魚會, 華嶽南趾有曲水曩與棠翁伯瞻松丈聖容流觴爲樂仍宿水上僧菴今年春尋舊遊有山河之感有述, 其二, 黃上舍龍兮德正見枉共次放翁韻, 其二, 共次劍南韻, 聖一見枉用酬黃君韻共賦, 和寄聖一, 春興, 泛舟蟾江, 其二, 和士元, 次贈李姪-周範, 龍兮偕權許二生至共賦, 其二, 其三, 次柳生和叔和菴詩韻, 次劍南詩韻, 醉草, 和龍兮, 夕眺, 晚從廣石歸, 次希菴集韻, 其二, 題孫氏女殉夫事, 次題李太和-晷-愚湖草堂, 偕沙谷諸君爲赤巖游各賦, 次寄尹季淵-用謙-三十韻, 次寄聖一, 其二, 率爾十韻, 龍兮至, 用前韻贈士元, 其二, 和贈季淵, 發船興江向京師, 自苧洞載病發隨陽智倅韓景善-光傳-向縣衙爲歸計, 余寢疾一朔忽脈絕體冷氣垂盡家人環而泣然神明不爽構一律誦之音節可辨傍觀驚怪俄而服蔘茶獲甦亦異事也, 秋懷, 其二,
和士元, 送李相國-性源-赴燕-代人作, 過鄰家, 士元夜至, 野望, 瓢蔓, 自小宗伯移拜國子長, 哭君西蘆原墓, 看秀五葬歸路述悲, 歎息篇次澤翁, 送金泉督郵, 桐菴八景(雲峯朝霧, 月菴夜火, 庭畔梧桐, 簷外葡萄, 南湖歸颿, 東林巢鶴, 平田耦耕, 前川虛市), 苦雨, 寄艮翁求和, 次寄艮翁, 其二, 贈鄭生瀾, 寄艮翁, 送李令孺文宰寧越, 其二, 震澤挈德能至夜坐共賦, 其二, 還山述懷, 其二, 和龍兮, 李進士觀海輓, 送李承宣公會宰順興, 其二, 黃驪行感題驪江錄後贈震澤申文初兼眎善用, 鳴孫在腹有白鶴之夢旣生名以鳴同甫三歲而殀聞報悼甚有述, 寄雲巖吳侍郞謫中, 輓李右尹-命俊, 其二, 寄金弘道求爲山水蟲鳥圖歌, 輓盧上舍-兢, 其二, 戲謝崔娘寄餉黑糖歌, 輓尹斯文-恕, 戲題申水部和乞畫歌.

卷十一

次樊相韻, 送李學士-趾永-赴燕, 其二, 其三, 送申文初宰麟蹄, 其二, 艮翁遣肩輿相邀酒食甚歡拈韻共賦, 書雲巖車公-原頫-遺事後, 莊獻世子遷園輓, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 艮翁輓, 其二, 其三, 掌陞庠試後被臺誣對吏呈爰辭有述, 伏聞上幸顯隆園, 同樞宋公與吾先子生同戊寅同辛丑司馬榜又同見回榜歲蓋異事也稀慶也先子以乙巳下世公以下世今公之孫某袖眎公所製回榜詩一律奉讀傷感謹次其韻以贈, 杜門, 戲寄麟蹄守求獨輪車歌, 次寄麟蹄守震澤, 其二, 被嚴旨發鄉行渡漢津述懷, 次趙新寧-器鎭-韻卻寄, 趙友惠新寧煙茶謝寄, 次趙友賦萬柳莊詩韻, 其二, 其三, 臨歸又次二律, 其二, 文初自營下迤訪一宿共賦, 其二, 春日挈冠童泛舟游蟾巖, 題尹氏莊, 幽居即事, 寄有光, 秀台終祥感述, 其二, 次白門諸公壽爵讌會詩韻, 林廬, 還山後初到巷東小園, 贈龍兮, 其二, 東園小集各賦, 其二, 其三, 洪上舍-人河-伯功自京乘舟至留宿共賦, 其二, 寄人兒, 聞彝仲入銀臺賦寄, 敬次美閤賡進御製詩韻, 即事步前韻, 敬次樊巖相公賡進御製宣賜詩韻寄呈, 輓崔參判-光璧, 其二, 輓朴驪州-鎤, 寄題李斯文-鎭東-宛在亭, 次寄權尙書-엄(礻+嚴)-公著外補江界府, 寄灣州伯李侍郞-孺文, 其二, 還山雜詠, 其二, 秋夜, 感述, 秋夕日貧無以祭謾述, 世事, 哀田生慶雨, 重陽日雨中獨坐, 省莘山考妣墓, 簡龍兮, 寄巨山, 次權上舍江亭四時詩韻, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 次李僉樞-孝尙-陞資讌席詩韻卻寄, 除夜, 元朝感述, 次士元, 夜坐雜詠, 其二, 龍兮至, 其二, 有都憲除命陳病蒙遞伏聞車駕幸顯隆園謹述, 山夜, 敬夫士元共賦, 其二, 新春即事, 動駕日謹述, 山居書事, 閤中小梅經臘無花意, 其二, 二月, 謾感, 寄賀震澤申文初登弟, 東園, 雜詠, 其二, 其三, 其四, 其五, 春夢, 夜雨, 憶龍兮, 其二, 賦還山, 其二, 夜歸, 戲贈士元, 鶴山, 寄龍兮, 其二, 謾興, 其二, 雨夜, 悼田生, 其二, 贈士元, 次王半山賦春日韻, 春霽, 同士元次劍南集中韻, 曉枕, 溪上, 次菊圃集韻, 雪, 苦雪, 賦閒居, 贈士元, 其二, 其三, 疊閒居韻, 又雪, 疊前韻, 其二, 朝起, 春日雜興, 其二, 插松籬, 余有東巷小園甚愜偶閱劍南集有小園詩次其韻, 壯心篇, 賣鬪雞, 移植櫻桃樹歌, 山雨, 題胡馬獵歸圖行, 道人呪神魚圖歌, 二月晦日雨, 其二, 生日, 看春耕, 感興, 其二, 其三, 其四, 其五, 無齒, 贈士元, 去家三載始歸草舍荒涼籬根禿拔四面無遮障鄰里爲愍然不得已借人牛斫致松枝四五駄插短籬生理可笑, 贈金佐郞佐賢-商雨, 戚孫申-慶會-登上舍歸覲賀席賦贈, 悼子婦亡日, 鄭友-昌龜-輓, 盆植杜鵑花, 拊若衡次韻, 送看花諸少年獨坐無憀, 其二, 小桃初開.

卷十二

鶴北, 惜春, 雜興, 風雨, 四月八日夜觀村舍懸燈, 夏日書事, 其二, 遊蓀山偕者七人, 題蓀山主人幽居, 遣興, 林居, 寄尙州倅李-趾采-公振, 醉賦, 自秋曹移拜喉司旋有召命感述, 洪戚叔士咸-炅-年七十七 自中原仗策委訪 臨歸賦贈, 村居即事, 溪上聞鶯, 老體, 野興, 有友携酒來餉醉甚口呼, 演前韻爲七律, 其二, 雨後即事, 雨後始聞蟬, 次贈尹君-喆健, 其二, 其三, 其四, 其五, 八月十七日拜松都留後辭陛入侍上問賤臣病狀下教曰孫臏病脚能爲三軍帥治績何關於行步善爲之 感泣有述, 長湍道中志感, 渡臨津, 善竹橋, 奉命審視麗王諸陵, 其二, 其三, 伏聞車駕幸光陵擬參扈班向京師途中口呼, 有光自松衙奉誕日箋文至京師留十日還任值余納西都節東下臨別賦贈, 送衡兒歸原鄉, 告由發鄉行道述, 其二, 季淵乘雪枉兼携酒榼喜甚梅下拈韻共賦, 其二, 其三, 與龍兮賦, 其二, 伯功乘雪委訪適閤梅新坼相視甚樂拈韻共賦, 其二, 余納松都節還山養疾杜門無憀家兒若衡盆植一本梅古榦疎枝開花數十辮點綴如畫對之欣然會心然梅花之隱約者也得高人雅士以賞識然後爲勝得清詞秀句以讚詠然後爲韻顧無客以穪花何哉尹君季淵讀書林下氣度沖遠如鶴舉松挺一日渡江而來就余宿時雷復後七日而梅始菩蕾含芳矣爲賦五七律二七言絕一余亦和其後又就余宿時嘉平前一日而梅已爛熳吐萼矣爲賦五七律四余亦和蓋視梅則敷暢發舒香若爲之郁烈氣若爲之動盪而梅與人不期而神契矣然則梅得季淵而勝得季淵之詩而韻余忝爲梅主人而與有幸也季淵旣序其事屬余爲記昔屈三閭作離騷稱芳物甚悉而梅不與焉人爲梅訟屈今特伸於季淵豈屈伸有數歟遂舉酒賀梅神泚筆書此, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 洪上舍聖幾-秉哲-非素際也一日挈權聖一乘雪來訪古人義也強疾拈韻共賦, 其二, 其三, 其四, 雪夕龍兮至共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 奉次樊巖相公韻寄呈, 立春, 其二, 次從姪韻, 除夕, 癸丑元日, 憶有光, 戲寄申戚參議堯臣-匡堯, 贈士元, 其二, 少瀛聖幾見枉共賦, 其二, 其三, 陳縣道疏乞解亞銓有述, 龍兮來住溪南賦贈, 龍兮夜至共賦, 歎息, 其二, 和龍兮, 其二, 寄聖幾, 其二, 緩歌行和少瀛, 向京師舟發蟾湖, 赴政席夜歸口占, 震澤見枉共賦, 其二, 次震澤城東修稧詩韻, 次餘窩, 次震澤圓嶠春遊詩韻, 餘窩雨至偕沈珍山汝漸-逵-拈韻, 其二, 其三, 題趙斯文先蹟帖詩後, 訪餘窩拈韻, 送李龜瑞-廷書-宰金山, 權聖一輓, 其二, 其三, 其四, 和李侍郞-邦榮-恩旌賀帖詩韻, 次贈尹員外-持範-彝敍, 寄東京尹李季受-益運, 其二, 贈光州倅李公會, 贈姜同樞聖表-世東, 其二, 偕權台叔紀李台孺文蔡台士述李台廷藻李台公會暨長少二十餘人賞蓮西池時蓮花向謝猶點綴葉間可愛拈韻共賦, 歸後疊和前韻, 坐查事被嚴旨東歸道述, 曙發, 悼香柏, 歸山, 東園秋集, 和龍兮, 其二, 其三, 慰士元哭內子及兩幼孫效退之解東野哭子詩, 贈季淵, 次龍兮季淵, 雲巖景三舟向丹丘歷訪韓舍人一之光植自半溪亦至共賦, 贈景三, 次寄一之, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 陳病狀乞解銓職.

卷十三

還山吟, 漫賦, 即事, 往者, 送伯功, 待龍兮不至, 寄東萊伯尹彝仲, 尹上舍元博枉宿邀龍兮共賦, 金正言復-仁輓, 其二, 遊釜山僧舍, 其二, 十五夜季淵來與之翫月同賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 林居, 贈洪斯文源心-正河, 其二, 閤梅先臘開花有詩, 季淵佩酒至賞梅共賦, 其二, 其三, 其四, 夜坐, 雜詠, 其二, 其三, 其四, 政廳即事, 次彝敍見寄韻, 奉和樊巖相公春詞韻, 其二, 雪夕賦懷, 喜猶子若權自松衙來, 贈慧月上人, 次李台公會韻, 其二, 其三, 被嚴旨歸鄉利川途口呼, 泛蟾湖, 向普慈菴, 到寺逢雨, 歸途口號, 舟向京師夜泊楊根宿柳子三書舍, 晚下西湖口占, 猛虎行, 次樊巖相公是岸亭唱酬詩韻, 寄題葉西權尙書公著新買書舍, 樊巖宅小讌見邀病未赴賦呈席上諸公, 戲爲石饞歌 次蔡台士述有石歌錄寄, 老人錢歌奉和樊巖相公, 寄眎蓮池會諸公, 酬五沙, 南居景善率爾見枉謂余曰今日同己酉四公爲同年會邀我吾豈捨我同癸卯老人而就彼哉願與子爲一日之懽余感其意奇其氣援筆賦同年二老歌贈之, 丹丘主人雲巖 和武夷九曲詩韻 作丹丘九曲詞 用其韻賦呈, 一曲大隱潭, 二曲黃庭洞, 三曲水雲亭, 四曲鍊丹窟, 五曲道光壁, 六曲四仙臺, 七曲舍人巖, 八曲桃花潭, 九曲雲仙洞, 余赴雲巖三雲樓會蓋有約也適諸公賞蓮西池邀余余寄詩謝不往諸公各有和詩而獨士述台一日連寄三疊頗寓嘲諷意蓋指捨西池赴雲樓也余迺倍其數戲爲六疊和詩以解嘲, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 三日浦行, 洪參奉-人河-輓, 李台孺文輓, 其二, 其三, 李上舍久之自京師南歸歷訪共賦, 其二, 閒居無事閱歷代史紀凡關係道學倫常可爲法戒者輒用韻語論述得絕句三十有三篇觀者恕其猥濫也(盤古,伏羲, 神農, 黃帝, 帝堯, 帝舜, 大禹, 成湯, 高宗, 文王, 始皇, 漢高祖, 武帝, 蜀先主, 魏太祖, 晉武帝, 宋高祖, 梁武帝, 唐太宗, 玄宗,
宋太祖, 神宗, 明高皇, 蒼頡, 伊尹, 屈原, 賈誼, 諸葛亮, 關羽, 陶侃, 狄仁傑, 趙普, 方孝孺), 馬上望季淵幽居, 晚步述懷, 寄贈雲巖吳侍郞景三西厓柳相國親寫水雲亭帖仍乞丹丘怪石歌, 病中賦懷, 雨夜, 歲色, 憶龍兮, 特陞資憲秩旋拜大司寇述感, 歲暮, 端居, 杖策, 陞資後省考妣墓, 地僻, 山夜, 趁冬至候班雨中發向京師, 夜抵利川贈地主南戚仲賓-寅老, 肅拜靈壽閣, 寄萊伯彝仲, 其二, 元朝, 和十六窩會中韻卻寄, 賀愼同樞-后彭-重牢宴, 春日階震澤岐川五沙游新寺, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 和成斯文能遠-晚鎭, 岐川士述宅共五沙賦, 其二, 枕上賦得, 能遠夜至拈韻共賦, 其二, 病中爲長句一篇寄五沙兼眎震澤岐川, 客中見杜鵑花仍憶山居手植紅白兩株開花爛漫悵然賦之, 家弟聞余病報馳書問訊有四種之饋率爾賦四百二十字寄謝, 五沙諸公園亭賞花是日賜宴於北山洗心臺命卿宰赴會盛舉也病枕無瘳賦呈五沙求和, 其二, 景善屢枉問疾賦贈, 題執玉宣齋詩軸, 臨歸賦呈樊閣, 與能遠共賦, 四月元日, 和贈源心, 夏日即事, 家後小園觀射, 輓李同樞-萬庥, 其二, 和龍兮, 夜坐漫詠, 新秋雨霽, 次劍南集中韻, 夜坐偕龍兮共賦

卷十四

次劍南韻贈季淵, 其二, 其三, 其四, 病中廢詩戲爲長句眎龍兮, 金員外佐賢見枉偕龍兮賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 晚望偶成, 秋曉, 戲寄龍兮, 同季淵賦, 夜坐, 山居秋懷, 重陽前一日謾賦, 佐賢船寄澹紅菊數叢副以七律三篇次謝, 其二, 其三, 季淵至次其韻贈, 龍兮入峽觀穫稻戲贈, 其二, 金參判-蓍耇-夢休輓, 其二, 贈片傔-小敍, 喜壺傔委來省病, 病懷, 潭陽法雲山顗上人携其祖師遺集來屬爲序仍賦呈一律次贈, 一盆四種菊盛開, 山澤, 沈戚-啓華-歷訪賦贈, 野夫, 送若人讀易僧舍, 端居雜感, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 書事, 賀元僉樞-孝協-壽職, 寄題李上舍-海慶-秄隱堂, 寄人兒山房, 臘月, 過先考忌日後一日志哀, 季淵至龍兮亦會共賦, 梅花詞十五解(一解, 二解, 三解, 四解, 五解, 六解, 七解, 八解, 九解, 十解, 十一解, 十二解, 十三解, 十四解, 十五解), 壽申孺人六十一詩-小敍(一解, 二解, 三解, 四解), 春辭, 其二, 除夜, 元日, 其二, 喜家弟歸, 二月初一日頒賜中和尺于二品諸臣蓋遵舊例也仍賜御製詠尺詩五律一首命賡進至及於鄉居賤臣感惶製進, 賦寄雲巖景三台, 其二, 寄贈錦伯公會台, 其二, 承旨族姪若鏞自京師向蘂城歷訪拈韻共賦, 其二, 其三, 其四, 歸時又歷見賦贈, 溪南觀漁, 春後到園中與龍兮季淵共賦, 園中觀射, 園游之翌日又共龍淵賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 泛舟蟾江分韻得船字, 南崗觀射, 次寄美庸, 其二, 園中又賦, 景善寄示病中近作詩十數篇其一屬余也 步其韻賦二篇錄寄, 其二, 次寄彝敍, 次寄美庸, 其二, 其三, 苦痁疾戲賦, 賦新蟬, 重陽日共龍兮賦, 次韻題龍兮新構書舍, 申文初輓, 其二, 其三, 其四, 季淵約夜會不至共龍兮賦, 季淵至共賦, 其二, 劍南有秋來瘦甚而益健故戲作詩余則秋來瘦甚而益衰步其贈戲作, 山齋, 三從兄廣川叟翌曉將入地夜坐志悲, 族姪若鉉親墳在忠原之荷江名其小樓曰望荷蓋寓松楸之懷也次其題望荷樓韻 卻寄, 韓僉知景善輓, 其二, 其三, 許生濱自京師船載五盆菊贈余盆各五種色也喜賦, 十月, 嫁女之日醉甚口呼, 贈李學官-廷年, 步前韻贈女婿李學鎭, 夜坐, 獨夜書懷, 三年作纔一卷卷中詩凡哭七人感題, 山夜睡起即事, 贈金君子明, 寄禹錫峽寓, 次寄李大年-廷年, 其二, 其三, 病枕見月, 閤梅病寒胎疏而綻遲有述, 臘月二十一日政若衡爲繕工監役志喜, 除夕前五日夜坐述懷, 丁巳元日, 共龍兮拈韻賦, 蔡台士述外補驪州委价相訊寄近體一首次其韻奉謝並附一律, 其二, 送若衡赴京, 季淵至共賦, 其二, 立春, 禹錫詩賀家兒筮仕次寄二律一賦新居一述私喜, 其二, 看書訖戲爲雜歌, 元月十五夜陰不見月有述, 放翁作六十二翁吟余次其韻作七十五翁吟, 曉枕呼韻共士元賦, 即事, 共龍兮賦, 疊前韻寄龍兮, 可歎, 曉枕, 龍兮來宿共賦, 其二, 其三, 其四, 寄士述, 其二, 即事, 宴坐, 其二, 讀樂翁鄭士述遺稿, 夜坐與士元分韻得花字.

卷十五

我詩至第八冊仲春十一日也戲題, 春日雜詠, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 恭聞車駕幸隋城展拜園寢經二宿還宮謹述瞻望之懷, 詠籬南巢鵲, 許生-槼-輓(一解, 二解, 三解, 四解), 贈禹錫, 黃友士清新喪內子意甚傷悼此余履而知者故賦贈, 宴坐, 贈龍兮, 春日漫興, 述老, 晚眺即事, 春睡, 二三少年爲泛舟看花之約聽之興發口呼, 雜興次唐人韻, 共龍兮拈韻賦, 賦糶, 贈別金君子明, 寄金上舍-珩吉-孟剛, 李戚-廷喆-輓, 洪上舍-秉哲-少瀛翁輓, 其二, 其三, 送族弟景行-載運-晉吾-載進-游四郡, 送堯叟四郡之行, 春盡後感賦, 送若衡上京, 小醉呼書, 偕長少數十人泛蟾湖, 其二, 觀射, 原心舟訪共賦, 其二, 步至光弟新構小堂仍醉臥, 夏日小集拈韻共賦, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 次韻寄髯翁原心, 其二, 其三, 次寄沈正言聖通達漢, 共金正言佐賢賦, 寄龍兮, 苦雨寄龍兮, 次寄柳林川-詢, 寄北伯公會, 其二, 其三, 和寄士述, 雲鳥齋歌寄贈雲鳥齋主人金永國, 索居忽忽作悼韓申二君歌韓南居景善也申震澤文初也, 種百日紅一根經冬不死開花爛熳喜賦, 架山葡萄障日, 贈李友聖晦-之謙, 黃鶴謠, 其二, 其三, 蟾江曲, 其二, 其三, 中秋月, 寄族姪谷山倅美庸, 其二, 歸鷰, 望龍兮山居, 秋懷, 病中待衡兒, 重九, 諸少年登高戲賦, 秋懷, 秋懷無聊率爾寄龍兮, 其二, 其三, 幽居, 送李婿, 偕龍兮拈韻賦, 念衡兒舟行, 候龍兮不至, 冬日書懷, 龍兮季淵來宿共賦, 其二, 其三, 其四, 季淵去之一宿又歷訪贈詩有國士吾何有鄉愿聖所譏之句感其意次之, 即事, 曉枕口呼, 田廬, 述老, 冠孫兒惠祥志喜, 即事, 送惠孫委禽之行, 其二, 述台陞資上京賦寄, 至日, 歲暮感懷, 剡上, 近臘, 今臘不見閤梅悵然賦之, 與龍兮次劍南詩韻, 又次劍南韻, 春詞, 其二, 其三, 戲爲宋人小詞倣其詞不倣其意(望江南, 長相思, 菩薩蠻, 臨江仙, 何滿子), 除夕偕龍兮拈韻共賦, 戊午元日, 元日後連雪, 十五夜偕龍兮得來字賦月, 其二, 朝起用前韻, 鳳棲之僧庵廢已久眞上人者十年前庵僧也爲募緣重修因居焉賦贈, 二月七日夜夢家大人, 共龍兮賦, 扶餘鄭君-溍-來請其先銘臨歸賦贈, 洪君-桂榮-用賓過宿賦贈, 春日雜謠, 其二, 其三, 贈黃童子奎相, 與權生安仲分韻得天字, 寄李令幻祚-祉永, 閱三淵詩有四入金剛之語覺惘然, 贈權生, 次樊閤戲贈葉西權台新入耆社詩韻仍寄葉西, 次葉西台耆社詩韻寄賀-小敍, 其二, 又次前韻錄寄, 寄趙如晦, 與龍兮共賦, 次季淵, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 將行惠婦新歸禮志喜, 喜兪參奉舜玉委訪賦贈, 其二, 從孫誼祥婚禮隔日喜賦, 次龍兮, 其二, 爲西江之游船上冠童三十餘人, 其二, 沈正言-鳳錫-輓, 夏日即事, 吾園, 構靑巢, 題屏畫(蘭亭, 桃源, 柱下史靑牛出關, 鴟夷子扁舟浮湖, 王右軍山陰籠鵝, 陶彭澤籬東採菊, 孟襄陽騎驢訪梅, 李翰林停杯問月, 林處士孤山放鶴, 蘇團鍊赤壁泛舟), 漫興, 諸君遊華嶽招提仍較射巨屯野戲賦, 其二, 其三, 戲贈有光.

卷十六

葉西錄與諸公唱酬詩一軸寄余用其韻以和其意奉報(次聾庵胷字, 次葉西翩字, 次葉西門字, 次葉西胷字, 疊翩字, 次葉西無號庵聾庵岐川少虛 遊卞園飛字, 述不佞病寓卞園疊飛字, 述諸老春游園中疊飛字, 謝諸公憶不佞疊飛字, 聾庵駁卞園葉西解之吾從葉西次隈字, 次西社家字), 次九老稧帖詩韻, 次樊相韻寄李僉樞世延, 次禹錫歸峽書舍韻錄寄, 其二, 秋日訪龍兮山居賦贈, 次寄趙汝晦, 其二, 次寄五沙公會追賦卞園詩韻, 曉枕聽雨, 次題尹博士丁卯斥和疏詩韻, 題松潭李徵士遺事後, 携諸君泛蟾湖, 其二, 其三, 夜枕睡覺有詩, 贈孫斯文-甲東, 臘日, 立春, 己未元日, 余自正月七日遘輪疾彌數朔此下詩蓋多病中作也聞美閤別世報賦寄關東伯彝仲, 堯從病沒而傍人諱不以聞近始知與其胤上舍若履相繼淪逝於四日之內不勝慟悼有述, 其二, 堯叟之柩將入地行過前村望之一慟, 其二, 樊巖相國輓, 其二, 其三, 趙友汝晦輓, 族叔-志元-善長輓, 其二, 其三, 李江陵-景溟-輓, 其二, 其三, 申戚同敦寧匡堯輓, 其二, 病稍愈識-喜, 聞彝仲巡行入楓嶽賦寄, 送人兒上京, 莊獻世子遷園輓-代人作, 乘小車到園中, 泛西江, 其二, 病後雜詠, 其二, 悶旱, 東伯被臺言罷歸賦寄, 賀權生安仲慈闈晬席, 金斯文-以健-輓, 李校理-福潤-輓, 秋日與龍兮共賦, 贈沈秀才-啓錫, 伏次御製敬奉閣詩韻, 若衡率其妹李妻乘舟上京曉枕述悵懷, 深更, 龍兮夜枉共賦, 夜枕, 和寄申陽智執玉壽春謫中, 其二, 臘月十三夜夢堯叟, 書惠婦新屏, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 除夜, 庚申元日, 立春戲語, 十五夜共龍兮賦, 二月二日我王世子冊禮也臣病不克進參詩用志慶, 佐賢自賀班歸歷枉共賦, 洪判尹-周萬-輓, 權承旨-坪-輓, 玉汝族叔喪車將發, 寒食, 紅桃, 花窖詞(一解, 二解, 三解), 春興, 幽獨, 新鷰, 寄題尹生-翰相-幽居, 獨立, 美庸至共賦, 又爲西湖泛舟之遊, 積雨, 新秋書懷, 伏聞六月二十八日聖上昇遐慟哭述哀, 正宗大王輓章, 其二, 其三, 其四, 其五, 其六, 其七, 其八, 其九, 其十, 國葬日泣題, 冬至之前日國葬日也, 海老, 與季淵分韻共賦, 其二, 夜坐書感, 與龍兮共賦, 山夜, 其二, 李判書鼎運公會輓, 其二, 立春, 和士元, 其二, 除夕雜言, 辛酉元日, 將發昌平行寄贈歸洞老人, 發向昌平, 安竹道中, 過南坡洪先生書院, 天安倅李戚-承默-出迎洪令-若浩-李鎭安-趾亨-亦會, 踰車嶺, 錦江, 其二, 井泉店, 戲爲昌州問答(一解, 二解, 三解), 恩津, 過全營, 抵郡占衙後靜室頗愜, 天涯, 客夜, 肩輿入魚泳洞臺沼花木可玩蓋羅氏莊云, 羈愁, 戲賦, 贈潭上人, 送李姪基榮還忠州, 春盡感賦, 鄉夢, 竹田, 冬柏, 即事, 小池, 書感, 兒輩誦遊玉泉庵詩次其韻, 贈閑上人春潭師弟子也, 題白巖金公遺詩後, 強疾次寄士元, 其二, 其三, 其四, 寄龍兮, 送別韓斯文-性謙, 醉中口號贈權掌令-之彦-邦兮求和, 其二, 次權令邦兮新資耆會軸中韻.

卷十七
辭湖堂疏-癸巳 (1)
1773. 60여 년 만에 다시 시행된 讀書堂제도에 賜暇讀書 인원으로 자신이 선발되었을 때 올린 상소문이다. 50이 넘은 자신의 나이, 학식과 능력의 부족 등을 이유로 이를 사양하는 내용이다.
辭兵曹參議疏-癸巳 (2)
1773. 兵曹參議에 임명되었을 때 자신에게 내려진 직명을 거두어 줄 것을 간청하는 상소문이다. 연로한 부모 특히 병든 노모의 봉양을 이유로 들고 있다.
辭同副承旨疏 (3)
1773. 同副承旨에 임명되었을 때 자신에게 내려진 직명을 거두어 줄 것을 간청하는 내용의 상소문이다. 나이 80에 가까운 연로한 부모의 봉양 특히 중풍을 앓고 있는 노모의 봉양을 이유로 들고 있다.
辭大司諫兼陳所懷疏-辛丑 (4)
1781. 90세에 가까운 나이와 신병으로 운신이 어려운 아버지의 봉양을 이유로 자신에게 내려진 大司諫의 직임을 환수해 줄 것을 간청하면서 임금의 덕성을 함양하고 안정된 정치를 시행하기 위해 필요하다고 생각되는 사항 5조목을 진술하는 내용의 상소문이다. 5조목은 다음과 같다. 1)은혜로운 정책을 시행하여 백성들을 보호할 것. 2)도량을 넓혀 신하들이 직언을 할 수 있는 환경을 만들어 줄 것. 3)皇極을 굳건히 하여 黨習을 제거할 것. 4)조정의 기강을 진작시켜 퇴폐한 습속을 몰아낼 것. 5)經筵에 성실히 임하여 학문적 소양을 쌓을 것.
辭大司諫疏-戊申 (13)
1788. 大司諫에 임명되었을 때 1781년 豐川府使 재임 시절의 잘못된 업무 처리 등을 이유로 자신에게 내려진 관작을 삭탈하고 처벌할 것을 요청하는 내용의 상소문이다.
辭大司成疏-戊申 (14)
1788. 大司成에 임명되었을 때 학식과 능력 부족을 이유로 체직시켜 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다.
辭吏曹參議疏-己酉 (15)
1789. 吏曹參議에 임명되었을 때 자격 부족을 이유로 자신에게 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다.
再疏 (16)
1789. 吏曹參議에 임명되어 사은숙배를 위해 상경하던 중 말에서 떨어져 왼쪽 다리에 부상을 입어 움직일 수 없게 되었을 때 자신의 상황을 진술하면서 자신을 해임시키고 다른 사람을 대신 임명해 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다.
辭大司成疏 (17)
1789. 말에서 떨어져 왼쪽 다리에 부상을 입고 집으로 돌아와 몸조리를 하는 중에 大司成에 임명되는 조서를 받고 올린 상소문이다. 지팡이에 의지해 겨우 움직일 수 있는 자신의 몸 상태를 진술하며 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하고 있는 내용이다.
辭吏曹參議疏 (17)
1789. 吏曹參議에 임명되었을 때 자신에게 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 낙마로 인한 부상이 완치되지 않았고 寒氣의 侵襲으로 천식이 악화되는 등의 건강상의 문제를 이유로 들고 있다.
辭吏曹參議疏-庚戌 (18)
1790. 다시 吏曹參議에 임명한다는 교지를 받고 자신에게 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 이제 겨우 지팡이를 놓고 조금씩 움직일 수 있는 정도가 된 불편한 몸 상태를 이유로 들고 있다.
辭漢城右尹疏-辛亥 (19)
1791. 漢城右尹에 임명되었을 때 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 자질과 능력 부족, 다리의 부상이 완치되지 않은 점 등을 이유로 들고 있다.
辭大司憲疏-壬子 (21)
1792. 大司憲에 임명되었을 때 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 능력 부족, 宿患과 감기로 인해 악화된 천식 등 건강상의 문제를 이유로 들고 있다.
辭開城留守疏 (22)
1792. 開城留守에 임명되었을 때 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 능력 부족과 설사병 등 건강상의 문제를 이유로 들고 있다.
辭吏曹參判疏-癸丑 (22)
1793. 吏曹參判에 임명되었을 때 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 자질과 능력 부족을 이유로 들고 있다.
再疏 (24)
1793. 도승지 徐邁修가 尹致性의 擬望과 관련해서 자신의 의견과 배치된 결정에 불만을 갖고 정범조 휘하의 政吏를 감금하는 일이 발생하자 그 전말을 진술하며 자신이 맡고 있는 吏曹參判의 직위에서 물러날 수 있도록 해 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 정조의 이에 대한 비답이 함께 수록되어 있다.
辭漢城左尹疏 (24)
1793. 대사헌 李義行이 사직소를 올리면서 그 속에 자신에 대해 관직 후보자 추천[政望]이 공정하지 못하다고 비판을 하자 이에 대해 자신을 변호하기 위해 올린 상소문이다. 자신의 관직 후보자 추천 과정과 원칙을 진술하여 그 정당성을 변론한 뒤 물의를 일으킨 책임을 인정하며 관직에서 물러날 수 있도록 해 줄 것을 요청하는 내용이다.
辭吏曹參判疏 (26)
1793. 5년 전 말에서 떨어져 입었던 다리 부상이 완치되지 않고 있는 상황을 진술하며 자신에게 내려진 吏曹參判의 직위를 사양하고 있는 내용의 상소문이다.
辭吏曹參判疏 (27)
1793. 5년 전 말에서 떨어져 다리 부상을 입은 뒤 원기가 소진되고 근력이 약해져 온갖 병을 앓고 있고 특히 최근에 설사병으로 고생하고 있는 상황 등 건강상 이유를 들어 자신에게 내려진 吏曹參判의 직위를 사양하고 있는 내용의 상소문이다.
辭吏曹參判疏 (28)
1793. 다리 부상을 입은 뒤 원기가 소진되고 근력이 약해져 온갖 병을 앓고 있는 등 건강상 이유를 들어 자신에게 내려진 吏曹參判의 직위를 다시 한번 사양하고 있는 내용의 상소문이다.
辭吏曹參判疏 (29)
1793. 당상관 벼슬의 擬望과 관련하여 사간원・경연관의 수장들과의 의견 차이로 임금으로부터 지시받은 업무를 제대로 수행하지 못한 책임을 지고 辭吏曹參判의 직위에서 물러나게 해 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다.
辭吏曹參判疏-甲寅 (30)
1794. 吏曹參判의 직위에서 물러나게 해 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 능력 부족과 宿患의 악화 등 건강상의 문제를 이유로 들고 있다.
辭吏曹參判疏 (32)
1794. 吏曹參判에 제수되었을 때 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 이전에 吏曹參判로 재직할 때 인사 추천이 불공정하다는 이유로 지적받았던 자신에 대한 사람들의 평가, 노령의 나이로 기력이 쇠약해진 점, 宿患의 악화 등 건강상 문제를 이유로 들고 있다.
辭吏曹參判疏 (34)
1794. 다시 吏曹參判에 제수되었을 때 내려진 관직을 거두어 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 吏曹判書 金載瓚과의 불편한 관계를 진술하며 그와 함께 보조를 맞추어 업무를 볼 수 없다는 점을 吏曹參判의 직책 사양의 이유로 들고 있다.
辭活人署提調疏-丙辰 (35)
1796. 병을 치료하기 위해 고향으로 내려와 있어 직무를 보지 못하고 있는 자신의 상황을 진술하며 자신이 맡고 있는 活人署提調의 직위에서 해임시켜 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다.
辭弘文提學疏-己未 (36)
1799. 弘文提學疏에 임명되었을 때 이를 사양하는 내용의 상소문이다. 노령의 나이와 건강상의 문제 특히 말에서 떨어져 입었던 다리 부상의 후유증 등을 관직 사양의 이유로 들고 있다.
辭知春秋疏-甲寅 (37)
1794. 새롭게 자신에게 내려진 資級을 환수하고 겸직으로 제수된 知春秋館事의 자리에서도 물러날 수 있도록 해 줄 것을 요청하는 내용의 상소문이다. 혼자서 거동할 수 없을 정도로 악화된 다리 부상의 후유증과 눈병 등의 질환을 관직 사양의 이유로 들고 있다.
辭弘文館提學兼觀象監提調疏 (38)
1800. 弘文館提學과 함께 겸직으로 觀象監提調에 임명되었을 때 이를 사양하는 내용의 상소문이다. 老患을 관직 사양의 이유로 들고 있다.

卷十八
與族弟器伯書 (1)
族弟 丁載遠(1730∼1792)에게 보낸 편지이다. 부탁받은 先祖의 묘지명을 편술해서 정재원에게 보내면서 그가 보낸 「子孫錄」과 자신이 편술한 묘지명에 대한 자신의 의견을 개진하고 있는 내용의 편지글이다.
奉寄樊台書 (1)
蔡濟恭(1720∼1799)에게 보낸 편지이다. 채제공이 머물고 있는 樊洞 일대와 九月山의 山水를 품평하는 내용이다. 樊洞과 九月山의 산수를 읊은 장편의 詩를 지어 보낸다는 내용이 보인다.
答東萊伯尹彝仲書 (3)
尹弼秉(1730∼1810)의 편지를 받고 쓴 답장으로 눈병으로 고생하고 있는 등 자신의 근황을 전하고 있는 내용이다. 두 편의 시를 보내며 화답해 줄 것을 기대하고 있다.
答柳高城-範休-書 (3)
柳範休(1744∼1823)의 편지를 받고 쓴 답장으로 류범휴가 상의해 온 墓碣文의 改撰 문제에 대해 자신의 의견을 피력하고 있는 내용이다.
答李台甫-承延-書 (5)
李承延의 편지에 대한 답장으로 자신이 지어 보낸 墓碣文에 대한 이승연의 수정 의견을 검토 한 뒤 이에 대해 자신의 의견을 피력하고 있는 내용이다.
答申陽智執玉書 (5)
친구 申光洙(1712∼1775)의 문집 序文을 부탁해 온 신광수의 아들 申夔相에게 보낸 답장이다. 문집의 서문과 함께 「驪江錄」의 서문, 신기상이 보내 온 두 편의 시에 대한 화답시 등을 보내고 있다.
寄鄭士述書 (7)
鄭弘祖에게 보낸 편지이다. 속리산을 유람하고 돌아온 뒤 그의 풍모와 기상은 물론 詩風이 이전과 확연히 달라진 것을 보고 名勝 유람을 통해 기상과 풍모를 변화시켰을 뿐 아니라 내면의 세계에까지 이를 승화시켜 詩作으로 표현해 낸 정홍조의 체득의 능력을 칭송하면서 속리산 유람 뒤 변화된 기상과 풍모를 반영할 자신의 작품을 기대해 줄 것을 부탁하고 있는 내용이다.
答南國老-耇-書 (8)
문장의 기교와 화려함을 추구하는 길로만 치달리지 말라는 등의 조언를 담은 南耇의 편지를 받고 이에 대한 자신의 의견을 피력하고 있는 내용의 답장이다.
與申德能-奭相-書 (10)
申光洙의 아들 申奭相에게 독서의 필요성과 중요성을 강조하면서 그를 권면하는 내용의 편지글이다.
寄石北書 (11)
1770. 黃山道 察訪에서 체직되어 고향에 돌아와 있을 때 친구 申光洙에게 보낸 편지이다. 신광수의 안부를 묻고 자신의 근황을 전하는 등의 일상적인 내용이다. 海雲臺 등을 유람하면서 지었던 詩 100여 편을 보내며 품평해 줄 것을 부탁하고 있다.
寄睦幼選書 (13)
1769. 黃山道 察訪으로 있을 때 睦萬中(1727∼1810)에게 보낸 편지이다. 자신이 黃山道로 부임할 때 받은 지인들의 전별의 글들을 묶어 첩으로 만들면서 그 속에 목만중의 글이 없는 것을 아쉬워하면서 그에게 첩 속에 함께 묶을 글을 부탁하고 있다.
答樊台書 (14)
1784. 樊溪의 특성을 고요함[靜]과 청량함[凉]으로 규정하고 三湖의 특성을 시끌벅적함[閙]와 후덥지근함[熱]으로 규정하며 두 지역의 優劣을 논한 蔡濟恭에 편지글에 대해 반론을 피력하고 있는 내용의 편지글이다. 채제공이 樊溪와 三湖의 특성을 규정할 때 그 지역이 갖고 있는 자체의 성격이 아닌 외부적 요인에 근거한 점, 최제공 자신의 개인적 상황과 경험에 근거하여 객관적인 시각을 유지하지 못한 점 등에 입각하여 반론을 제기하고 이런 공정하지 못한 시각이 山水를 평가하는 데 머물지 않고 인물과 시비의 판단에도 적용될 수 있음을 경계하면서 睦萬中과 李鼎運(1743∼1801)의 언사를 객관적인 시각에서 판단할 것을 조언하고 있는 내용이다.
寄兪令秀五書 (17)
1784. 兪恒柱에게 보낸 편지이다. 참소를 받아 낙향한 蔡濟恭에게 등을 돌린 蔡弘履(1737∼1806)에 대한 대응 문제에 있어 兪恒柱이 피력한 과격한 주장의 잘못된 점을 지적하고 있는 내용이다.
答宗人書 (18)
長興의 宗人들로부터 始祖 丁德盛의 碑記를 부탁받고 이를 편술하여 보낸 뒤 始祖 丁德盛의 호칭과 관련해서 종인들이 수정을 요청하자 이에 대한 자신의 의견을 피력해서 보낸 편지글이다. 碑의 記文에 丁德盛을 칭할 때 ‘政丞丁公’이라고만 쓰고 ‘大陽君’이라고 쓰지 않은 이유를 설명하고 있다.

卷十九
萬進堂遺稿序 (1)
郭瀏(1597∼1671)가 남긴 遺稿를 보고 쓴 서문이다. 그의 증손 郭禎垕의 부탁을 받고 썼다. 중국 明나라의 멸망 이후 명나라 황제에 대한 節義를 지킨 郭瀏의 고결한 義理를 칭송하고 있다.
棠溪遺稿序 (2)
1786. 친우 金光遇(1708∼1781)의 문집인 『棠溪遺稿』에 붙인 서문이다. 그의 아들 金命亨의 부탁을 받고 썼다. 申光洙와 더불어 돈독했던 김광우와의 사귐, 술을 좋아하고 친우들과 시를 주고받는 것을 즐겼던 그의 성품, 古今의 詩에 두루 박학하고 이를 바탕으로 자신만의 풍격을 만들어낸 그의 시풍 등을 소개하고 있다.
洪侍郞君擇燕行錄序 (4)
洪秀輔(1723∼1800)가 청나라에 사신으로 다녀오는 여정에 지은 詩를 모은 紀行詩集에 붙인 서문이다. 전반부에는 만주족인 청나라의 중국 지배를 시대의 흐름으로 인정하여 받아들이는 정범조의 華夷觀이 피력되고 있고 후반부에는 청나라 황제가 베푼 연회에서 막힘없이 시를 지어 황제로부터 칭찬과 함께 많은 선물을 받는 등으로 文名을 떨친 홍수보의 활약을 소개하고 연회에서 지은 작품을 기행시집에 포함시키지 않은 것을 애석해 하고 있다.
文粹歷選序 (6)
정범조 자신이 三代에서 漢나라에 이르는 시기에 지어진 글들 중 뛰어난 문장 110편을 뽑아 묶은 책인 『文粹歷選』에 붙인 서문이다. 文章의 盛衰는 시대의 성쇠를 반영한다는 자신의 문학관을 드러내고 있다.
虞山文抄序 (7)
정범조 자신이 중국 명나라 말기의 문인 錢謙益(1582∼1664)의 글을 모아 역은 책인 『虞山文抄』에 붙인 서문이다. 중국 명나라 때의 시인 李夢陽(1472∼1529)과 王世貞(1526∼1590)의 문풍에 대해 그들이 좌구명과 사마천・반고의 문장을 모방하는데 지나치게 치중한 점을 비판하며 모방은 문장이 아니라고 주장한 전겸익의 시각을 고문의 형식을 본받는 것이 필요하며 중요하다는 논점에서 반박하고 새로운 형식에 몰두하고 기교에 지나치게 치우친 그의 문장 기풍을 비판하면서도 조리가 정연하고 특히 ‘比物連類’과 ‘指事陳情’의 측면에서 뛰어난 역량을 보인 그의 문학적 재능을 인정하여 그를 명나라 말기의 대가 중 한사람이라고 인정하고 있는 점이 눈에 띈다.
丁氏家譜序 (8)
寧越에 거주하는 丁載遇의 부탁을 받고 쓴 家譜의 서문이다. 丁載遇가 영월로 이주한 자신의 13대조 이후 그곳에 거주하는 丁氏의 가계를 정리하여 家譜를 만든 뒤 동생 丁載選을 보내 정범조에게 서문을 부탁한 것이다.
醉軒遺稿序 (10)
己丑獄事 때 은거한 金益成의 문집인 『醉軒遺稿』의 서문이다. 金益成의 5世孫 金吉羽의 부탁을 받고 썼다. 金益成을 중국 後漢 때 黨錮의 화를 피해 은거했던 夏馥에 비기며 그의 밝은 지혜를 칭송하고 있다.
宋金元詩永抄序 (11)
청나라 사람 吳綺가 宋・元・金나라 사람들이 지은 좋은 詩를 가려서 뽑아놓은 抄錄을 정범조가 검토한 뒤 그 중에서 다시 절반을 가려 뽑아 그 정수만을 묶어 엮은 책인 『宋金元詩永抄』에 붙인 서문이다. 시의 정형화된 형식[榘度]은 시대의 추이 따라 변화할 수밖에 없는 것이며 사물에 감응하는 마음의 오묘한 작용[機神]은 언제나 새롭게 다가오는 사물의 모습[物態]에 따라 달라질 수밖에 없는 것이라는 견해를 피력하며 唐나라 이후의 시 작품들의 가치를 인정하는 내용이다.
羅氏八孝子實記序 (12)
羅安世(1475∼1527)의 8세손 羅漢明이 孝行으로 이름난 羅安世를 비롯한 3세대 여덟 분의 선조들의 사적을 기록한 「羅氏八孝子實記」를 편술하여 정범조에게 보이면서 부탁한 實記의 서문이다. 한 집안에 3대에 걸쳐 8명의 효자를 배출한 경우는 고금에 전례가 없는 대단한 일이라고 칭송하며 그 후손들이 선조의 이런 모범을 잘 이어받아 갈 것을 권고하고 있다.
中樞李公實記序 (13)
일본・유구 등을 13차례나 왕래하면서 잡혀간 우리나라 사람들을 본국으로 송환하고 이종무를 도와 대마도의 왜적을 소탕하는 등의 공을 세운 초선 초기의 무신 李藝(1373∼1445)의 사적을 기록한 「鶴坡先生實記」에 붙인 서문이다. 實記를 찬술한 李藝의 12세손 李覲吳의 부탁을 받고 썼다.
贈李子木序 (14)
德山(충청남도 예산)으로 돌아가는 친구 李森煥(1729∼1813)을 보내면서 쓴 送序이다. 孟郊를 배웅하는 韓愈(768∼824)의 심정으로 학식과 수완을 두루 갖춘 이삼환과 같은 훌륭한 인물이 재능을 써보지 못한 채 시골에 묻혀 잊혀져가는 것에 대해 진한 아쉬움을 드러내고 있다.
沖虛上人遺集序 (16)
승려 沖虛의 문집인 『沖虛上人遺集』의 서문이다. 친구 李承延의 소개 편지와 함께 스승의 유고를 가지고 찾아온 沖虛의 제자 普閑의 부탁을 받고 썼다. 명가의 후손인 沖虛가 불가에 들 수밖에 없었던 사연을 안타까워하면서 출가 이후 고결한 戒行과 宗風의 선양 등으로 후인들의 흠모를 받았고 후진들을 계도하고 이끌었던 그의 행적이 儒家 윤리를 벗어나지 않았던 점을 칭송하고 자신이 이 서문을 쓰게 된 직접적인 동기를 沖虛이 자신이 基木郡에 있을 때 교유하던 括虛上人과 師承을 같이 하고 있고 그의 글이 括虛의 글과 같은 기품을 갖추고 있다는 점, 李承延의 소개장을 외면할 수 없었던 점 때문이라고 밝히고 있다.
活山遺集序 (17)
1793. 南龍萬(1709∼1784)의 문집인 『活山遺集』의 서문이다. 그의 아들 南景羲,(1748∼1812)의 부탁을 받고 썼다. 嶺南의 인물들을 경시하는 당시의 풍조를 언급하며 南龍萬과 같은 인물들의 志向과 학술, 문장 등이 사람들에게 제대로 알려지지 않는 있는 것을 그 원인으로 지적하며 안타까움을 표하고 있다.

卷二十
泛齋遺稿序 (1)
尹愇(1725∼?)이 남긴 200여 편의 시를 묶은 시문집인 『泛齋遺稿』의 서문이다. 尹愇의 아들 尹持範(1752∼1821)의 부탁을 받고 썼다. 그가 남긴 시에 드러난 그의 학식과 문장을 높이 평가하며 자신과 비슷한 연배임에도 서로 교유할 기회를 갖지 못했고 또 그가 요절로 뜻을 펼치지 못한 것을 안타까워하고 있다.
龍潭遺集序 (2)
임진왜란 때 안동 지역에서 의병을 일으켜 활약한 任屹(1557∼1620)의 문집인 『龍潭遺集』의 서문이다. 任屹의 후손 任象斗의 부탁을 받고 썼다. 이황의 제자인 朴承任(1517∼1586)과 趙穆(1524∼1606), 鄭逑(1543∼1620)의 문하에서 수학했던 그의 학문 연원 등을 소개하고 그의 忠義를 기리고 있다.
兀山遺稿序 (3)
정범조가 평소 존경하고 따르던 趙周奎의 시와 글을 묶은 문집인 『兀山遺稿』에 붙인 서문이다. 유달리 궁벽했던 삶 속에서 이루어냈던 그의 시와 글을 통해 그가 도달했던 학문과 정신 세계의 단면을 기술하며 칭송하고 있다.
醉石遺稿序 (4)
醉石 崔某의 유고를 엮은 『醉石遺稿』의 서문이다. 최모의 5세손 崔海容의 부탁을 받고 썼다. 집안의 3형제들이 모두 세상에 이름을 떨치고 있는 상황에서 스스로 자신을 드러내려는 욕심을 접고 자연 속에서 일생을 마친 것은 賢人이 아니라면 할 수 없는 일이라고 최모의 고결한 의지를 칭송하며 三代와 唐代의 격식을 갖추었음은 물론 宋詩의 기풍도 잃지 않은 채 맑고 담박한 기운을 담고 있는 그의 詩風을 높이 평가하고 있다.
石門遺稿序 (5)
石門 柳某의 문집인 『石門遺稿』의 서문이다. 柳某의 아들 柳光儒의 부탁을 받고 썼다. 박학하고 고문을 좋아했으며 특히 書法에 뛰어났던 柳某가 관직에 나가지 못하고 포의로 세상을 떠났던 점을 애석해 여기면서 그가 남긴 시를 높이 평가하고 있다.
疑禮類說序 (6)
禮說 중 고래로 異說이 많은 부분에 대해 의심나는 부분을 예를 들어가며 설명한 申近(1694∼1764)의 『疑禮類說』에 붙인 서문이다. 신근의 아들 申達淵의 부탁을 받고 썼다. 『疑禮類說』의 전체 체제와 구성 등을 서술하고 있다.
下枝集序 (7)
李惟樟(1625∼1710)의 손자 李象辰(1710∼1772)의 시문집인 『下枝集』의 서문이다. 이상진의 동생 李弘辰의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 이유장과 자신의 고조부 丁時翰의 친밀한 교유 관계를 인연으로 이유장의 묘지명과 문집 서문을 자신이 썼던 이상진의 집안과의 관계를 서술하며 서로 살고 있는 곳이 멀어 한번도 그를 직접 만나지 못했던 것을 아쉬워하는 내용이고 후반부는 이상진이 남긴 시문을 높이 평가하며 그가 남긴 시문이 李惟樟의 문집과 함께 세상에 남겨져 길이 빛나게 될 것이라고 칭송하고 있다.
文兆三選序 (8)
정범조 자신이 宋・元・明 시대의 문장 성쇠의 조짐을 보여주는 인물들의 작품을 선정하여 묶은 책인 『文兆三選』에 붙인 서문이다. 문장의 성쇠에는 성쇠의 조짐이 있고 이 조짐을 만드는 것은 시대의 흐름이라는 자신의 문장관을 피력하면서 문장은 시대의 흐름을 반영한 것이 때문에 시대의 흐름에 따라 나름대로의 성쇠의 길을 걷게 되고 이런 견지에서 본다면 元대의 문장에 대해 전혀 취할 바가 없다는 생각은 잘못된 것이라고 주장하고 있다.
震澤申文初六十六歲壽序 (10)
66세가 되는 친구 申光河(1729∼1796)의 장수를 축하하는 글이다. 山水를 좋아하고 명리와 이해에 초연한 그의 사람됨에서 신광하의 장수의 비결을 찾고 있다.
夏雪遺集序 (11)
洪光國의 문집인 『夏雪遺集』의 서문이다. 홍광국의 손자 洪集休의 부탁을 받고 유고를 산정하여 문집을 편집한 뒤 붙인 글이다. 전반부에는 홍광국이 자신의 증조모의 從父孫이라는 그와의 관계를 밝히고 처음에는 당나라 때의 시인 王維(701∼761)와 孟浩(689∼740)의 시풍을 따랐고 중기에는 역시 당나라의 시인 白居易의 시풍을 닮으려고 했으며 만년에는 송나라의 시인 陸游(1125∼1210)의 시풍을 참조했던 洪光國의 시작의 역정과 그 속에서 추구했던 홍광국의 詩 세계를 설명하고 있고 후반부에는 젊어서 출사하여 촉망받다 얼마 뒤 세사에 얽혀 40여 년을 초야에서 궁벽하게 지내는 동안에도 그의 詩에는 세상을 원망하는 내용이 없었고 그 뒤 현달하였을 때에도 기뻐하거나 뽐내는 내용이 없었던 점을 들어 그의 한결같은 성정과 인품을 칭찬하고 있다.
逍遙大師詩集序 (12)
1795. 西山大師의 제자인 逍遙 太能(1562∼1649)이 남긴 시 204편을 묶은 『逍遙大師詩集』의 서문이다. 逍遙大師의 6세 法孫으로 潭陽의 玉泉菴에서 온 顗上人의 부탁을 받고 썼다.
竹亭遺事序 (14)
1795. 年譜・言行錄 등 張潛(1497∼1552)에 관련된 기록과 그의 시 10편 등으로 편집된 『竹亭遺事』의 서문이다. 장잠의 8世孫인 張敬穆의 부탁을 받고 썼다. 문집의 구성, 조광조의 문하에서 배우고 이언적과 학문을 토론하는 등 그의 학문 연원, 張顯光(1554-1637)의 그에 대한 평가 등을 기록하고 있다.
都事李公遺集序 (15)
錦山君 李成胤(1570∼1618)의 손자 都事 李某가 남긴 詩를 묶은 『都事李公遺集』의 서문이다. 그의 증손자 李挺一의 부탁을 받고 썼다. 광해군 때 李爾瞻 등이 폐모론을 주창했을 때 반대 상소를 올렸다가 남해에 유배되어 그곳에서 생을 마친 할아버지 이성윤의 불행과 32세의 젊은 나이에 山南의 근무지에서 병으로 죽은 그 손자 이모의 불행이 서로 닮았음을 애석해 하며 이모가 남긴 시를 평가하고 있다.
素齋遺集序 (15)
素齋 柳某의 시문을 묶은 『素齋遺集』의 서문이다. 8세손 柳子三의 부탁을 받고 썼다. 55편의 시와 31편의 글, 부록, 손자 睡庵 柳某의 遺稿 등으로 이루어진 문집의 개략적인 구성과 내용 등을 소개하고 있다.
石北遺集序 (16)
1798. 親友 申光洙(1712∼1775)의 문집인 『石北集』의 서문이다. 서로의 시집에 서문을 써주기로 했던 생전의 약속, 신광수의 뛰어난 자질에 대한 찬탄, 신광수의 시풍에 대한 전체적인 소개와 함께 그의 시 중 「驪江錄」, 「北山」이 가장 뛰어나다는 평가 등으로 이루어져 있다.
艮翁集序 (18)
1797. 친우 李獻慶(1719∼1791)의 문집인 『艮翁集』의 서문이다. 죽기 1년 전 이헌경이 스스로 정리한 7권의 시문을 자신에게 보여주며 평가를 부탁했던 일, 1795년 영남에서 그의 서자 李廷秊이 문집을 간행할 때 자신에게 문집의 서문을 부탁했던 일, 이헌경의 官歷과 行歷에 대한 간략한 소개, 그의 학문과 시풍 등에 대한 평가 등을 기술하고 있다.
天一齋集序 (20)
洪重鉉(1660∼1726)의 문집인 『天一齋集』의 서문이다. 홍중현의 아들 洪寅輔의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 때를 만났을 때나 뜻이 꺾였을 때나 한결 같았던 그의 행실 및 당대의 거장으로 불렸던 그의 문장에 대한 전체적인 평가, 묘지명을 쓴 인연으로 문집의 서문도 쓰게 되었다는 저술 동기 등을 서술하고 있고 후반부에는 문집의 구성을 약술하고 문집에 실린 시와 문에 대해서 평가하면서 忼慨한 기상의 구현이라는 점에서 그의 문와 시를 다시 한번 조망하고 있다.
菊菴遺集序 (21)
菊菴 李某의 문집인 『菊菴遺集』의 서문이다. 이모의 아들 李基祖의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 詩는 작자의 처지의 변화에 따라 그 음조와 내용이 변한다는 논지에서 젊어서 등과하여 촉망받던 처지에서 세사에 얽혀 벽지인 진도로 유배되어 일생을 마친 이모의 삶에 비추어 그의 시의 변화를 서술하고 있고 후반부는 그가 죽은 지 20여 년 뒤 신원되고 그의 아들이 유고를 정리하여 문집 간행을 준비하면서 자신에게 서문을 부탁했다는 이 글의 저술 동기와 관련된 내용 등을 서술하고 있다.
好年九老稧帖序 (23)
1735년 을묘생 동년 9인의 모임인 好年九老稧의 稧帖에 붙인 서문이다. 자신의 仲兄이 이 모임에 참여하고 있는 沈達漢(1740∼?)의 부탁을 받고 썼다.
大東韻玉序 (24)
1798. 權文海(1534∼1591)가 쓴 백과사전인 『大東韻府群玉』에 붙인 서문이다. 『大東韻府群玉』을 중국 元나라 때 陰時夫가 편술한 『增續會通韻府羣玉』에 비기며 『大東韻府群玉』의 가치를 높이 평가하고 있다. 權文海의 7세손 權進洛의 부탁을 받고 썼다.
霽山集序 (25)
스승 李玄逸(1627∼1704)의 伸寃을 주장하는 疏를 올렸다가 제주에 유배되었고 광양으로 옮겨져 배소에서 죽은 金聖鐸(1684∼1747)의 문집인 『霽山集』의 서문이다. 김성탁의 손자 金始全의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 김성탁이 스승의 신원을 주장하는 상소를 올렸다가 유배되어 죽은 뒤 그의 손자 김시전의 신원 상소를 통해 복관되는 과정과 함께 이 글의 저술 동기를 서술하고 있고 후반부는 수신, 일, 글의 세 가지 관점에서 김성탁의 삶을 평가하고 있다.
九思堂集序 (27)
金聖鐸의 아들 金樂行(1708∼1766)의 문집인 『九思堂集』의 서문이다. 김낙행의 아들 金始全의 부탁을 받고 썼다. 아버지가 유배되어 배소에 죽기까지 10여 년간 그가 보여 준 지극한 효성, 李栽(1657∼1730)의 문하로 들어가 『近思錄』․『心經』 등을 수학한 학문 연원, 諸子書에서부터 六經, 宋儒의 저술에 대한 조예를 기반으로 性命・道德・倫常・典禮를 벗어나지 않았던 그의 글과 典雅하면서도 淸圓하여 濂洛의 정신을 구현하였고 올바른 성정에 기반하여 도도한 맛을 드러냈던 그의 시에 대한 평가, 김성탁이 신원되었을 때 임금이 내린 교지의 내용 등을 서술하고 있다.
樂翁詩稿序 (28)
정범조가 어려서부터 따르며 詩로 수창하고 교유했던 鄭弘祖의 詩를 묶은 시집인 『樂翁詩稿』의 서문이다. 정홍조의 從姪 鄭濬의 부탁을 받고 썼다. 어려서부터 함께하며 보아왔던 정홍조의 시에 대한 자신의 느낌, 정홍조의 외모와 성정, 古詩를 지향하며 수식하지 않는 진솔함과 소박함 속에서도 고고하고 담백함을 지닌 채 일가를 이루었으며 산수를 읊는데 특히 뛰어났다는 그의 시풍에 대한 평가, 많은 사람들의 흠모를 받았지만 그의 시를 정말 좋아했고 이해했던 인물로는 李直心과 신광수 정도만이 있었을 뿐이었다는 당대의 그의 시에 대한 반응, 그가 죽은 뒤 거의 절반이나 유실된 채 남아 있던 그의 시를 從弟 鄭士宗이 수습하여 한 권에 실었다는 시집 편집의 경위 등을 기술하고 있다.
林下集序 (30)
蓮潭 有一(1720∼1799)의 詩와 文을 묶은 『林下集』을 보고 쓴 서문이다. 유일이 제자 絢上人을 정범조에게 보내 詩文을 보이고 서문을 부탁한 것이다.
平山申氏族譜序 (31)
새롭게 간행된 외가인 平山 申氏의 족보에 붙인 서문이다. 兵燹으로 宗譜가 소실된 뒤 새롭게 만들어졌던 병자년의 족보에 壯節公 신숭겸의 16세손 掌令公 형제의 차서가 뒤바뀐 부분이 있었던 점 때문에 후손들 사이에 분란이 있었던 사실을 지적하며 형제의 차서를 바로 잡은 임오년에 편찬된 족보가 昭/穆과 本孫/支孫의 기준임을 주장하고 있다.
大司成柳公遺集序 (32)
柳崇祖(1452∼1512)의 문집인 『大司成柳公遺集』(『眞一齋遺集』)에 붙인 서문이다. 유숭조의 八世孫인 柳剡의 부탁을 받고 썼다. 연산군대의 강직한 直言 활동과 중종대에 聖學을 輔導한 사실을 칭송하며 유숭조의 평생 행적을 약술하고 있다. 유숭조의 주요 저술인 「大學十箴」과 「性理淵源撮要」에 대해 李滉의 理氣說과 합치되는 부분이 있다는 점을 강조하고 그가 경서를 언해한 사실에 대해서도 높이 평가하고 있다.
眞樂堂遺集序 (33)
1789. 金就成(1492∼1550)의 문집인 『眞樂堂遺集』에 붙인 서문이다. 善山에 은거하면서 조정의 부름에도 나아가지 않고 평생을 독서와 講學으로 보낸 김취성을 賢者라고 칭송하며 중국 後漢의 학자 黃憲에 비기고 있고 스승인 朴英(1471∼1540)‚ 동문인 朴雲(1493∼1562)과 후배인 鄭逑가 그를 평가한 글을 인용하고 있다.
久菴集序 (35)
金就成의 동생 金就文(1509∼1570)의 문집인 『久菴集』의 서문이다. 김취문의 현손 金夢華의 부탁을 받고 썼다. 道德, 論議, 出處의 세 가지 관점에서 김취문의 삶을 평가하고 있다.
靜養堂兩世遺稿序 (36)
靜養堂 李某와 그의 손자 聾隱公 李某의 詩文과 관련 글들을 함께 묶은 『靜養堂兩世遺稿』의 서문이다. 두 사람의 지극했던 효성에 관련된 異蹟을 소개하고 학문에 정진하며 후진을 양성했던 그들의 덕행을 칭송하고 있다.
星隱孫公遺集序 (37)
孫碩佐의 문집인 『星隱堂集』의 서문이다. 손석좌의 현손 孫甲東의 부탁을 받고 썼다. 世事에 물들지 않은 손석좌의 고결한 志行과 그 속에서 우러나온 그의 품격 있는 시문을 칭송하고 있다.
拙齋洪公遺集序 (38)
洪萬朝(1645∼1725)의 손자 拙齋 洪某의 시문집인 『拙齋洪公遺集』에 붙인 서문이다. 拙齋의 아들 士貞 洪某의 문집 교정과 서문 부탁을 받고 썼다. 할아버지 晩退 洪萬朝, 족조 彩峰 홍모, 族弟 雯州 홍모 등 文名을 날렸던 집안의 분위기 속에 훈습되어 느끼는 감정에 따라 시를 읊어 정체[雅]와 속체[俗]을 넘나들면서도 平澹하고 醇質하며 軌法을 잃지 않았다고 그의 시풍을 평가하고 있다.
耘谷集序 (39)
元天錫(1330∼?)의 시집인 『耘谷集』에 불인 서문이다. 시집 간행을 준비하던 원천석의 후손들의 부탁을 받고 썼다. 원천석이 정몽주나 길재보다 더 행하기 어려운 절의를 행했다며 그의 不事二姓의 충심을 매우 높이 평가하고 있다.
靜齋遺稿序 (40)
靜齋 崔某의 문집인 『靜齋遺稿』의 서문이다. 사마시에 합격한 뒤 蔭補로 8품의 관직에 추천되었지만 광해군 때의 어지러운 조정의 상황을 보고 관직에 나가지 않았고 인조반정 이후에도 종적을 감춘 채 일생을 마친 靜齋의 행적을 서술하며 그를 청렴하고 절조가 있으며 멀리 내다보는 식견을 갖춘 인물이라고 평가하고 시문을 논평하고 있다.
忠州崔氏族譜序 (41)
兵燹으로 소실된 뒤 새롭게 간행되는 忠州崔氏의 族譜에 붙인 서문이다.

卷二十一
南平文氏族譜序 (1)
南平 文氏의 족보에 붙인 서문이다. 家系가 시작되고 2000여년이 지나는 사이에 支派의 나눔이 많아지고 氏系가 각기 달라지는 등의 현상으로 宗族 사이에 소원함이 심해지는 상황을 걱정하여 문중 전체를 포괄하는 정리된 족보를 간행하려는 南處奎의 부탁을 받고 썼다.
密陽朴氏族譜序 (2)
密陽 朴氏의 족보에 붙인 서문이다. 中祖의 15세 이하의 자손들의 생졸연대, 관작, 배우자, 종손과 지손 등을 정리한 족보를 만들려는 朴榮俊의 부탁을 받고 썼다.
江左集序 (3)
權萬(1688∼1749)의 문집인 『江左集』의 서문이다. 문집을 간행하려는 권만의 증손 權信度의 부탁을 받고 썼다. 문집의 구성과 내용을 개략적으로 설명하고 권만의 학문과 시문을 평가하며 그를 修辭와 明理가 일치하는 인물이 문과 시 모든 면에서 당대의 거장이라고 평가하고 있다.
閨鑑序 (4)
부녀자들을 위한 교육서인 『閨鑑』에 붙인 서문이다. 친구 柳鳳之가 부녀자들의 훈육을 위해 經/傳/子/史에서 모범적인 부녀자들의 언행을 채록한 뒤 이를 諺文으로 풀이하여 엮은 『閨鑑』을 편찬한 뒤 정범조에게 부탁한 서문이다.
淩虛集序 (4)
朴敏(1566∼1630)의 문집인 『淩虛集』의 서문이다. 박민의 裔孫 朴旨端의 부탁을 받고 썼다. 鄭逑의 문인으로 장현광・김우옹 등과 학문을 토론했던 그의 사승, 광해군 때 과거를 포기하고 학문에만 열중하였으며 인조반정 뒤 진사가 되고 정묘호란 때 의병을 일으켰던 등의 그의 행적을 기록하고 문집에 수록된 그의 詩文을 평가하고 있다.
梅窓遺集序 (6)
錦山君 李成胤(1570∼1618)의 문집인 『梅窓遺集』에 붙인 서문이다. 이성윤의 후손 李挺一의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때 廟社의 神主를 실은 수레를 호송했다가 전쟁이 끝난 뒤 무사히 다시 모셔다 봉안한 일, 광해군 때 李爾瞻 등이 폐모론을 주창했을 때 반대 상소를 올렸다가 남해에 유배되어 배소에서 생을 마친 일 등의 행적을 서술하며 이성윤를 외척과 환관들의 전횡을 탄핵하다 옥고를 치른 중국 전한 때의 충신 劉向에 비기고 있다.
讀李君詩集序 (7)
친구 李某의 詩 수 백편을 모아 놓은 시집을 읽고 쓴 글이다. 7세 때 눈병을 앓아 시력을 잃은 불행을 딛고 학문을 연마하며 훌륭한 시를 지어낸 친구의 공부 과정을 소개하고 그의 총명한 재능과 영명한 성정을 칭송하며 詩作에 더욱 정진해 줄 것을 부탁하고 있다.
李氏殉難錄序 (9)
병자호란 시 강화도가 함락되었을 때 순절한 李聖求(1584∼1644)의 집안의 네 명의 부녀자와 큰아들 李尙揆의 행적을 기록한 「李氏殉難錄」의 서문이다. 이성구의 현손 李克誠(1721∼1779)의 부탁을 받고 썼다. 이성구의 부인 權氏, 큰며느리 具氏, 딸 李氏婦, 딸 韓氏婦는 정절을 지키기 위해 스스로 목을 매 자결하였고 아들 李尙揆는 적들의 무도함을 꾸짖다가 그들이 쏜 13대의 화살을 맞고 죽는 등 병자호란 때 이성구의 가솔들이 겪은 비극을 기록하고 그들을 추모하고 있다.
李君遺稿序 (10)
18세의 나이에 요절한 李光霽가 남긴 시와 글을 읽고 쓴 서문이다. 이광제가 남긴 시와 문을 높이 평가하면서 요절로 인해 더 높은 경지에 이르지 못한 점을 안타까워하고 있다.
送朴學士-師海-游雪嶽序 (11)
嶽雪山으로 유람을 떠나는 朴師海를 전송하며 써 준 증서와 덧붙인 송별시이다. 설악산이 지닌 動/靜의 성질에서 자신의 본체를 함양하고 작용을 체득할 수 있기를 바라고 있다.
寄劍城守睦幼選序 (13)
劍城의 수령으로 있는 睦萬中에게 보낸 증서의 글이다. 劍城 같은 작은 지역을 다스리면서 자신의 큰 학식과 능력을 펼치기에는 적절하지 않다고 생각하여 직무를 소홀히 하는 일이 없기를 바라고 있다.
贈申君德能序 (14)
과거시험에 실패한 한 뒤에도 의연히 평소 자신이 가졌던 학문을 향한 뜻을 견지해 나가고 있는 친구 申光洙의 아들 申奭相에게 준 글이다. 과거시험에 임하는 선비들의 등급을 셋으로 나누고 과거시험에서 실패하면 시험제도만을 탓하는 당시의 젊은이들의 행태를 비판하며 신석상의 의연한 자세에 대해 칭찬하며 그를 격려하고 있다.
狂奴子墓誌序 (15)
조선 단종 때의 충신 鄭苯(?∼1454)의 아들 狂奴子 鄭遠(1425∼?)의 墓誌를 읽고 쓴 글이다. 鄭苯의 9세손 鄭國彦의 부탁을 받고 썼다. 정분이 계유정란으로 유배되었다가 賜死된 뒤 그 자손들의 종적이 묘연해져서 나라 사람들이 이를 안타가워 해오다가 3백여 년 지난 뒤 발견된 誌石을 통해 정분이 죽은 뒤 아들 정원이 狂奴로 가장하여 이름도 光露로 바꾸고 종적을 감춘 뒤 일생을 불우하게 살다갔다는 사연이 밝혀지게 되었다는 내용, 영조 때에 이르러 정분의 관직이 회복되고 시호가 내려져 그의 명예가 회복되었다는 내용 등을 서술하고 있다.
御製賡進帖序 (16)
1766. 高陽의 先陵을 참배하고 돌아오는 길에 지은 영조의 詩와 이 시에 대한 신하들의 화답하는 시를 묶은 만든 시첩을 읽고 쓴 글이다. 정범조는 이때 병조좌랑으로 영조의 능행을 시종하면서 이 시첩을 받았다. 영조의 지극한 효성을 칭송하고 있다.
壽同樞洪公序 (17)
1767. 84세가 된 洪命源이 영조로부터 장수를 축하받으며 옷과 음식 등의 물품을 하사받자 그의 사위 權師彦의 집에서 아들 洪晟이 아버지의 84세 생일날 잔치를 열어 손님들을 대접했을 때 잔치에 초대받은 정범조가 쓴 축하의 글이다. 임금의 대우를 과분하게 여기는 홍명원에게 군주의 노인 공경의 의미를 설명하며 영조가 내린 예우를 사양하지 말 것을 권유하고 있다.
贈申清之序 (19)
벼슬길에 나가는 것을 포기하고 고향으로 돌아가는 申光洙의 동생 申光淵(1715∼1778)에게 준 글이다. 李直心이 신광수와 그 동생 신광연을 당대의 뛰어난 시인으로 평가하는 말을 듣고 그들을 만났던 과거의 기억을 회상하며 신광연이 곤궁한 처지에 있으면서도 세속에 얽매이지 않는 고고한 풍취를 잃지 않는 점이 이직심을 그대로 닮았다고 말하고 있다.
八原序 (20)
「八原」을 짓고 붙인 서문이다. 말[言]은 일[事]의 실제[實]를 담는 도구라고 말과 일의 관계를 설명하며 일에 공을 들이지 않고 말에 공을 들이는 것 자체가 말하는 사람에게는 불행스러운 일이라는 견지에서 자신이 「팔원」을 지은 것을 걱정하고 있다.
耽羅錄序 (20)
1764. 친구 申光洙가 義禁府都事로 죄인을 호송하는 일로 제주도에 나갔다가 폭풍을 만나 40여 일간 그곳에서 머물며 폭풍이 몰아치는 위태로운 상황 속에서도 평정을 유지하며 함께 갔던 동료 李瀷・朴壽喜와 서로 주고받은 詩를 모아놓은 『耽羅錄』에 붙인 서문이다. 이 『탐라록』은 ‘浮海錄’이라는 제목으로 알려져 사람들에게 널리 애송되었다. 「土風」, 「登城」 등 『탐라록』에 실린 詩는 당시 제주의 현실과 풍토에 대해 매우 사실적으로 묘사 하고 있다는 평가를 받고 있다.
送洪聖月遊楓岳序 (21)
금강산으로 유람을 떠나는 洪霽漢에게 써준 격려의 글이다. 금강산 산수의 유람을 통해 文辭에서의 증진뿐만 아니라 道에서도 보탬이 있어 仁과 智의 경지에 다가갈 수 있기를 홍제한에게 기대하고 있다.
送洪而憲游楓嶽序 (23)
洪霽漢 등과 함께 금강산으로 유람을 떠나는 洪翰輔에게 써준 송서이다. 중국 사람들이 소위 三神山 중 하나라고 칭하면서 가보고 싶어 했던 금강산을 태어나 살아가는 곳이 가까운 관계로 둘러볼 수 있는 것을 행운이라고 하면서 자신이 가보지 못한 금강산을 다녀오는 洪霽漢에게 산수의 유람을 통해 많은 것을 얻어와 그 성과를 함께 누릴 수 있게 되기를 기대하고 있다.
送蔡大夫伯規觀察北關序 (24)
함경도관찰사로 임명되어 임지로 떠나는 蔡濟恭에게 준 증서이다. 함경도 三水에 유배되었다가 사면되어 돌아오면서 극심한 흉년을 격고 있는 함경도 지역의 상황을 조정에 알려 조정의 신속한 조치를 촉구하였던 점이 인사에 반영되었다는 채재공이 함경도관찰사에 임명되게 된 경위를 서술하고 채재공에게 백성들을 구휼하고 안정시키는 방안에 대해 조언하고 있는 내용이다.
沙湖吳公遺集序 (26)
吳益昌(1557∼1635)의 遺事를 읽고 쓴 글이다. 아무런 관직도 갖고 있지 않았던 일개 백성의 몸으로 임진왜란 때 호남의 선비들을 규합하여 統制使 李舜臣을 도와 한산도대첩 등을 이루는 데 일조하였고 정묘호란 때에도 군량을 모집하여 강화도로 운송하는 등의 공을 세운 오익창의 나라를 위한 한결같은 충의를 높이 평가하는 내용이다.
驪江錄序 (27)
1773. 1761년 무렵 친구 申光洙가 驪州의 寧陵 참봉으로 있을 때 자신과 함께 여주의 여러 명승지를 노닐며 주고받았던 詩를 모아 엮은 신광수의 시집 「驪江錄」에 붙인 글이다. 10여 년이 지난 시점에서, 각자 관직 생활에 묶여 멀리 떨어져 있고 몸마저 늙어 더 이상 그때와 같은 좋은 만남을 가질 수 없게 된 상황을 안타까워하며 서로 뜻이 맞아 교유하며 뛰어난 시들을 주고받았던 당시의 풍성하고 즐거웠던 추억을 회상하고 있다.
龍淵詩稿序 (28)
表從叔 申思錫의 시집인 『龍淵詩稿』에 붙인 서문이다. 소박하면서도 꾸밈없는 타고난 성정에서 우러나온 신사석의 시를 높이 평가하고 있다.
溫齋書法序 (29)
溫齋 李某의 필묵 중 楷書體로 된 글씨만을 묶어 만든 『溫齋書法』에 붙인 서문이다. 아버지의 필묵 중 楷書만을 우선 간행하고 다른 글씨체들로 이어서 계속 간행하려는 뜻을 갖고 溫齋의 아들 李克誠(1721∼1779)의 부탁을 받고 썼다.
孫景節公實記序 (30)
孫仲暾(1463∼1529)의 實記인 『愚齋先生實紀』에 붙인 서문이다. 손중돈의 9세손 孫國濟가 손중돈의 詩 한편을 새로 찾아내 실기에 추가로 등재할 때 정범조를 찾아와 부탁한 글이다. 손중돈의 6세손 孫汝斗가 실기를 처음 편집하였고 8세손 孫孟杰이 이를 목판으로 간행했다는 실기의 간행 경위가 기록되어 있다.
孤山集序 (31)
1775. 李惟樟(1625∼1710)의 문집인 『孤山集』의 서문이다. 이유장의 4세손 李弘辰 등의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 聖人과 이후의 賢人들이 남긴 말씀을 묵수하며 일상생활에서 이를 실천하고 체득하는 데 치중했던 이유장의 학문 태도를 서술하고 있고 후반부는 그 결과로 性命과 理氣에 대한 논의보다 일상 윤리와 愛民 등 道의 運用 측면을 주로 하는 그의 저술과 일상 속에서 仁義禮智가 모두 드러나는 그의 실천적 삶에 대해 서술하고 있다.
芸亭集序 (33)
1775. 金彦健(1511∼1571)의 문집인 『芸亭集』의 서문이다. 김언건의 후손인 金光澈의 부탁을 받고 썼다. 김언건의 지극한 효성, 이를 본받아 부모에 효도하는 마음을 나라에 대한 충성으로 확장시켜 임진왜란 때 상주 지역에서 의병을 일으켰던 활약하였던 아들 金覺의 행적 등을 서술하고 있다. 아들 김각의 詩文을 문집 후미에 덧붙이고 있다는 점을 밝히고 있다.
送昌樂丞崔天逵-致白-歸鄉序 (34)
1782. 관직 임기를 마치고 고향으로 돌아가는 昌樂郵丞 崔致白(1734∼?)에게 준 글이다. 孝友純實한 내면의 아름다움을 갖추고 있을 뿐만 아니라 經書와 諸子書에 능통하고 天文・地誌・讖緯・醫藥・卜筮 등 다방면에 걸쳐 폭넓고 깊이 있는 학식을 갖고 있다고 최치백을 평가하면서 昌樂이 치우치고 궁벽한 곳이고 郵丞이 낮은 관직이지만 昌樂이 조정에서 파견하는 사신들이 경유하는 곳임에도 불구하고 최치규 같은 능력 있는 인물이 눈에 띄어 발탁되지 못하고 귀향하여 이름 없이 사라지게 될 것을 애석하게 여기고 있다.
菊圃集序 (35)
姜樸(1690∼1742)의 문집인 『菊圃集』의 서문이다. 강박의 후손 姜必岳의 부탁을 받고 썼다. 전반부는 넉넉하면서도 법식에 맞고 화려하면서도 운치가 있는 문과 漢・魏・唐의 시를 典範으로 하여 일가를 이룬 詩라고 강박의 詩文을 평가하는 내용, 젊어서 등과한 이래 큰 뜻을 품었지만 현실의 벽에 막혀 그 뜻을 펼치지 못하고 그로 인해 마음속에 쌓인 격정을 시문에 토해 놓았다는 그의 인생 역정 속에서 그의 시문이 특출할 수밖에 없었던 이유를 찾고 있는 내용 등으로 구성되어 있고 후반부에는 姜必岳이 자신에게 유고의 편집을 부탁했지만 감당할 수 없어 편집에 대해서는 채제공에게 상의할 것을 권유하였다는 내용을 기술하고 있다.
崔貞武公實記序 (37)
崔震立(568∼1636)의 實記인 『貞武公崔先生實記』에 붙인 서문이다. 實記의 중간을 준비 중이던 최진립의 5세손 崔宗謙의 부탁을 받고 썼다. 병자호란 때 龍仁 싸움에서 전사한 최진집을 중국 당나라 때 安祿山의 난에 許遠과 함께 군사를 일으켜 睢陽城을 지키다가 전사한 張巡(709∼757)에 비기면서 그의 충절을 기리고 있다.
栗亭集序 (38)
栗亭 徐某의 문집인 『栗亭集』에 붙인 서문이다. 徐某의 6세손 徐佑漢의 부탁을 받고 썼다. 이전부터 영남지역에 인물이 많았던 것을 알고 있었지만 1781년 豐川 府使로 부임한 이래 1년여 동안 선조의 문집 서문을 부탁하는 많은 영남 사대부들의 부탁을 받아 그 문집을 읽어보고는 전란 등으로 유고의 많은 부분이 소실되거나 산림에 묻혀서 그 진면모가 세상에 알려지지 않은 인물들이 훨씬 더 많았다는 사실을 알게 되었고 栗亭 徐某 역시 그런 인물 중의 한명이라고 설명하면서 유고에 나타난 徐某의 인품과 학식을 소개하고 있다.
龍崗集序 (39)
자신의 고조부 丁時翰에게 수학했던 黃壽一(1666∼1725)의 문집인 『龍崗集』의 서문이다. 황수일의 외손 南龍燮(1734∼1817)의 부탁을 받고 썼다. 이황을 사숙하며 정시한에게서 배웠던 黃壽一의 학문 연원과 그 규모, 저술 등을 서술하고 있다.
松月齋集序 (41)
李時善(1625∼1715)의 문집인 『松月齋集』에 붙인 서문이다. 이시선의 손자 李命顯에게 써 준 글이다. 이시선의 학문의 규모를 서술한 뒤 비록 그가 뜻을 펼치지 못한 불우한 삶을 살았고 세상에 이름이 널리 알려진 것도 아니지만 생전에 이미 자신의 고조부 丁時翰에게 서신을 왕래를 통해 학식과 인품을 인정받았고 사후에 그의 유문이 세상의 교화에 보탬이 되고 있기 때문에 그의 삶이 불행한 것만은 아니었다고 말하고 있다.
海左集2

卷二十二
訒齋集序 (1)
1775. 崔晛(1563∼1640)의 문집인 『訒齋集』의 서문이다. 문집 간행을 준비 중이던 최현의 6세손 崔光璧(1728∼1791)의 부탁을 받고 썼다. 전반부에는 학식과 재주를 바탕으로 임진왜란이 일어나자 구국책을 올려 능력을 인정받아 관직에 등용되고 인조반정 뒤 충정어린 상소로 임금의 인정을 받던 중 李仁居의 모반 사건에 연루된 혐의로 투옥되었다가 풀려난 뒤 낙향하여 여생을 보낸 삶의 궤적, 義과 忠을 지향하였던 삶의 태도 등을 서술하고 있고 후반부에는 문집에 실려 있는 官制, 民産, 軍政 등과 관련된 그의 글의 내용을 간략하게 소개하고 있다.
芙蓉稧會帖序 (2)
1775. 豐基 郡守로 있을 때 榮川지역의 司馬試 합격자의 모임인 芙蓉稧에 참석했을 때 그 계첩을 보고 쓴 글이다. 1509년에 처음 만들어 졌다가 조정의 명령으로 해체 된 뒤 1601년 다시 결성되어 이어져 오고 있는 芙蓉稧의 연역을 서술하고 이 모임이 군민을 교화하고 풍속을 아름답게 하려는 본래의 취지를 충실히 지켜 음주와 향락에 흘러 폐지되었던 과거의 전철을 밟게 되지 않기를 조언하고 있다.
丹谷集序 (4)
1775. 郭瑨(1568∼1633)의 문집인 『丹谷集』에 붙인 서문이다. 문집 간행을 주도하고 있던 곽진의 6세손 郭正彬의 부탁을 받고 썼다. 7권 분량의 문집을 읽고 느낀 곽진의 文章, 學識, 節義 등을 평가하며 칭송하고 있다. 광해군 때 권신 李爾瞻(1560∼1623)의 주살을 주장하는 상소를 올렸다가 투옥되어 옥사한 아들 郭瓔(?∼1618)의 시문을 문집에 함께 수록하고 있음을 밝히고 있다.
沈氏十世譜序 (5)
靑松沈氏의 10대 가계를 정리한 『沈氏十世譜』의 서문이다. 세보를 작성한 戚兄 沈某의 부탁을 받고 썼다.
葵亭集序 (7)
1778. 외증조인 申厚載1636∼1699)의 문집인 『葵亭集』의 서문이다. 申厚載의 손자 申思奭의 부탁을 받고 썼다. 신후재의 詩는 歐陽修(1007∼1072)와 曾鞏(1019∼1083)의 격조를 따르고 있고 그의 文은 朴茂 渾疣 澹雅함을 특색으로 한다고 평가하고 있다.
道谷遺集序 (9)
조선 世宗의 아들 翼峴君 李璭(1431∼1463)의 7세손 道谷 李某의 문집인 『道谷遺集』의 서문이다. 왕족의 다른 후손들과 달리 李璭의 후손들이 영락한 것을 안타까워하고 있다.
送朴承宣仲涵-師海-宰順興序 (9)
順興으로 부임하는 朴師海(1711∼1778)가 이웃 고을인 豐基郡守로 있었던 정범조에게 편지로 조언을 부탁했을 때 그에게 써 보낸 送序이다. 억세고 투박한 영남지역의 습속을 고려하여 관대한 정책과 엄정한 정책을 경우에 맞게 적절하게 운용할 것 등 지방 행정과 관련된 사항을 자신의 풍기 군수 시절의 경험을 토대로 진술하고 있다.
崔惠吉楓嶽詩序 (11)
1779. 崔惠吉・張士膺과 함께 금강산 유람을 다녀온 뒤 최혜길이 금강산에서 지은 詩 84수을 읽고 쓴 서문이다. 함께 여행을 다녀온 세 사람 중 가장 많은 시를 남긴 최혜길이 금강산의 구석구석을 시로 담아내는 성과를 통해 가장 많은 것을 얻었고 그런 면에서 그에게 이번 금강산 여행이 詩作 능력의 향상을 위한 千載一遇의 기회가 된 것을 축하해 주고 있다.
忠賢錄序 (12)
임진왜란 때 의병을 일으켜 경북지방의 여러 고을을 탈환하고 慶州의 宣川陳 전투에서 전사한 17義士 중 崔仁濟(1560∼1592)・金大海(1544∼1592) 등 12인의 遺事와 行狀・墓碣文 등을 수록하여 그들의 행적과 충의를 드러낸 『忠賢錄』에 붙인 서문이다. 刑曹正郞에 追贈된 김대해의 6세손 金鼎受의 부탁을 받고 썼다.
玉溪子詩卷序 (13)
玉溪子 鄭某의 詩卷을 보고 쓴 서문이다. 시작에 뛰어난 많은 鄭氏 집안의 인물들과 마찬가지로 재능을 세상에 마음껏 펼치지 못하고 영락한 上舍生[진사나 생원]으로 늙어가고 있는 정모의 현실을 안타까워하고 있다.
湖叟實記序 (13)
1781. 임진왜란 때 의병으로 永川지역에서 활약하였던 鄭世雅(1535∼1612)와 그의 아들 鄭宜藩의 遺文과 事蹟을 기록한 『湖叟實記』의 서문이다. 실기를 편집한 정세아의 6세손 鄭一鑽이 보낸 鄭一鏆의 부탁을 받고 썼다.
午山詩史序 (15)
盧守愼의 손자인 盧峻命(1596∼1652)이 지은 서사시집 『午山詩史』를 읽고 쓴 서문이다. 殷나라에서 明나라까지의 중국 역사와 박혁거세부터 고려에 이르는 우리나라의 역사를 詩로 읊은 『午山詩史』의 규모를 소개하고 엄정하면서도 명료한 盧峻命의 필법을 높이 평가하고 있다.
一閒齋集序 (16)
一閒齋 趙某의 문집인 『一閒齋集』의 서문이다. 一閒齋의 玄孫 趙時貞의 부탁을 받고 썼다. 인조반정 전후에 趙某가 보인 한결같은 처신과 그가 남긴 수준 높은 시를 높이 평가하면서 재능을 다 발휘할 수 있을 만큼의 충분한 수명을 누리지 못했던 것을 안타까워하고 있다.
桐巢遺稿序 (17)
기호 남인 학자 南夏正(1678∼1751)의 문집인 『桐巢遺稿』의 서문이다. 남하정의 아들 南壄의 부탁을 받고 썼다. 進士에 급제했으나 벼슬을 단념한 채 고향인 振威의 桐泉으로 물러나 학문에 정진하면서 후진을 양성하며 일생을 보낸 남하정의 학문의 깊이를 그가 남긴 저술 속의 군자와 소인에 대한 논변을 통해 드러내 보이면서 그의 膽搏한 문장과 典雅하고 冲遠한 시를 높이 평가하고 있다.
畫帖序 (18)
久叔 趙某가 소장하고 있던 금강산 그림 화첩을 보고 그림마다 평가하는 말과 시를 붙인 뒤 쓴 서문이다. 조모가 금강산 여행 중에 함께 갔던 동료에게 부탁해서 받은 그림을 첨으로 만들어 보관하게 된 경위, 毘盧峯・九龍瀑布 등 화폭에 담긴 내용 등을 소개하고 그의 典雅한 취향을 높이 평가하고 있다.
止巖遺稿序 (18)
都愼修(1598∼1650)의 문집인 『止巖遺稿』의 서문이다. 도진수의 5세손 都必元의 부탁을 받고 썼다. 도진수의 부모에 대한 지극한 효성, 鄭逑(1543∼1620)의 문하에서 수학하는 등 그의 학문 연원 등을 서술하고 있다.
李氏傳家寶帖序 (19)
李時明(1580∼1674)의 부인 安東張氏(1598∼1680)가 남긴 詩 4수를 묶은 두 편의 시첩에 붙인 서문이다. 이시명의 5세손 李宇標의 부탁을 받고 썼다. 張氏가 10세 무렵에 지은 三章의 사언절구 1수를 본인이 직접 써서 만든 한 편의 시첩, 장씨의 오언절구 2수・칠언절구 1수의 시를 그녀의 남편 李時明이 쓰고 며느리인 이휘일의 부인 朴氏가 가장자리에 八龍을 수놓은 것을 玄孫 李紀遠이 만든 다른 한 편의 시첩에 대해 그 경위와 내용 등을 서술하고 장씨의 시와 글씨를 높이 평가하면서 장씨의 숙덕과 재능이 출중한 자손들을 배출할 수 있는 원동력이 되었을 것이라고 칭송하고 있다.

卷二十三
百梅堂記 (1)
주인 李某의 요청에 따라 쓴 백매당의 기문이다. 매화 한 그루를 심고 그 한 그루가 백 그루에 필적한다는 의미에서 ‘百梅’라고 당호를 지은 당주의 작명 의도를 듣고 그 속에 경쟁과 비교의 의미가 담겨 있음을 지적하면서 당주에 대해 매화를 아끼는 사람임은 분명하지만 매화의 진정한 가치를 알지 못하는 사람이라고 비판하고 있다.
閱古堂記 (2)
주인 沈德新의 요청에 따라 쓴 閱古堂의 기문이다. 과거의 是非와 得失을 돌아보아야하는 이유를 설명하고 그 올바른 방향에 대해 자신의 의견을 개진하고 있다.
四不齋記 (3)
‘바람 불거나 비 오거나 춥거나 더울 때는 외출하지 않는다[風雨寒暑不出]’는 邵雍(1011∼1077)의 말에서 따왔다는 ’四不‘을 당명으로 삼은 李某로부터 기문을 부탁받고 쓴 글이다. 이모가 당명을 四不이라고 한 것은 ’四不‘에서 건강을 걱정하는 攝生의 기술이라는 단순한 의미를 취한 것이 아니라 이를 외출 자체를 최소한으로 줄이는 핑계로 삼아 바깥으로 나감으로써 생기는 여러 우환거리를 만들지 않으려는 보다 깊은 뜻이 담겨있다고 그 작명 의도의 이면을 분석하고 있다.
葛頭精舍記 (5)
高陽의 葛頭里에 있는 친구 許彛叔의 집을 방문했을 때 그에게 지어준 기문이다. 서남쪽으로 바다가 바라다 보이고 동쪽으로는 삼각산・도봉산 등 큰 산이 병풍처럼 펼쳐져 있으며 그 사이 넓고 비옥한 들판이 펼쳐져 있는 천혜의 자연 조건을 갖추고 있고 서쪽으로 40리만 가면 도성에 도착할 수 있는 좋은 입지 조건을 갖춘 지역이라고 허이숙의 世居地를 높이 평가하며 이곳을 잘 유지하여 대대로 살아갈 수 있다면 자손들 중에 권율이나 崔笠과 같은 훌륭한 인물이 나올 수 있을 것이라고 조언하고 있다.
歸安齋記 (6)
7년 동안 鶴城에 식객으로 머물던 許士鴻이 杏州의 고향으로 돌아가면서 자신이 돌아가 머물 집의 당호를 지어줄 것을 부탁받고 쓴 기문이다. ‘歸安齋’라는 이름을 권유하면서 그 취지를 설명하고 있다.
兪秀五家藏鍮硯記 (7)
兪恒柱가 起居注로 재임할 때 사용하다가 물러난 뒤 집안에 보관하고 있던 놋쇠 벼루를 보여주며 정범조에게 부탁한 기문이다. 임금과 조정 신하들의 언행 등 임금 주변의 사항들을 가감 없는 기록하고 그 시비를 평가할 수 있는 직책인 起居注의 특성을 서술하면서 훗날 兪恒柱가 높은 관직에 오른 뒤 시류에 제약받아 당세의 잘잘못을 가감 없이 피력하고 싶어도 할 수 없을 경우가 생긴다면 반드시 이 놋쇠 벼루에 먹을 갈며 탄식하게 될 것이라고 말하고 있다.
不寐軒記 (9)
蔡濟恭이 아버지의 장례를 치르고 부모님의 묘소 근처에 집을 지은 뒤 ‘不寐’라는 당호를 짓고 정범조에게 부탁한 기문이다. 부모님의 묘소 옆에서 생전의 그분들을 생각하며 밤에도 잠들지 못하는 채제공의 애틋한 마음이 담겨 있는 당호의 의미를 잘 드러내면서 아울러 이 당호가 복상 기간이 지난 이후 삶 속에서도 채제공으로 하여금 항상 부모님을 생각하며 언행을 신중히 할 수 있게 하는 역할을 해줄 것을 기대하고 있다.
花竹軒記 (10)
權師彦(1710∼?)이 王維의 桃源行의 구절인 “가까이 다가가니 집집마다 꽃과 대나무 흩날리네[近入千家散花竹]”에서 의미를 취하여 자신의 집 당호를 ‘花竹’이라고 짓고 정범조에게 부탁한 기문이다. 조정의 관직을 맡고 있고 집마저 번잡한 城市에서 멀지 않은 곳에 있어서 隱者와는 거리가 먼 삶을 살고 있는 권사언이지만 그의 진실한 내면에는 세상의 부귀와 공명을 떠나 隱約을 추구하는 마음이 자리잡고 있다는 점을 ‘花竹’이라는 당호를 통해 드러내고 있다.
三禪師影堂記 (12)
福州의 天燈山에 四溟大師와 그의 스승 西山大師, 그의 제자 喚醒大師 삼인의 초상을 모시는 당우를 세우고 기문을 부탁한 旨閒上人의 요청을 받고 쓴 글이다. 임진왜란 때 승려의 몸으로 국가를 위해 떨쳐 일어났던 사명대사의 忠國愛君의 정신을 기리며 그의 초상을 모시는 것이 후인들에게 忠義의 정신을 불러일으키게 하는 계기가 될 것이라고 말하고 있다.
昌樂郵今朝閤記 (13)
昌樂郵丞 崔致白(1734∼?)이 昌樂 郵舍의 낡은 쪽문을 보수하면서 邵雍(1011∼1077)의 시구절인 “오늘 아침에는 대나무 창이 해를 향해 열렸네.[今朝竹牖向陽開]”에서 의미를 취하여 ‘今朝閤’이라고 이름 붙인 뒤 정범조에게 부탁한 기문이다. 남다른 학식을 갖춘 최치규가 궁벽한 昌樂의 말단 직위인 郵丞에 머물면서 전임자들이 돌보지 않았던 낡은 쪽문을 보수하는 세세한 일에 신경을 써는 이유와 그가 쪽문을 보수하면서도 건물의 다른 부분을 그대로 둔 이유를 설명하면서 그의 사람을 아끼는 마음과 검속함을 높이 평가하고 있다.
崇烈祠清風樓記 (14)
경주에 세워진 崔震立(1568∼1636)의 祠宇인 崇烈祠에 있는 清風樓의 기문이다. 최진립의 5세손 崔宗謙(1719∼1792)의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때 의병을 일으켜 西生浦에 침입한 왜적을 무찌르고 島山 싸움에서도 전공을 세웠으며 병자호란 때 公州營將으로 龍仁 전투에서 전사한 최진립의 생애를 기술하며 그의 충절을 기리고 있다.
夢花堂記 (16)
興州 夢花堂의 기문이다. 당주 朴某의 부탁을 받고 썼다. 박모의 7세 조모 朱氏가 꿈에 사별한 남편으로부터 아들의 스승이 될 南某를 찾아 榮川의 花川 고을로 이주하라는 말을 듣고 거주를 화천으로 옮긴 뒤 南夢鰲에게 아들의 교육을 맡겨 훌륭하게 키워냈던 異蹟을 소개하고 자손들이 영천에서 흥주로 세거를 옮긴 뒤에도 주씨의 꿈이 자손들의 계속된 登第와 출세의 기반이 되었다는 점을 잊지 않기 위해서 ‘몽화’라는 당호를 계속 사용하게 되었다는 당호의 유래를 소개하고 있다.
驪江尹氏世廬記 (17)
尹致和의 13대 조부 尹某가 세운 초가집의 기문이다. 초가집을 보수한 尹致和의 부탁을 받고 썼다. 고려가 망할 때 벼슬을 버리고 驪州로 물러나 초가를 짓고 살았던 윤모의 節義, 선조가 세운 초가를 오랫동안 유지하며 보존해 왔던 후손들의 마음가짐 등을 높이 평가하고 있다.
拙齋記 (18)
橫城 사람인 집주인 趙某의 요청에 응해 쓴 拙齋의 기문이다. ‘巧’와 ‘拙’에 대한 자신의 의견을 피력하고 있다.
清涼山記 (19)
1775. 아들 丁若衡과 함께 4월 9일에서 10일 2일간 봉화의 淸凉山을 등반하고 쓴 기행문이다. 基木縣에서 출발하여 獨檀嶺을 넘어 內淸凉과 外淸凉을 두루 둘러본 여정, 여정 중에 만나는 암자・사찰・절경 등의 명승지, 명승지와 관련된 고사, 등반 이후의 느낌 등을 서술하고 있다.
石假山記 (21)
산모양의 돌에 대한 기문이다. 크고[大] 작음[小]의 문제를 사물 안에서 바라보는 관점과 사물 밖에서 바라보는 관점으로 나누어 조명하면서 사물을 사물 안에서 바라보는 절대적인 관점을 벗어나 사물을 사물 밖에서 바라보는 상대적인 관점에 서있는 자신의 세계관을 피력하고 있다.
玄山幽居記 (22)
橫城의 法泉洞 玄谿山 자락에 있는 자신의 집 玄山幽居의 기문이다. 법천동 주변의 정경과 자신의 일상의 삶을 세밀한 필체로 담아내고 풍랑에 흔들리며 바위에 부딪히면서도 유유히 강물에 떠있는 빈 배처럼 외물에서 벗어나지 않으면서도 그것에 구애되지 않는 담박하고 고요한 빈 마음을 유지한 채 살아가려는 ‘玄山幽居’라는 당호에 담겨 있는 자신의 삶의 자세를 서술하고 있다.
二友亭記 (24)
善山 二友亭의 기문이다. 정자를 세운 崔光壁의 부탁을 받고 썼다. 산과 물을 벗삼는다는 의미에서 취한 ‘二友’의 의미를 부연하여 서술하고 있다.
崇烈祠清風樓記-重作 (25)
慶州에 세워진 崔震立(1568∼1636)의 祠宇인 崇烈祠에 있는 清風樓의 기문이다. 최진립의 5세손 崔宗謙(1719∼1792)의 부탁을 받고 썼다. 최진립의 외적인 측면은 병자호란 때 龍仁 전투에서 전사함으로써 보인 그의 충절를 통해 후세 사람들에게 널리 알려져 있지만 내적인 측면인 辭受取與의 權衡과 心術은 알려지지 않았기 때문에 ‘淸風’이라는 樓의 명칭을 통해 그것을 표현해 내고자 한다는 설명과 함께 ‘淸風’에 담긴 함의를 기술하고 있다.
洛山寺重修記 (27)
1779. 洛伽山의 낙산사 중건의 전말을 기록한 기문이다. 절 중건을 주도했던 주지 學均의 부탁을 받고 썼다. 1777년 화재로 소실된 것을 이듬해 봄부터 그 다음 해 여름에 걸쳐 공사를 진행했다는 중건 이유와 기간, 소실 전 378개의 기둥으로 이루어져 있던 절의 규모를 166개의 기둥으로 축소하였다는 중건의 규모, 창건 이후 몇 차례의 중건을 거친 낙산사의 연역 등을 기록하고 있다.
梅鶴亭記 (28)
1779. 경포대 동쪽에 위치한 梅鶴亭의 기문이다. 매학정을 세운 金衡鎭의 부탁을 받고 썼다. 뛰어난 절경인 경포 호수 주변에 정자를 지으면서 이름에 그 정취를 포함시키지 않고 ‘매학’이라는 의외의 의미를 취한 것은, 바깥의 景物 보다 자기 마음속의 추구를 우선하는 김형진의 지향 때문임을 그와의 대화를 통해 드러내고 김형진 만이 진정으로 경포를 소유할 수 있는 인물이라고 평가하고 있다.
翠松亭記 (29)
1779. 襄陽府使로 있을 때 쓴 翠松亭의 기문이다. 주인 崔惠吉의 부탁을 받고 썼다. 돈독한 덕행과 박식한 학문을 갖추었으면서도 등과하지 못한 채 늙어가고 있는 최혜길의 상황을 안타까워하면서도 그런 불우함 속에서도 자신의 내면의 가치를 지키며 자신을 함양하는데 힘쓰고 있는 그의 굳건한 의지를 ‘翠松’이라는 정자의 이름을 통해 드러내고 있다.
雪嶽記 (30)
1779. 설악산을 유람하고 쓴 기문이다. 張士膺・아들 丁若衡 등 동행한 인물, 신흥사에서 출발하여 五歲庵・獅子峰・永矢庵을 지나 寒溪嶺・百潭寺를 거쳐 다시 신흥사로 돌아오는 260리에 걸친 여정, 여정 중에 만난 절경과 명승지, 명승지와 관련된 고사, 道里 등을 서술하고 있다.
借菴記 (33)
借菴의 기문이다. 주인 李尙重의 부탁을 받고 썼다. 암자를 이루고 있는 모든 것들은 원래 자신의 소유가 아니라 다른 존재에게서 빌린 것이라는 의미에서 이름을 借菴이라고 지었다는 이상중의 설명을 듣고, 밖으로부터 빌린 것이 아니라 원래 자신의 것은 본성[性]뿐이며 이를 보존・함양・확충시키고 지혜와 식견을 키워 바깥의 사물과 자신의 것 사이의 輕重을 구분할 수 있게 되어야만 비로소 암자의 이름에 붙인 ‘借’의 진정한 의미를 이해하는 경지에 올라 바깥 사물에 구애받지 않을 수 있게 될 것이라고 말하고 있다.
涵碧亭重修記 (34)
涵碧亭의 중수기이다. 5대조 統制使 柳某가 세운 정자를 중수한 柳載範의 부탁을 받고 썼다. 조상이 남긴 정자를 보수하는 것은 사소한 일에 불과하지만 이런 작은 일을 소홀히 하는 마음가짐으로는 조상이 남긴 世德을 온전히 繼述할 수 없다는 취지에서 涵碧亭을 중수한 유재범의 뜻을 높이 평가하고 있다.
聾淵書舍記 (35)
聾淵書舍의 기문이다. 崔東㠍(1578∼1665)이 강학하던 곳에 書舍를 세운 후손 崔華鎭의 부탁을 받고 썼다. 권세가 李爾瞻이 불러도 가지 않았고 왕실 집안의 혼인 권유를 거부하였으며 청나라 황제의 치세를 부끄럽게 여겨 초야에 묻혀 일생을 살았던 최동집의 節義를 높이 평가하며 그의 후손들이 亭舍의 건립이라는 외형적인 면에서 조상을 추모하는 측면에 머물지 않고 진정으로 그 節義를 본받을 수 있기를 기대하면서 최동집의 5세손 崔興遠(1705∼1786)을 그 본보기로 제시하고 있다.
金水樓重修記 (36)
경기도 포천군 창수면에 있는 金水樓의 중수기이다. 정자의 주인 金宅仁(1753∼?)이 정범조의 사위 兪孟煥을 통해 부탁해 온 글이다. 금수정을 직접 보지 못해 거절했다가 김택인이 옛사람들이 쓴 기문들을 보내와 다시 부탁했고 그 기문들을 읽고난 뒤 금수루와 주변의 정경을 간접적으로 알게 되어 기문을 짓을 수 있었다는 글 작성과 관련된 곡절을 소개하고 200여 년 전에 지어진 정자를 수 차례에 걸쳐 중수하며 지켜올 수 있었던 이유를 김씨 집안이 世德을 잘 계승해 왔던 것에서 찾고 있다.
霞南精舍記 (38)
霞南精舍의 기문이다. 주인 金永國의 부탁을 받고 썼다. 金自粹(1352∼1413)・金世弼(1473∼1533) 등 충주의 霞南洞에서 德基를 이루었던 김영국의 선조들을 소개하고 世居地를 떠나서도 조상의 구업을 잊지 않으려는 뜻에서 당명을 그대로 사용하고 있는 김영국의 정성을 높이 평가하고 있다.
桐菴記 (39)
楊根[楊平] 桐菴의 기문이다. 양근에서 펼친 구휼 사업으로 할아버지 柳某가 그곳 백성들의 칭송을 받았던 인연으로 자신이 楊根에 집을 마련하게 되었고 桐鄕의 嗇夫로 마을을 잘 다스리자 마을 사람들이 그의 무덤을 만들고 사당을 세워 받들었던 중국 漢나라 때 朱邑의 고사가 자신의 할아버지의 경우와 비슷해서 할아버지의 치적을 잊지 않기 위해 집 이름을 桐菴이라고 집과 관련된 사연을 얘기하며 기문을 부탁한 柳台顯의 부탁을 받고 썼다. 양근에 살면서 행동거지를 더욱 신중히 하고 사람들을 더욱 성실하고 신의 있게 대하여 할아버지의 명성에 걸맞는 사람이 되어 줄 것을 당부하고 있다.
守分堂記 (40)
守分堂의 기문이다. 주인 柳台顯의 부탁을 받고 썼다. 분수를 아는 데에만 그치지 않고 삶속에서 지속적으로 지켜낼 수 있기를 바라고 있다.
和菴記 (41)
和菴의 기문이다. 주인 和叔 尹某의 부탁을 받고 썼다. 윤모의 字에도 ‘和’자가 있는데 齋號 마저 和菴이라고 지은 것을 보고 그에게 우울증 증세가 심할 것이라 추측하며 우울한 마음을 해소하는 방법을 조언하고 있다.
契玄堂記 (42)
申某가 端湖 가에 지은 契玄堂의 기문이다. 당명을 부탁받은 정범조가 ‘契玄’으로 당명을 삼을 것을 권유하며 그 의미를 해설하고 있다.
蓻游記 (43)
약관의 나이에 詩에 뜻을 둔 이후 詩로 교유하였던 12명의 師友를 소개하는 내용, 그들의 자신의 시에 대한 평가, 각 인물들에 관련된 기억에 남는 추억, 12명 중 4명만이 생존해 있고 그나마 나이가 들어 과거와 같은 활발하고 왕성한 교유가 이루어지고 있지 못한 현재의 상황에 대한 안타까움을 토로 하는 내용 등 詩作 활동을 중심으로 한 자신의 40여 년 간의 삶을 돌아보는 회고적인 성격의 글이다. 12명의 이름은 다음과 같다. 李直心, 洪光國, 鄭弘祖, 洪翰輔, 申光洙, 申光淵, 蔡濟恭, 金光遇, 申光河, 李秉延, 李獻慶, 睦萬中.
石竹園記 (45)
陰竹[長湖阮] 石竹園의 기문이다. 주인 聖初 姜某의 부탁을 받고 썼다. 진사가 된 뒤 과거에 수차례 실패하자 낙향해 버린 친구를 10여 년 만에 만나보고 그가 스스로를 지키며 외물에 유혹받지 않는 굳건한 수양을 쌓은 사람임을 확인하고 이런 관점에서 작은 화초인 石竹[패랭이꽃]을 자신의 호와 택호로 삼은 그의 의도를 풀어내고 있다.
素稼齋記 (46)
素稼齋의 기문이다. 주인인 族叔 丁聖豪의 부탁을 받고 썼다. 자신의 역량을 가름하여 과거시험에 매달리는 것을 포기하고 농사에 힘써 그 소출로 부모를 봉양하고 祭需를 마련하며 살겠다는 정성호의 생각을 입으로만 經書를 강독하며 이익을 위해 온갖 몰염치한 짓을 저지르는 당시의 선비들의 행태와 비교하며 높이 평가하면서 이에 덧붙여 그가 농사짓는 그 마음을 자신의 수양에 적용할 수 있다면 그 이익이 농사일에서 얻는 것에 비길 수 없을 것이라고 말하며 지속적이고 굳건한 자기 수양을 권고하고 있다.
松竹軒記 (47)
松竹軒의 기문이다. 자신의 字 뿐만 아니라 齋號에도 ‘和’자를 사용할 정도로 ‘조화’의 의미를 중요하게 생각하던 和叔 尹某가 자신의 집 이름을 ‘松竹’이라고 짓고 기문을 부탁하자 소나무와 대나무의 속성에서 淸의 의미를 포착하여 조화만을 중시하다가 지나친 쾌락 추구로 빠져들게 되는 것을 경계하는 단서로 삼을 것을 권하고 있다.
宛在亭記 (48)
禮安 雲谷里 宛在亭의 기문이다. 돌아가신 할아버지가 거처하던 지역에 큰 수해가 든 뒤 계곡에서 물이 분출하여 삼면이 연못으로 변하여 섬이 만들어지고 그 섬 중앙에 큰 암반이 드러나는 지형의 변화가 있었다는 것을 서술하고 그 암반 위에 집을 짓고 좌우를 구분하여 각각 『논어』와 『맹자』에서 따와 ‘欲寡’ ‘一樂’으로 이름 짓고 다시 집 전체의 이름을 詩經 秦風 蒹葭의 구절인 ‘宛在水中央’에서 가져와 宛在로 정한 뒤 기문을 부탁한 李逸昇의 부탁을 받고 썼다. 族祖 李滉과 先祖 李堣(1469∼1517)의 流風이 이어져오는 집안의 후손인 李逸昇에게 그 世德으로 인해 이미 숭모를 받고 있는 입장이니 더욱더 자신을 갈고 닦아 사람들의 진정한 모범이 될 수 있기를 기대하고 있다.
香山書舍記 (49)
善山 廷香驛里 香山書舍의 기문이다. 가문이 쇠락해 가는 것을 안타깝게 생각하여 子弟들이 공부방으로 사용할 건물을 마련한 族弟 丁載權(1735∼1812)의 부탁을 받고 썼다. 丁氏가 영남으로 이주하여 선산에 정착하게 된 이력, 자신이 만나본 정재권의 아버지 丁志遠의 성품 등을 서술하면서 金烏山・忠臣山 등의 산과 낙동강으로 이루어진 선산의 뛰어난 환경과 대대로 이어진 丁氏의 世德에 자손들을 생각하는 丁載權의 정성이 더해진다면 이후에 반드시 그곳에서 걸출한 인물이 배출될 것이라고 확신하고 있다.
麗澤山房記 (50)
1793. 『주역』 兌卦의 ‘麗澤’을 자신의 공부방 室名으로 삼은 姜浚欽(1768∼1833)으로부터 기문을 부탁받고 쓴 글이다. 벗들과 서로 도와 함께 학문과 덕을 증진시키는 것이라는 ‘麗澤’의 의미를 부연하여 풀이하고 강준흠의 학문과 덕행이 더욱 향상될 것을 기대하고 있다.
來修齋記 (52)
『서경』 「說命」의 “惟學遜志 務時敏 厥修乃來 厥修乃來”에서 따온 ‘來修’를 齋名으로 삼은 尹用謙의 부탁을 받고 쓴 기문이다. 학문의 정진에 따른 그 효과로서 나타나는 수양의 발현을 의미하는 ‘修來’의 의미를 해설하면서 尹用謙에게 학문에 더욱 정진해 줄 것을 부탁하고 있다.
四隱亭記 (53)
용인 四隱亭의 기문이다. 趙光祖가 趙光輔・趙光佐・李耔와 함께 강학하던 정자를 조광조의 9세손 趙國仁이 나머지 3인의 자손들과 함께 논의를 거쳐 다시 건립하면서 정범조에게 부탁한 글이다. 사은정의 유래와 연혁, 주변의 경치를 서술하고 조광조와 3인의 학덕과 의리를 칭송하면서 후손들의 정진을 당부하고 있다.
會老堂記 (55)
金海 首露王陵 會老堂의 기문이다. 許源來의 부탁을 받고 썼다. 수로왕릉에 제향을 받들고 제사에 참여하는 사람들이 모여 음복하는 곳인 회로당이 지은 지 오래되어 낡아 수로왕의 자손들인 許氏와 金氏들이 돈을 모아 새로 짓게 되었다는 건물 건축의 경위를 서술하고 1000여 년이 지났음에도 불구하고 후손들이 조상을 추모하며 기리는 정성이 여전히 돈독한 것에 대해 높이 평가하고 있다.
秄隱堂記 (56)
秄隱堂의 기문이다. 주인 善汝 李某의 부탁을 받고 썼다. 10여 년간 함께 근무하면서 보아왔던 李某의 부친 尙州公의 청렴하고 올곧은 성품을 서술하고 이런 부친의 성정을 이어받아 내면을 충실히 하는데 뜻을 둔 이모의 마음이 손수 밭을 일구어 차나무를 심고 재배하는 생활과 당호인 ‘秄隱’에 반영되어 있음을 풀어내면서 이런 내면의 涵養이 이후에 세상에 써여질 일이 있을 것이라고 격려하고 있다.
金文肅公賜笏記 (57)
金悌甲(1525∼1592)이 1578년 貢馬管押使로 명나라 연경에 갔을 때 이송 중의 말을 잘 관리한 공으로 명의 황제 神宗으로부터 받은 상아홀에 대한 기문이다. 홀을 소장하고 있던 후손 金華健의 부탁을 받고 썼다. 말의 이송 업무는 사신 업무 중 작은 일이고 그 직책은 말단에 불과하지만 작은 일에도 정성을 다하는 그의 성실함이 황제를 감복시켜 포상을 내리게 했다는 사실을 부각시키고 이런 김제갑의 성실함이 뒷날 임진왜란 때 원주의 領願山城을 수비하다 성이 함락되어서까지 끝까지 싸우다 순절한 그의 精忠大節을 있게 한 추동력이 되었을 것이라 말하고 있다.

卷二十四
戶曹判書諡恭敏權公神道碑銘-并序 (1)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 문신 有懷堂 權以鎭(1668∼1734)의 神道碑銘이다. 그의 증손자 權尙熺의 부탁을 받고 썼다. 생몰년월일, 관력과 행력, 葬地의 위치, 성품, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 宋時烈의 딸인 어머니 恩津宋氏, 부인 全州李氏의 덕행・몰년월일・葬地, 자손 등을 기록하고 있다.
巡邊使諡壯襄李公神道碑銘 (6)
조선 명종에서 선조 대에 활동한 무신 李鎰(1538∼1601)의 神道碑銘이다. 그의 5대손 李希逸의 부탁을 받고 썼다. 고려 太史 李吉卷을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 북쪽 국경지대의 여진족 토벌과 임진왜란 때의 활동을 중심으로 하는 관력과 행력, 성품, 부인들 및 자손 등을 서술하고 있다.
資憲大夫行司憲府大司憲清臺權公神道碑銘-并序 (9)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 문신・학자 淸臺 權相一(1679∼1759)의 神道碑銘이다. 그의 族從孫 權國仁의 부탁을 받고 썼다. 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 생년, 몰년월일, 행력과 관력, 장지, 성품과 학문 및 저술, 부인들 및 자손 등을 서술하고 있다.
領議政諡文肅蔡公神道碑銘-并序 (16)
조선 영조에서 정조 대에 활동한 樊巖 蔡濟恭(1720∼1799)의 神道碑銘이다. 그의 嗣子 蔡弘遠의 부탁을 받고 섰다. 고려 景平公 蔡松年을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 태몽, 유년시절의 일화, 행력과 관력, 장지, 풍모와 성품, 시와 문장, 학문, 부인들 및 그 생몰년월일・부덕, 자손 등을 상세히 기록하고 있다.
高麗駙馬都尉崔公墓碑銘-并序 (34)
고려 忠惠王의 駙馬이며 臨瀛 崔氏의 시조인 崔文漢(1320∼1395)의 墓碑銘이다. 그의 13세손 崔邦璿 등의 부탁을 받고 썼다. 위치를 알지 못했던 최문한의 묘를 그의 사후 4백여 년 만에 다시 찾게 된 경위, 행적, 그와 관련된 전해지는 일화, 후손들 중 이름을 떨친 인물 등을 기록하고 있다.
兵曹參判韓公墓碑銘 (36)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 문신 柳村 韓亨吉(1582∼1644)의 墓碑銘이다. 5세손 韓光漸의 부탁을 받고 썼다. 고려 太尉 韓蘭을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 행력과 관력, 부인 등을 기록하고 있다.
同敦寧金公墓碑銘 (38)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 金蓍耇(1724∼1795)의 墓碑銘이다. 그의 아들 金鼎元의 부탁을 받고 썼다. 생몰년월일, 관력과 행력, 장지, 고려 都觀察使 金自粹를 시조로 하는 가계, 부인 및 자손 등을 기록하고 있다.
資憲大夫知中樞府事洪公墓碑銘 (41)
조선 경종에서 정조 대에 활동한 문신 洪晟(1702∼1778)의 墓碑銘이다. 그의 동생 洪昌의 부탁을 받고 썼다. 고려 개국공신 洪殷悅을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 태몽, 관력 과 행력, 葬地, 지극했던 효성, 詩文, 字法, 부인 및 그 賢德・생몰년월일, 자손 등을 기록하고 있다.
左副承旨鄭公墓碑銘 (45)
조선 숙종에서 영조 대에 활동했던 문신 三苟堂 鄭宇柱(1666∼1740)의 墓碑銘이다. 그의 嗣孫 鄭莊의 부탁을 받고 썼다. 고려 弘文公 鄭倍傑을 시조로 하는 가계, 생년, 행력과 관력, 몰년월일, 葬地 및 移葬地, 성품, 부인들 및 그 덕행, 자손 등을 기록하고 있다.

卷二十五
正憲大夫知中樞府事諡壯靖宋公墓碑銘 (1)
조선 광해군에서 인조 대에 활동했던 무신 宋岦(1582∼1667)의 墓碑銘이다. 그의 曾孫 宋重亮의 부탁을 받고 섰다. 고려 平章事 宋仁(? ∼1126)을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 임진왜란 때 11세의 나이로 아버지가 黔指山에서 병력을 모집하여 싸우다가 죽고 형과 함께 포로가 되어 밀실에 갇히게 되자 송곳으로 벽을 뚫고 밤에 달아나 아버지의 시체를 수습하여 안장하였던 일화, 이괄의 난 때 병력을 이끌고 관군에 투항하여 이괄에게 타격을 입힌 일화 등을 중심으로 한 행력 및 관력, 장지, 지극한 효성과 우애, 성품, 부인들 및 자손 등을 기록하고 있다.
節度使朴公墓碑銘 (3)
조선 숙종에서 경종 대에 활동한 무신 朴昌潤(1658∼1721)의 墓碑銘이다. 그의 玄孫 朴旨瑞의 부탁을 받고 썼다. 붓을 버리고 무인의 길에 들어선 계기, 관력와 치적, 고려 惠文公 朴元義를 중조로 하는 가계, 생몰년월일, 葬地와 移葬地, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
左副承旨鄭公墓碑銘 (7)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 鄭彦郁(1713∼1787)의 墓碑銘이다. 그의 아들 鄭溍의 부탁을 받고 썼다. 생몰년월일, 관력과 행력, 장지, 고려 左僕射 鄭穆을 시조로 하는 가계, 부인 및 그 몰년월일, 자손 등을 기록하고 있다.
同副承旨高公墓碑銘 (9)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 秋潭 高裕(1722∼1779)의 墓碑銘이다. 그의 손자 高益謙의 부탁을 받고 썼다. 관력과 행력, 고려 版圖判書 高瑛을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 葬地, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
贈工曹參議李公遺墟碑銘 (14)
조선 중종에서 인조 대에 활동한 학자 德巖 李碩慶(1543∼1628)의 遺墟碑銘이다. 그의 6세손 李克獻의 부탁을 받고 썼다. 鄭逑와 교유하며 동생 李厚慶(1558∼1630)과 아들 李道孜(1559∼1642)를 그에게 수학하게 하여 큰 학자로 키워냈던 일・임진왜란 중에 곽재우를 도와 왜적과 싸웠던 일을 중심으로 한 행적, 고려 개국공신 碧珍伯 李悤言(858∼938)을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 부인 및 자손 등을 기록하고 있다.
僉知趙公墓碑銘 (16)
조선 인조에서 숙종 대에 활동한 문신 趙沔(1622∼1705)의 墓碑銘이다. 그의 曾孫 趙時昇의 부탁을 받고 썼다. 고려 金吾衛大將軍 趙仁平을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 관력과 행력, 장지, 성품, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
府使孫公墓碑銘 (18)
조선 명종에서 선조 대에 활동한 문신 鄒川 孫英濟(1521∼1588)의 墓碑銘이다. 그의 8세손 孫甲東의 부탁을 받고 썼다. 신라 효자 孫順을 시조로 하는 가계, 관력, 金克一의 문집과 邑誌 등에 실린 손영제에 대한 기록, 부인과 자손 및 그 행적 등을 기록하고 있다.
㝏翁張公墓碑銘 (20)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 芥翁 張鳳翰(1566∼1644)의 墓碑銘이다. 그의 6세손 張敬穆의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때 관군과 의병들 사이의 연락을 담당했던 일・星州 지방에서 왜군의 앞잡이가 되어 我軍을 괴롭힌 僧 贊夙을 사로잡아 義兵將 金沔에게 보냈던 일 등의 활동으로 임진왜란 때 죽은 아우 張鴻翰와 사촌 張士珍과 함께 아울러 一門三義士라고 불렀다는 그의 忠義와 관련된 일을 중심으로 한 행적, 고려 상장군 張金用을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 함께 기록하고 있다.
縣令權公廟碑銘 (22)
조선 선조에서 광해군 대에 활동했던 무신 梅窩 權士諤(1556∼1612)의 廟碑銘이다. 임진왜란 때 의병을 일으켜 永川・密陽・蔚山 등의 전투에서 왜적을 격파 한 공적, 무과에 합격하여 唐浦萬戶・蔚珍縣令을 지내며 베풀었던 善政 등의 활동, 생몰년월일, 장지, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계 등을 기록하고 있다.
持平權公墓碑銘-并序 (24)
조선 문종에서 세조 때 활동한 문신 權徵(1426∼1467)의 墓碑銘이다. 그의 11세손 權國仁의 부탁을 받고 썼다. 李時愛(?∼1467)의 난 때 전투에서 패하여 스스로 목숨을 끊은 그의 행적, 관력, 생몰년월일, 장지, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 자손 등을 기록하고 있다.
觀察使洪公墓碑陰記 (25)
조선 광해군에서 효종 대에 활동한 문신 晩悔 洪得一(1577∼1655)의 墓碑陰記이다. 그의 6세손 洪集休의 부탁을 받고 썼다. 이덕형을 師事하고 金榮祖・金坽과 교유하였던 사승과 교우관계, 고려 개국공신 洪殷悅을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 관력, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
統制使金公墓碑陰記 (26)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 무신 金禮直(1565∼1623)의 墓碑陰記이다. 그의 6세손 金命亨의 부탁을 받고 썼다. 광해군의 외숙이면서도 왕이 인목대비를 폐위하려고 하자 이를 반대하다 파직되고 임해군・영창대군의 옥사 때도 그 부당함을 주장하다가 쫓겨나는 등 인륜을 지키기 위해 힘썼던 그의 노력을 중심으로 한 행적, 고려 侍中 金晉을 중조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 관력, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
政丞丁公墓碑陰記 (28)
우리나라 押海 丁氏의 시조 唐나라 大陽君 丁德盛의 墓碑陰記이다. 丁時宅 등의 부탁을 받고 썼다. 당나라 文宗 때 丞相에 올랐다가 宣宗 때 신라의 압해로 귀양와서 그곳에 정착했다는 정덕성에 대한 丁氏世譜의 기록을 수록하면서 한편으로는 그 자료의 객관성에 의문을 표하면서도 후손들의 조상에 대한 추모의 정신을 높이 평가하고 있다.
兵曹參判申公墓表 (29)
조선 현종에서 숙종 대에 활동한 문신 申厚命(1638∼1701)의 墓表文이다. 그의 玄孫 申致鳳의 부탁을 받고 썼다. 붕당이 횡행하던 시대에 義를 지키며 부끄럼 없는 삶을 살았던 그의 평생 행적, 고려 개국공신 申崇謙을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 관력과 행력, 장지와 移葬地, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
贈通政大夫承政院左承旨兼經筵參贊官行集慶殿參奉勿巖金公墓表 (33)
조선 선조 대에 활동한 문신 勿巖 金隆(1525∼1594)의 墓表文이다. 그의 5세손 金尙建의 부탁을 받고 썼다. 李滉 문하에서 배웠던 그의 학문과 덕행, 임진왜란 때 격문을 지어 여러 고을에 돌려 倡義를 촉구했던 행적, 관직, 생몰년 및 장지, 6세조 金爾音에서 부터의 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.

卷二十六
資憲大夫知中樞府事洪公墓碣銘 (1)
조선 숙종에서 정조 대에 활동한 隱逸 洪命源(1683∼1769)의 墓碣銘이다. 그의 아들 洪晟의 부탁을 받고 썼다. 고려 개국공신 洪殷悅을 시조로 하는 가계, 과거를 포기하고 일생을 포의로 살았던 그의 행적, 생몰년월일, 부인, 자손, 홍명원의 고모가 자신의 曾王祖母가 된다는 그와의 인척 관계 등을 기록하고 있다.
通訓大夫行稷山縣監李公墓碣銘 (4)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 李萬宏(1704∼1770)의 墓碣銘이다. 그의 아들 李之鼎의 부탁을 받고 썼다. 5세조 李澍에서 부터의 가계, 관력과 행력, 생몰년월, 葬地 및 移葬地, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
通政大夫行求禮縣監崔公墓碣銘 (6)
조선 광해군에서 인조 대에 활동한 문신 白沙 崔東彦(1592∼1672)의 墓碣銘이다. 관력, 생몰년, 성품과 행적, 7세조 崔汭에서 부터의 가계, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
通訓大夫行順天都護府使南公墓碣銘 (8)
조선 숙종 대에 활동했던 문신 寓菴 南九明(1661∼1719)의 墓碣銘이다. 그의 손자 南龍萬의 부탁을 받고 썼다. 생몰년, 관력과 행력, 葬地, 唐나라 英毅公 南敏을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
孤山李先生墓碣銘 (10)
조선 숙종 대에 활동한 문신・학자 孤山 李惟樟(1624∼1701)의 墓碣銘이다. 그의 曾孫 李弘辰의 부탁을 받고 썼다. 자신의 고조부 丁時翰과의 돈독했던 관계, 『春秋』에 능통하여 程子 및 『左氏傳』・『公羊傳』・『穀梁傳』 등 諸家의 注釋을 모아 輯註를 내고 禮論을 분류・편집하여 저술을 내는 등의 학문과 저술, 고려 太師 李棹를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
通訓大夫行忠州牧使李公墓碣銘 (13)
조선 인조에서 현종 대에 활동했던 遺逸 漫翁 李廷機(1613∼1669)의 墓碣銘이다. 그의 5세손 李商發의 부탁을 받고 썼다. 고려 領同正 李磚을 시조로 하는 가계, 관력과 행력, 張顯光을 스승으로 공부한 그의 학문의 연원, 생몰년월일, 장지, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
成均生員李公墓碣銘 (16)
李廷機의 손자로 조선 숙종 대에 활동한 儒生 聾齋 李秀墀(1680∼1715)의 墓碣銘이다. 그의 曾孫 李祥發의 부탁을 받고 썼다. 독실한 학문과 덕성을 갖추었지만 요절로 학문을 이루고 뜻을 펼치지 못한 이수지에 대한 안타까움과 함께 그의 평생 행적을 서술하고 생몰년월일, 장지, 고려 領同正 李磚을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
中訓大夫行兵曹佐郞兼春秋館記事館南公墓碣銘 (18)
조선 숙종에서 경종 대에 활동한 문신 晩翠軒 南老明(1642∼1721)의 墓碣銘이다. 그의 증손 南景宅의 부탁을 받고 썼다. 9세조 南須를 중조로 하는 가계, 생몰년월일, 관력과 행력, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
西湖處士權公墓碣銘 (20)
조선 숙종 대에 활동한 儒學 權份(1653∼1698)의 墓碣銘이다. 뛰어난 재주를 타고 났으면서도 충분한 수명을 타고 나지 못한 권빈에 대한 안타까움을 서술하고 생몰년월일, 葬地, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
承訓郞行懷德縣監權公墓碣銘 (21)
조선 숙종 대에 활동한 문신・학자 山澤齋 權泰時(1635∼1719)의 墓碣銘이다. 그의 증손 權訪의 부탁을 받고 썼다. 관직에 뜻을 두지 않고 은거하며 학문에 열중하던 시기의 행적, 1690년 학행으로 천거되어 掌樂院主簿에 된 이후의 관력 및 지방관으로 있던 때에 베풀었던 善政 등의 행적, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
通訓大夫行掌隸院司評盧公墓碣銘 (24)
조선 인조에서 현종 대에 활동한 문신 盧道一(1592∼1669)의 墓碣銘이다. 그의 5세손 盧傒文의 부탁을 받고 썼다. 고려 大護軍 盧恕를 시조로 하는 가계, 관력과 행력, 생몰년월일, 葬地 및 移葬地, 성품, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
通訓大夫行禮曹正郞兼春秋館記注官孫公墓碣銘 (25)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 문신 灘西 孫以雄(1680∼1748)의 墓碣銘이다. 신라 孫順을 시조로 하는 가계, 행력 및 관력, 지극한 효성과 독실한 학문, 생몰년월일, 葬地, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
涵溪鄭處士墓碣銘 (27)
조선 숙종 대에 활동한 遺逸 涵溪 鄭碩達(1660∼1720)의 墓碣銘이다. 그의 손자 鄭一鑽의 부탁을 받고 썼다. 李滉을 사숙하고 李玄逸, 李惟樟에게 배운 학문과 그 연원, 강학과 후학 양성으로 보낸 평생 행적, 생몰년월일, 장지, 고려 知奏事 鄭襲朋을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
從仕郞鄭公墓碣銘 (30)
조선 인조에서 현종 대에 살았던 鄭時僑(1635∼1665)의 墓碣銘이다. 그의 玄孫 鄭夏浚의 부탁을 받고 썼다. 고려 知奏事 鄭襲朋을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 품성과 자질, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
學生趙君墓碣銘 (31)
隱逸 趙宇遠의 墓碣銘이다. 관직에 뜻을 접고 독서로 평생을 보낸 삶, 생몰년도, 고려 金校大將軍 趙仁平으로 부터의 가계, 부인과 자손을 기록하고 있다.
僉知尹公墓碣銘 (32)
조선 숙종에서 영종 대에 살았던 遺逸 尹起莘(1684∼1763)의 墓碣銘이다. 지극한 효성・丁時翰을 스승으로 한 학문 등을 중심으로 한 평생 행적, 생몰년월일, 葬地 및 移葬地, 고려 尹忠輔를 시조로 한 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
通訓大夫行兵曹正郞金公墓碣銘 (34)
조선 숙종 대에 활동한 문신 三玉堂 金夏鉉(1620∼1694)의 墓碣銘이다. 숙종의 인현왕후의 폐위 직후 관직을 버리고 낙향한 것을 중심으로 한 행적과 관력, 고려 都觀察使 李自粹를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
李處士墓碣銘 (35)
조선 숙종에서 영조 대에 살았던 隱逸 同菴 李學中(1704∼1755)의 墓碣銘이다. 문장과 학문, 고려 遁村先生 李集을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손, 李德冑 등 친우들의 그에 대한 평가 등을 기록하고 있다.
贈嘉善大夫禮曹參判兼同知義禁府事五衛都摠府副摠管行奉列大夫黃海都事趙公墓碣銘 (37)
조선 숙종 대의 문신 幽溪 趙鳳徵(1657∼1716)의 墓碣銘이다. 고려 僉議中書事 趙之壽를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 관력과 행력, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
通訓大夫豐德府使李公墓碣銘 (39)
조선 헌종에서 숙종 대에 활동한 문신 李夏徵(1635∼1695)의 墓碣銘이다. 唐나라 장군 蘇定方 휘하의 中郞將 李茂를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 1695년 어머니의 상을 치루는 과정에서 건강을 해쳐 병으로 죽을 때까지 지방관으로 베푼 善政을 중심으로 한 관력과 행력, 성품, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
通德郞李公墓碣銘 (42)
조선 현종에서 영조 대에 살았던 隱逸 李瀇(1669∼1743)의 墓碣銘이다. 전염병에 죽은 어머니를 장례지내는 과정에서 보인 효성 등 성품과 언행을 보여주는 일화, 唐나라 장군 蘇定方 휘하의 中郞將 李茂를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
三從兄學生公墓碣銘 (44)
三從兄 勉學齋 丁憲祖(1720∼1796)의 墓碣銘이다. 그의 아들 丁義命(1765∼1834)의 부탁을 받고 썼다. 평소 보아온 효성스럽고 우애로운 언행과 특히 사학에 조예를 보인 폭넓은 학식, 고려 檢校大將軍 丁允宗을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.

卷二十七
掌令柳公墓碣銘 (1)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 문신 涵碧堂 柳敬時(1666∼1737)의 墓碣銘이다. 그의 증손 柳晟休의 부탁을 받고 썼다. 고려 寶文閣直提學 柳克恕를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 관력, 관직에 있을 때 공정한 업무 처리와 강직한 언행을 보여주는 일화, 李惟樟・丁時翰을 스승으로 한 학문, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
嘉善大夫行成均館大司成兼同知義禁府事晉善君姜公墓碣銘 (4)
조선 현종에서 숙종 대에 활동한 문신 姜碩賓(1631∼1691)의 墓碣銘이다. 고구려 兵馬元帥 姜以式을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 관력 및 행력, 부인들과 자손, 본인과 부인의 葬地 등을 기록하고 있다.
學生洪公墓碣銘 (8)
조선 영조 대에 활동한 儒生 洪重熙(1707∼1756)의 墓碣銘이다. 그의 손자 洪一浩의 부탁을 받고 썼다. 고려 直學 洪之慶을 시조로 하는 가계, 효성과 우애를 보여주는 일화들을 중심으로 한 행적, 생몰년월일, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
鄭處士墓碣銘-并序 (10)
조선 숙종에서 정조 대에 살았던 隱逸 鄭龍徵(1716∼1788)의 墓碣銘이다. 그의 아들 鄭趾顯의 부탁을 받고 썼다. 평안도 鐵山에 거주하기 시작한 한림학사 鄭霖을 중시조로 한 가계, 강학과 제자 양성 활동, 뛰어난 학행에도 불구하고 지역적 차별 등용되지 못한 상황에 대한 안타까움을 표명하는 내용, 생몰년월일, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
直長文公墓碣銘 (11)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 文弘凱(1571∼1638)의 墓碣銘이다. 그의 5세손 文就光의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때 의병을 일으킨 아버지 文緯世를 도와 적과 싸운 일・이괄의 난 때 勤王兵을 모집했던 일 등을 중심으로 한 행적, 신라 平章事 文多省을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
宣教郞贈司憲府持平黃公墓碣銘-并序 (12)
병자호란 때 강화도에서 청나라 군대에 맞서 싸우다 가족들과 함께 바다에 뛰어들어 목숨을 버린 黃汝耇(1608∼1637)의 墓碣銘이다. 그의 5세손 黃德正의 부탁을 받고 썼다. 투신 당시의 강화도의 상황과 그 이후 내려진 旌閭, 고려 侍中 黃忠俊을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 성품, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
生員丁公墓碣銘-并序 (15)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 儒生 丁可愼(1694∼1757)의 墓碣銘이다. 그의 아들 丁志德의 부탁을 받고 썼다. 효행과 우애를 보여주는 일화와 지인들의 평가를 중심으로 한 행적, 고려 檢校大將軍 丁允宗을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
再從弟正郞君墓碣銘 (18)
조선 영・정조대에 활동한 문신 再從弟 丁述祖(1729∼1799)의 墓碣銘이다. 고려 檢校大將軍 丁允宗을 시조로 하는 가계, 관력, 성품과 德性을 보여주는 일화, 생몰년월일, 葬地, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
三從姪進士君墓碣銘 (20)
조선 정조 대에 활동한 儒生 三從姪 丁若履(1747∼1799)의 墓碣銘이다. 생몰년월일, 장지, 효행과 우애 및 검약한 생활을 보여주는 일화, 고려 檢校大將軍 丁允宗을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
進士南公墓碣銘-并序 (21)
조선 광해군에서 인조 대에 활동한 安分堂 南佶(1595∼1654)의 墓碣銘이다. 그의 6세손 南道陽의 부탁을 받고 썼다. 唐나라 英毅公 南敏을 시조로 하는 가계, 1617년 알성문과에 급제하였을 때 합격자 榜 밑에 李榮久 등이 붙인 인목대비를 비방하는 글 때문에 인조반정 후에 그들과 함께 인목대비를 비난한 일당으로 몰리게 된 상황과 그 일을 기화로 관직에 나갈 생각을 접고 낙향하게 된 사연, 효성과 우애, 성품, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
進士洪君墓碣銘 (24)
조선 영・정조 대에 살았던 儒生 洪宗益(1728∼1774)의 墓碣銘이다. 그의 아들 洪集休의 부탁을 받고 썼다. 고려 개국공신 洪殷悅을 시조로 하는 가계, 생년, 행력, 몰년월일, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
進士盧君墓碣銘 (26)
조선 영・정조 대의 학자 漢源 盧兢(1738∼1790)의 墓碣銘이다. 그의 아들 盧勉正의 부탁을 받고 썼다. 진사 합격 이후 과거공부를 그만두고 輿圖 象緯 醫藥 卜筮 句股 등 다방면에 걸쳐 깊은 조예를 이루었으며 특히 詞章 방면에 독창적인 경지를 이루었던 그의 다재다능함・1777년 士風을 어지럽히는 인물이라는 죄목으로 사간 李顯永이 올린 상소로 渭原으로 유배된 일・洪翰輔과 申光洙에게 시문으로 인정을 받았던 사실 등을 중심으로 한 행적, 고려 三韓公 盧康弼을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
進士柳公墓碣銘 (28)
조선 인조에서 현종 대에 활동한 학자 百拙庵 柳稷(1602∼1662)의 墓碣銘이다. 그의 6세손 柳允文의 부탁을 받고 썼다. 1650년 영남 유생들을 이끌고 李珥와 成渾의 文廟從祀를 반대하는 상소를 올린 일로 儒籍에서 삭제되자 평생을 독서와 강학으로 보낸 그의 행적, 고려 개국공신 柳車達을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 葬地, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
進士孫公墓碣銘 (29)
조선 현종에서 숙종 대에 활동했던 隱逸 星隱堂 孫碩佐(1642∼1705)의 墓碣銘이다. 그의 현손 孫甲東의 부탁을 받고 썼다. 고려 政堂文學 孫贇을 시조로 하는 가계, 進士試에 합격하여 성균관에 들어갔고 經史에 능통하고 시문에 뛰어나 유생들의 推重을 받았지만 연로한 어머니 때문에 벼슬에 고향으로 돌아와 효양에 정성을 다하였고 이후 독서와 강학으로 일관한 그의 평생 행적, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
金處士墓碣銘 (31)
조선 숙종 대에 활동한 俟命齋 金時奎(1638∼1699)의 墓碣銘이다. 그의 현손 金相岳의 부탁을 받고 썼다. 부모에 대한 효성과 형제들에 대한 우애가 남달랐고 經術과 易理에 밝아 성균관의 동료 諸生들의 推重을 받았으며 權斗紀가 쓴 墓誌와 李東標가 쓴 俟命齋의 記文에 김시규 형제를 金安國(1478∼1543) 형제에 비길만하다고 칭송하고 있다는 내용, 생몰년월일, 고려 左僕射 金柱國을 시조로 하는 가계, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
掌令權公墓碣銘 (32)
조선 숙종 대에 활동한 權儹(1635∼1695)의 墓碣銘이다. 그의 현손 權性善의 부탁을 받고 썼다. 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 관력과 행력, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손, 朴世堂・崔奎瑞 등 친우들의 그에 대한 평가 등을 기록하고 있다.
贈執義李公墓碣銘 (34)
조선 광해군에서 인조 대에 활동한 李磊(1588∼1647)의 墓碣銘이다. 그의 후손 李仁相의 부탁을 받고 썼다. 아버지 金振文의 임진왜란과 이괄의 난 때의 활약・ 병자호란 때의 父子의 활동・광해군의 인목대비의 폐위에 반대 상소를 올리고 낙향한 뒤 독서와 강학으로 여생을 보낸 삶 등을 중심으로 한 행적, 조선 定宗의 열세 번째 아들 李普를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.

卷二十八
縣監李公墓碣銘 (1)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 문신・학자 晦軒 李廷英(1545∼1627)의 墓碣銘이다. 그의 8세손 李漢敝의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때의 의병활동・ 독서와 강학 등을 중심으로 한 행적, 관력, 고려 陽城君 李秀匡을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
司禦趙公墓碣銘 (3)
조선 숙종 대에 활동한 문신 趙宇景(1653∼1713)의 墓碣銘이다. 그의 손자 趙時昇의 부탁을 받고 썼다. 관력, 고려 金吾衛大將軍 趙仁平을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
正郞金公墓碣銘 (4)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 문신 敬菴 金淮(1578∼1641)의 墓碣銘이다. 그의 5세손 金宗憲의 부탁을 받고 섰다. 고려 忠烈公 金方慶을 시조로 하는 가계, 관력과 행력, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
察訪趙公墓碣銘 (6)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 문신 北溪 趙光璧(1566∼1642)의 墓碣銘이다. 그의 후손 趙奎鎭의 부탁을 받고 썼다. 고려 侍中 趙孟을 시조로 하는 가계, 생몰년, 관력, 柳成龍에게 배우고 鄭經世・李埈 등과 강학한 그의 학문의 연원, 임진왜란 때의 의병 활동 등을 중심으로 한 행적, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
僉知蔡公墓碣銘 (8)
임진왜란 때 의병장 野叟 蔡弘國(1534∼1597)의 墓碣銘이다. 그의 7세손 蔡膺纘의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때의 활약 특히 정유재란 때 둘째아들 蔡慶達과 함께 순국한 興德 長登原 전투의 상황과 순국 순간에 대한 상세한 설명, 생몰년월일, 葬地, 고려 景平公 蔡松年을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
主簿申公墓碣銘 (10)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 학자 病翁 申弼貞(1656∼1729)의 墓碣銘이다. 그의 현손 申漢東의 부탁을 받고 썼다. 행적, 고려 개국공신 申崇謙을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 학문과 저술, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
參奉李公墓碣銘 (14)
조선 현종에서 숙종 대에 활동한 학자 瀨隱 李玄亮(1649∼1715)의 墓碣銘이다. 그의 증손 李磐의 부탁을 받고 썼다. 조선 敬寧君 李裶를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 행적, 장지, 성품과 행실, 학문, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
教官朴公墓碣銘 (16)
조선 영・정조 대에 활동한 학자 南野 朴孫慶(1713∼1782)의 墓碣銘이다. 그의 아들 朴漢東의 부탁을 받고 썼다. 고려 尙書 朴善爲를 시조로 하는 가계, 행적, 학식과 품행을 보여주는 일화, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
僉樞柳公墓碣銘 (19)
조선 영・정조 대에 활동한 학자 蘆厓 柳道源(1721∼1791)의 墓碣銘이다. 그의 아들 柳範休의 부탁을 받고 썼다. 고려 掌令 柳濕(1367∼1439)을 시조로 하는 가계, 행력, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
僉知洪公墓碣銘 (22)
조선 숙종에서 영조 대에 살았던 학자 菊西 洪重潤(1675∼1755)의 墓碣銘이다. 고려 直學 洪之慶을 시조로 하는 가계, 지극한 효성을 중심으로 한 행적, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
獻納洪公墓碣銘 (24)
조선 영조 대에 활동한 문신 雯洲 洪應輔(1702∼1770)의 墓碣銘 이다. 그의 아들 洪正河의 부탁을 받고 썼다. 고려 直學 洪之慶을 시조로 하는 가계, 관력, 강직하고 세속을 따르기 싫어하는 성정, 관직에서 일찍 물러나 부모 봉양과 학문에 전념하며 보낸 삶의 행적, 생몰년월일, 장지, 부인과 자녀 등을 기록하고 있다.
持平金公墓碣銘 (27)
조선 영・정조 대의 문신 棠溪 金光遇(1707∼1781)의 墓碣銘이다. 그의 아들 金命亨의 부탁을 받고 썼다. 관력과 행력, 뛰어난 詩文과 폭넓은 학문, 吳光運・姜樸 등 교유 인물, 생몰년월일, 장지, 大司憲 金永貞을 중조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
別提李公墓碣銘 (29)
조선 현종에서 영조 대에 살았던 학자 息山 李萬敷(1664∼1732)의 墓碣銘이다. 그의 증손 李敬儒의 부탁을 받고 썼다. 理氣論・天道論 등의 학설과 학문, 저술, 행력, 효행과 덕성을 보여주는 일화, 唐나라 장군 蘇定方 휘하의 中郞將 李茂를 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
兵曹參判崔公墓碣銘 (32)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 二友亭 崔光璧(1728∼1791)의 墓碣銘이다. 그의 從子 崔鳳羽의 부탁을 받고 썼다. 생몰년월일, 관력을 중심으로 한 행적, 효행과 우애를 보여주는 일화, 장지, 고려 侍中 崔阿를 시조로 하는 가계, 부인과 후손 등을 기록하고 있다.
同敦寧申公墓碣銘 (34)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 申匡堯(1725∼1799)의 墓碣銘이다. 그의 아들 申檃의 부탁을 받고 썼다. 생몰년월일, 관력을 중심으로 한 행적, 고려 개국공신 申崇謙을 시조로 하는 가계, 장지, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
同知權公墓碣銘 (38)
조선 숙종에서 영조 대에 활동한 학자 仙溪 權墉(1684∼1772)의 墓碣銘이다. 그의 증손 權相宇의 부탁을 받고 썼다. 丁時翰・李惟樟에게 배우고 權相一・李象靖・安鼎福 등과 교유하며 강학했던 학문, 고려 禮賓卿 權暹을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
同知高公墓碣銘 (40)
조선 영・정조 대에 활동한 무신 高亨謙(1733∼1792)의 墓碣銘이다. 그의 아들 高致健의 부탁을 받고 썼다. 효성과 우애를 보여주는 일화, 관직, 생몰년월일, 장지, 고려 司空 高令臣을 중조로 하는 가계, 부인과 자녀 등을 기록하고 있다.
淑夫人清州韓氏墓碣銘 (41)
조선 영・정조 대에 활동한 문신 李秀逸(1705∼1779)의 妻 淑夫人 清州韓氏(1705∼1788)의 墓碣銘이다. 그녀의 아들 李景溟의 부탁을 받고 썼다. 증조부 韓景愈에서 부터의 가계, 德行, 성품, 생몰년월일, 葬地, 자손 등을 기록하고 있다.
牧使洪公墓碣銘 (43)
조선 숙종 대에 활동한 문신 洪重周(1659∼1719)의 墓碣銘이다. 고려 直學 洪之慶을 시조로 하는 가계, 관력을 중심으로 한 행적, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.

卷二十九
贈左承旨姜公墓碣銘 (1)
조선 선조에서 인조 대에 활동한 문신 西湖 姜渭聘(1569∼1637)의 墓碣銘이다. 그의 5세손 姜氵策來의 부탁을 받고 썼다. 병자호란 시 강화도가 함락되어 포로가 되었을 때 항복 권유를 거부하고 순절한 그의 충의를 중심으로 한 행적, 관력, 생몰년월일, 장지, 고구려 兵馬元帥 姜以式을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
生員李君墓碣銘 (2)
조선 영조 대에 활동한 儒生 李宇溟(1727∼1767)의 墓碣銘이다. 그의 동생 李景溟의 부탁을 받고 썼다. 행력, 생몰년월일, 장지, 고려 文靖公 李穡을 시조로 한 가계, 부인과 자녀 등을 기록하고 있다.
生員崔公墓碣銘 (4)
조선 영조 대에 활동한 儒生 崔光岳(1723∼1773)의 墓碣銘이다. 그의 아들 崔鳳羽의 부탁을 받고 썼다. 동생 崔光璧이 기록한 그에 대한 평가, 고려 侍中 崔阿를 시조로 하는 가계, 부인과 후손 등을 기록하고 있다.
進士黃公墓碣銘 (5)
조선 영조 대에 활동한 儒生 黃最(1680∼1750)의 墓碣銘이다. 그의 손자 黃德吉의 부탁을 받고 썼다. 학식과 덕행, 조선 개국공신 義原君 黃居正을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
學生黃公墓碣銘 (7)
조선 영조 대에 활동한 儒生 黃以坤(1719∼1750)의 墓碣銘이다. 그의 아들 黃德吉의 부탁을 받고 썼다. 학식과 덕행, 조선 개국공신 義原君 黃居正을 시조로 하는 가계, 생년, 몰년월일, 장지, 부인들과 자손 등을 기록하고 있다.
後松齋金公墓碣銘 (8)
조선 선조에서 광해군 대에 활동한 隱逸 後松齋 金士貞(1552∼1620)의 墓碣銘이다. 그의 6세손 金宗憲의 부탁을 받고 썼다. 임진왜란 때 의병을 일으켜 적을 무찌른 공적을 중심으로 한 행적, 성품, 학식, 李埈・李潤雨 등 교유 인물, 유성룡의 그에 대한 평가, 생몰년월일, 장지, 고려 忠烈公 金方慶을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
學生洪公墓碣銘 (10)
조선 숙종 대에 활동한 隱逸 洪敍禹(1656∼1719)의 墓碣銘이다. 그의 玄孫 洪鼎健의 부탁을 받고 썼다. 숙종 때 인현왕후의 폐위를 반대하는 상소를 올린 일을 중심으로 한 행적, 효행과 성품, 고려 太師 洪殷悅을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
兀山趙公墓碣銘 (12)
조선 숙종에서 영조 대에 활동했던 시인・학자 兀山 趙冑一(1706∼1776)의 墓碣銘이다. 그의 아들 趙時昇의 부탁을 받고 썼다. 그의 시풍에 대한 평가, 성품, 효행, 고려 大將軍 趙仁平을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자녀 등을 기록하고 있다.
學生趙公墓碣銘 (13)
조선 숙종 대에 활동한 趙濟普(1682∼1728)의 墓碣銘이다. 효행, 閔昌道의 무고로 죽임을 당하게 되는 상황, 文正公 趙光祖로부터의 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
市隱孫公墓碣銘 (15)
市隱 孫守曾(?∼?)의 墓碣銘이다. 그의 손자 孫義東의 부탁을 받고 썼다. 효행을 보여주는 일화, 생몰년월일, 장지, 신라 효자 孫順을 시조로 하는 가계, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
處士權公墓碣銘 (17)
조선 숙종에서 영조 대에 활동했던 隱逸 權頎(1645∼1730)의 墓碣銘이다. 그의 손자 權祮의 부탁을 받고 썼다. 평생 행적, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.
學生權公墓碣銘 (19)
이웃의 노인 權言庸(1716∼1791)의 墓碣銘이다. 그의 손자 權亻寅의 부탁을 받고 썼다. 일화를 중심으로 한 평생의 행적, 고려 太師 權幸을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 장지, 부인과 자녀 등을 기록하고 있다.
學生崔公墓碣銘 (22)
崔道敏(1716∼1767) 墓碣銘이다. 그의 아들 崔秉浩의 부탁을 받고 썼다. 효행을 중심으로 한 행적, 고려 慶興府院君 崔必達을 시조로 하는 가계, 생몰년월일, 부인과 자손 등을 기록하고 있다.